私達家族が毎日曜日、車で片道1時間半以上かけて通う教会で用いられる賛美歌の一つを紹介します。

 

「 The Power of the Cross」直訳すると「十字架の力」ということになりますね。

 

「イエス・キリストは十字架の上で死んだ」この事実を言葉の通りに知っている人は少なくはないでしょう。

けれど、

このイエスの十字架が持つその真意について知っている人は

多くはないはず。

 

この The Power Of The Cross はイエスの十字架のその真意について歌ってます。

 

まずは聞いてみてください。

 

 

リンクの下にイエス・キリストの十字架の意味について説明もさせて頂いていますので、興味のある方は是非、読んでみてください。

 

 

 

イエス・キリストの十字架とは

自ら進んで十字架にかかられたイエスキリスト

多くの人は「イエス・キリストは十字架に架けられた」とフツーに思っているはずです。「架けられた」とは受動態ですね。誰かによって十字架に架かって死ぬように仕向けられたという、受動態。

 

けれど事実は全く違うのです。(これは聖書について学ぶと分かります)

 

イエス・キリストは、自ら十字架にかかられたのです。

十字架上での死を自ら選ばれたのです。

そして、もっと言えば、イエス・キリストは聖書のとしての全知全能の力をもお持ちであったので、十字架上での死を逃れようと思えば、それさえも100%の確率でできたことなのです。

 

け、れ、ど

イエス・キリストはこの死を逃れることは選ばずに、

この死を選ばれたのです。

 

は??? と思われますよね?

何のために!?と思いませんか?

 

十字架刑とは

当時、十字架刑は見せしめの極刑でした。

人々の目前で、極悪人の受刑として、

釘で打ち付けられた手足でのみ自分の体重を支える苦痛と屈辱を、

私達は想像さえできません。

その上、

十字架上のこの体制では普通に息をすることさえもできないといいます。

つまり、死んでいく苦しさは窒息死に値するということです。

 

十字架上の死がこのような残酷な死であるにも関わらず、

そして、

この死を100%自分の力で免れることができたにもかかわらず

この死を自ら受け入れられたのが、神イエス・キリストです

 

その理由を、あなたは想像できますか?

 

イエス・キリストが十字架刑を避けなかった理由

それは、

であり

また全く罪を犯したことのない完全な人でもあったイエス・キリストが

十字架上での死、全ての人間=罪人の罪の贖いの死を遂げることによって、

あなたと、私と、そして全人類を救う事ができるという

父なる神の御心があったからです。

 

十字架上での神イエス・キリストの死は、

イエス自身のためになる部分は何一つなく、

その全てが、あなたと、私とそして全人類を救うためという贖いの目的のため

だけ ONLYでした。

 

イエス・キリストは、あなたのために十字架にかかられたのです。

あなたがそのことを信じるなら、

あなたは死の恐怖から開放されることになります。

罪から開放され、罪の報酬である死の恐怖からの開放により

自由が与えられます。

 

信じられない?

 

当然です。

信じられないのが人間にとっては自然です。

だから

あなたは他の人と何も違っていません。

 

でも、唯一私と違っているところがあるとすれば、

 

「イエス・キリストは、私の罪をあがなうために十字架にかかり死に、

墓にまで葬られ、

三日後に蘇られたかた、私の救い主です」

と信じているこの一点においては

明らかに異なります。

 

信じられないですよね。

信じたくても、信じられそうにない、ですよね。

 

なんで自分が罪人と呼ばれないといけないんだ、

そう思いますよね。

 

一人の人の中に、どうやって神の力が存在するんだ?

 

大体2000年以上前のことがどうして、今の自分に関係があるんだ?

 

そうそう。

いろいろ、

いろいろ、

疑問が湧いてきますよね。

 

だから、学ぶ必要があるんです。

イエス・キリストの十字架が持つ力について。

 

ここまで読んでいただいたあなたの目の前にある選択肢は、

たった2つです。

 

信じられない!といってイエスキリストの十字架について考えることを拒否するか、

それとも、イエス・キリストの十字架についての学びを始めるか。

 

聖書がどういう書物であるかということについても、

あなたには2つの選択肢しかありません。

聖書に書かれていることをすべて「神の言葉」真実として信じるか、

それとも

聖書を、この世に数しれず存在する人間の創作により創り出された

宗教や夢物語のように

「事実と真理」抜きの書物の一つと考えるか。

 

この世の多く人が、後者を選んでいます。

それは何故か?

それは、

後者の選択をすれば

今までの生活、自分を変える必要がないと分かっているから。

 

つまり

聖書に書いてあることを真実として信じることは

自分の今の生き方に「変えざるを得ないこと」が含まれていることを

まざまざと見せつけられるという「予感」がしているからです。

 

そして、

今の自分の生き方を「変える」ことは

とても困難なことと感じ

自分にはできそうにない

半ば信じ

できないという事実に向き合うことが

怖いのです。

 

イエス・キリストについてまだ、あまり良く知らないにも関わらず、

あなたの心の中には、

イエス・キリストによって照らされ、示されたくない、

隠しておきたい「なにか」があることを

あなたは実は

感知しているからなのです。

 

でも、心配しないでください。

 

信じるとか信じないとか

答えは、今出す必要はありません。

 

あなたが今できることは、

聖書についての学び、正しい学びを始めることです。

 

信じるかどうか、信じれるかどうかは学び始めないことにはわからない。

 

信仰は、実は、

「信じる」という自動詞で表されることではなく、

信じれるかどうかー可能動詞に近く、

でも実のところは信じさせてもらえるかどうか?という

受動態の動詞で表されるべき事なのです。

これはつまり、

イエス・キリストを救い主として信じるかどうかについては、

神の導きに委ねられているということです。

 

そしてもうひとつ、

あなたがイエス・キリストを自分の救い主であると信じたその時から、

あなたに

イエス・キリストの力が与えられます。

信仰の力です。

だから、

自分一人で「変わる」ために

戦う必要はないのです。

 

キリスト教信仰の主体は

神、イエス・キリストですから。

 

新共同訳   新約聖書

ヨハネによる福音書/ 15章 16節

あなたがたがわたしを選んだのではない。

わたしがあなたがたを選んだのである。

そして、

あなたがたを立てた。

それは、あなたがたが行って実をむすび、

その実がいつまでも残るためであり、

また、

あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、

父が与えて下さるためである。

 

マタイによる福音書/ 07章 07節

求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば、見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

 

6:マタイによる福音書/ 07章 08節

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、

門をたたく者はあけてもらえるからである。

 

 

Lyrics  歌詞

 

Oh, to see the dawn 、Of the darkest day: Christ on the road to Calvary. 

Tried by sinful men, Torn and beaten, then Nailed to a cross of wood. 

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— We stand forgiven at the cross. 

 

Oh, to see the pain 、Written on Your face, Bearing the awesome weight of sin. 

Ev’ry bitter thought, Ev’ry evil deed Crowning Your bloodstained brow. 

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— 

We stand forgiven at the cross. 

 

Now the daylight flees; Now the ground beneath Quakes as its Maker bows His head. 

Curtain torn in two, Dead are raised to life;  ”Finished!” the vict’ry cry.

 

CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Christ became sin for us; Took the blame, bore the wrath— 

We stand forgiven at the cross. 

 

 Oh, to see my name, Written in the wounds, For through Your suffering I am free. 

Death is crushed to death; Life is mine to live, Won through Your selfless love.

 

 

 FINAL CHORUS: 

This, the pow’r of the cross: 

Son of God—slain for us. What a love! What a cost! 

We stand forgiven at the cross. 

 

WORDS AND MUSIC BY KEITH GETTY AND STUART TOWNEND © 2005 THANKYOU MUSIC(PRS) ADM WORLDWIDE AT CAPITOLCMGPUBLISHING.COM EXCLUSING EUROPE WHICH IS ADM BY INTEGRITYMUSIC.COM

 

素敵な信仰告白=聖書の神体験談 のYou Tubeにであったのでシェアします。

是非見てください。

 

ここまで読んで頂いて、本当にありがとうございました。

The Power Of Cross の意訳ができましたら、紹介させていただきますね。

 

Cororin