お前たちは傲慢になったね

 

わたしたちが作り出した お前たち

わたしたちに似せて 愛を溶け込ませて お前たちに与えた 

魂。

この魂を持って わたしたちとお前たちと

愛を通わせる関係を 続けていこうと考えたのだよ

 

なのに

お前たちは傲慢に陥ってしまった

私の たったひとつの禁止命令に背いてしまった

その他には何一つ お前たちに禁止したものはなく

その唯一の禁止命令以外のことについては すべて 許されていたのに

 

お前たちは 傲慢になったね

私の たった一つの禁止命令に 背いてしまったから

 

私の被造物であるお前たちの幸せは

私と共に在る時は 完全なものだった

 痛みも 悲しみも 病も涙も 

そして

死さえ無かった

お前たちが私の たった一つの禁止命令に 背くまでは ね 

 

私がお前を創り

お前の命の時間を より良いものにするために

お前の良き助け手として 

お前自身の一部を用いて 私はエバをも造った

 

お前自身の一部から造ったエバは

お前にとって 最高の助け手だった

お前たちは しばらくの間 お互いを喜びあい、慈しみ合った。

 

********

 

それなのに

 

お前たちは 傲慢になってしまった

たった一つの 私の禁止命令に 背いたことによって。

 

「その木からその実を取って食べてはいけない」という

唯一の禁止命令を与えたその木の実、

「善悪を知る知識の木の実」は 

私達とお前たちにとって 

信頼の証の木の実 となるはずだった

 

私達が お前たちに与えた たった一つの禁止命令は、

お前たちに 選択肢を 与えた

わたしたちの命令に「従うか」「従わないか」という

選択の自由を 与えたのだ。

 

わたしたちは お前たちを 

全て私の言いなりなる 操り人形のようには 創らなかった

私達と お前たちの間にある 

「創造主とその被造物」という 明らかな関係性の上に

お前たち自身の意志で 創造主に従う 

という選択肢を 

 選ぶことで

いつも 選ぶことで

信頼という関係性を豊かに加えようと考えた。

 

わたしたちと お前たちの間の 信頼関係を保ちつつ

お前たちに 自らの意思で 正しい選択する という

自由の尊さと重さを 

知ってほしかった

 

一つの禁止命令が お前たちに与えられたということ 

それはつまり 

自分の意志を働かせて選ぶという

お前たちが いつもいつも 今も 欲して 叫んでいる 

選択の自由 が与えられるためでもあった

 

選択の自由とは 

選択肢が在るところでしか 存在せず

全てが許されているところに 選択の自由はないし

すべてが決められているところにも 存在しない

 

制限がある中にあって、選択肢が存在していること

それでこそ 

自分の意思をもって 選ぶ という

尊い 選択の自由が 存在できる

 

わたしたちがもし

唯一の禁止命令を お前たちに与えず

ただ

お前たちはどの木からでも その実を取って食べていい

といったとしたら?

善悪を知る知識の木からはその実を取って食べてはいけない と

禁止命令を与えなかったとしたら?

 

お前たちは

選択の自由、

自分の意志を働かせて 選ぶ という

自由の尊さと重さを

知ることは なかった。

 

もし

全ての物を食べることが許されているエデンの園で生きていたなら

お前たちは 自分の意思を働かせる事なく 過ごし

自分の意思を持ち、考え、意識して愛する者として創られた

自分という存在そのものを

見失っていたかもしれない

 

************

 

そして

お前たちは 傲慢になってしまった。

与えられた 選択の自由で 誤った選択をしてしまったから

 

「私たち創造主なる神の 唯一の禁止命令に従わなかった」

このことは

創造主に従い生きることでなく、

創造主に従わないことを 選んでしまったということ

 

だから

お前たちは 傲慢になってしまった。

 

創造主の神ではなく、

自分自身が自分の神となり

神の基準ではなく

自分の基準に 従い生きることを選んでしまったから

 

この 誤った選択により

わたしたちと お前たちの 信頼関係は崩れ去り、

それと共に

お前たちの 完全な幸せも

壊れ去ってしまった

 

お前たちの人生に

苦しみと悲しみ、涙と病が入り込み

そして

肉体の死が

 誰にとっても不可避のものとなってしまった。

だから お前たちは

いつ襲ってくるかも分からない死の恐怖に

怯えなければならなくなった。

死への恐怖の大きさゆえに

必ず訪れる 死を 自分の生の中から押出し

できるだけ 

見なくてもいいように、

できるだけ

考えなくてもいいように

心と体から 死を引き離して

生きるようになった

 

目に見えることが全てと信じ

目に見えることだけが 真実であると信じ込まされ、

目に見えないもの=神、わたしたちの存在を

無視するに 至った

 

************

 

それで どうなったか?

 

お前たちは しあわせになったか?

 

自分自身が自分の神となり

神の基準ではなく

自分の基準に 従うことを選んだ最初のアダムの時以降

何千年も経た 今

生きることに伴う

苦しみと悲しみ、病と涙 そして死から

解放される方法を 手に入れたか?

 

お前たちは

神を無視し

自分が自分の神として

自分を幸せにしようと試みてきた

 

けれど

その結果は どうか?

 

神の命令に背くという 誤った選択をした時以来

変わることなく お前たちは

人生の苦難に会い 嘆き、叫び、涙し 落胆し

死の恐怖に 怯えている

 

そしてついには

自分が無視し続け、

求めることも 知ろうともしてこなかった 神に向けて 

つぶやく

 

こんなに苦しいのに助けてくれないなんて、

神なんか いるもんか!

神は どうしてこんな辛い人生を 私に 与えたのか?

なぜ、こんないい人が こんな辛い目に合わなければならなくて

世の中にいる 悪人が ひょうひょうと 幸せそうに 生きているのか!?

神は なにをしてるのか!?

と。

 

自分で選んで 神を無視してきたにもかかわらず

人間には もう どうすることもできないと思う 境地に立つ時

お前たちは わたしたちを 引き合いに出して つぶやく

 

 お前たちがいかに わたしたち 神のことを 意識的に無視しようが

お前たちが これっぽっちも 

お前たちの創造主である 私たち神について知らないとしても

 

「お前たちは わたしたち神の 被造物である」

とい このひとつの真実が

お前たちに 私の存在を 思い出させるのだよ

 

***********

 

だから

私たちのもとへ 帰っておいで

お前たちの 背きの罪を赦す準備は 整っている

 

わたしたちは 既に 2000年以上も前に

イエス・キリストを

お前たちの罪の贖いとして 

地上に送った

 

そして

 

イエス・キリストが 

その十字架上で お前たちの全ての罪の代価を

その血と命をもって 贖ったのだよ

 

私たち神による 「お前たちの背きの罪の赦しのための業」は 

既に 

完了している

 

この赦しを受けて

お前たちが 私のもとに帰ってくるために することは

 

イエス・キリストを

お前の 救い主と信じること

 

それだけ

 

それだけ

 

それだけ

 

それだけ だから。

 

私たちの愛する 私たちの愛おしい 被造物なる お前

 

お前の 全ての涙を知っているイエス・キリスト

最期のアダムであるイエス・キリストを通って

私たちのもとへ

帰っておいで

 

今が 再びの時

お前の 自由を用いて 選び

私たちに 

帰る 

 

 口語訳 新約聖書 

ヨハネによる福音書/ 03章 16、17節

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。

それは

御子を信じる者がひとりも滅びないで、

永遠の命を得るためである。

神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、

御子によって、

この世が救われるためである。

 

 

コロリン

 

みなさんこんにちは。

訪ねて頂きありがとうございます。

 

今日は、リブログ2段重ねです。

 

最近出逢ったアヤさんのブログ

慢性骨髄性白血病という難病のために

辛い治療を受けながら戦う日々に終止符を打ったアヤさんが書かれた投稿に、

胸が苦しくなりました。

 

治療をやめること=生きることを諦めること、病気に負けること 

と考える人たちの言葉に 傷つけられ 

生きる気力を弱められそうになる 

アヤさんのこころの叫び。

 

自分で生まれてきたくて生まれてきた人は一人もいない。

自分の命を選んで生まれてきた人も、一人もいない。

私達はみな、与えられた命を生きる存在。

 

与えられた命が、その中にどんなことを抱え持っているのかさえ知らないで、

それでも その命をすべて受け止めて 生きるのが 私達ではないですか?

 

人生には山もあり谷もあり、平坦な草原みたいな時も在る。

一人ひとりが生きながら歩く、山も谷も草原も、

同じように見えて 実は それぞれ異なっている。

 

一人ひとりが、自分の人生の山や谷、草原を歩いてきた自分だけの経験を持って、

未来を見つめ、予想している気になっている

そう、そんな気になっているだけで、その実 未来なんて誰にもわからない

あなたが経験した過去が、

他の人の未来と同じとは 言えない

多分、

同じではない

だって、

一人ひとりの人生がみんな違うんだから。

過去が違えば、今も違うし、未来だって違うから

 

ね、そうは 思いませんか?

 

私がアヤさんの投稿を読んで 思ったことは、

アヤさんは病気というつらい経験を経ることを通して、

真剣に 

命や生きるということについて 考えてるということ。

 

多くの日本人が、

日々の生活の中で大きく困ることなく 日々を過ごし、

寝て起きれば また明日になる って、

漠然と信じて生きている そんな今の世の中にあって、

アヤさんは、

しっかりと「自分の命と生き方」について考えた。

 

どういう方向を向いて 自分の命を用いて生きていこうかと 深く深く考えた。

そして、

アヤさんが見つけた一つの答えが

自分の笑顔もやりたいことも全て飲み込んできた治療をしないで、

少しでも多く笑顔を持って、やりたいことをして生きる という生き方だった。

 

生きることを諦めたのではなくて、

決して そうではなくて、

生きる方向を 変えた だけ。

自分の命の用い方を

生き方を

変えただけ。

世界観が変わっただけ。

 

考えないで ただ漠然と生きている 何万という人にはできないことを

アヤさんは した。

そう、

自分の命の用い方

自分の生きる方向を 

自分で決めるということを、ね。

 

こんなアヤさんに、言葉を紡ぐポプラ さんを

紹介したくなったのです。

 

 

身体的な苦痛を抱える命を生きながら

粛々と、

命と生を見つめるお二人が

それぞれの言葉の中に

優しさと励まし

そして

無数に連なるひとときの中に

いつも神の恵みを 見いだせますようにと

祈ります。

 

**********************************************************

今 この投稿を訪ねて頂いた方

どうもすみません。

なぜだか分かりませんが、

以下にリンクさせて頂いた 言葉をを紡ぐポプラさんの

「ひとときの連なりのなかに」の投稿に 

アクセスできなくなっていました。

 

ひとつ下の投稿もとても優しくて素敵ですので

是非

訪ねてみてください。

 

 

 

 

 CORORIN

 

 

みなさんこんにちは。

訪ねて頂きありがとうございます。

 

最近出会った素敵なブログのリブログです。

言葉を紡ぐポプラさんは、ご自身も重度の病をお持ちの方だそうです。

 

この投稿で私が受け取ったのは、

「悲しみは、乗り越えて先にすすむような事柄ではなく、

自分の中に溶け込ませて共に生きていく事柄」

というものでした。

 

とても素敵で、優しい表現だと思いませんか?


 

愛する人、大切な人とは、

地理的距離が在ってもなくても関係なく、

日常のなかでの存在であろうが

非日常の中での存在であろうが、

そんなことも関係なく、

自分が生きる人生の中にいつもその存在を感じていたい、

自分の人生に関わっていてほしいと感じる人たち。

 

こんな愛する人、大切な人との別れは、

誰にとっても辛く、悲しく、寂しいものです。

失った命の存在が、自分にとって大きければ大きいだけ、

別れは辛いものに成ります。

 

そんな時、

多くの人は「悲しみを乗り越えて」というような言葉を思いつきますね。

でも、

私はずっと、そんなことが出来るのだろうか?と思ってきました。

 

乗り越える?

乗り越えるとは、

そこを通り越して、それを自分の視界から外して後ろに追いやってしまうこと?

大切な人への思いを、

自分がこれから生きていく 人生の視界から外して、見ないようにすること?

 

それってなんか違うな、とずーっと考えていたのです。

 

自分にとってとても大切で在るが故に、今まで関係を保つ努力をしてきたのに、

死んじゃったからって、

その命との今までの関係を見ないようにすることなんて、

私にはできない。

 

尽きてしまった命を取り戻すことはできないけれど、

その命の存在が与えてくれた「様々な影響」は、

私の中で、生き続けていく。

私と共に、生き続けていく。

そう在ってほしいと思うし、そうしたいと思う。

 

そんな、ぼんやりした私の思いが、

 

ー悲しみは、乗り越えて先にすすむようなものではなく、

自分の中に溶け込ませて共に生きていくものー

 

という言葉に出会って、スッと、癒やされたのです。

 

そう、

乗り越えなくていい、

忘れなくていい、

溶け込ませればいい、自分の中に。

 

それが少しずつできてくる時、

私達は

失った大切な人のことを怖がらないで思い出すことも出来るし、

他の人にその人のことを話すことが出来るようになるんじゃないかな。

それは、

彼らがその命を持って分け与えてくれた、彼らからの「様々な影響」を

自分が生きるこれからの「生きる糧」にするということであり

「生きる力に変換」するということなんじゃないかな。

 

悲しみを自分の中に溶け込ませて、

その人と共に生きていけばいい。

 

そう思えて、嬉しかった。

 

言葉を紡ぐポプラさん

素敵な投稿を、

ありがとうございました。

 

CORORIN

 

 

 

みなさんこんにちは

訪ねて頂きありがとうございます。

 

さてさて、前回は

クリスチャンである私が

既に急逝した母について抱いている希望-

私が天国に行った時に

天国で母に再会できるかもしれない!という希望

を持っていると書きました。

 

これを読んでいただいた皆さんは、

果たしてどのように思われたのでしょうか?

 

何にせよ希望を持つのは、個人の自由?

希望って何?

天国なんて言う夢物語のようなところが実在すると

この人は信じているの?

この人は、自分は天国に行けることを前提に書いてる!?

 

死後の世界の存在も、

天国の存在も、

自分が天国に行けるかどうかも、

どれをとっても証明できることではないことを、

この人は信じてるの????

 

死後の世界の存在と、

天国の存在と、

アナタが天国に行けることを、

証明して見せてよ!

 

こーんなふうに感じた方、きっといますよね(ウィンク)!

 

もし私が、

聖書とキリスト教について今程は知らなかった時に

私が書いた前回の記事を読んだなら、

多分

上記のすべてのことが頭の中を駆け巡ったはずです(笑)

 

そして、

こんなことが言えるその理由についてじっくり聞いてみたい、

そう思ったのではないかと、思います。

 

なので、今日は

こんな昔の自分に対して話すつもりで

私がなぜこの希望を、今、持っているのか?

ほんのすこーしだけ

書いてみようと思います。

 

*********************

 

信仰とは何か?

新改訳聖書2017 新約聖書 ヘブルびとへの手紙 11章1節

さて、信仰は、
望んでいることを保証し、
目に見えないものを確信させるものです。
 
 
私の希望は、この聖句が言う信仰に基づく、希望です。
つまり、私は
聖書に書かれていることを信じる信仰により、死後の世界、天国という
目には見えないものが在ることを確信しているのです。
 

救いとはなにか?

新改訳聖書2017 新約聖書 ヨハネの福音書 3章16

神は、実に、

その独り子をお与えになったほどに

この世を愛された。

それは御子を信じるものが、一人として滅びることなく、

永遠の命を持つためである。

 

*** 言葉の説明 ***

神は、イエス・キリストの父なる神、全ての創造主なる神

実に、真実なこととして

その独り子とは、イエス・キリストのこと

お与えになったは、十字架上での贖いとなるためにこの世にイエスを送られたこと

 

この世は、全ての創造主なる神の存在を認めない被造物なる一人ひとり

愛されたとは、人を滅びから救うことを願われたこと

御子を信じる者とは、イエスの十字架上での死が、自分の罪を全て贖ったということを信じる者のこと

御子を信じるものが一人としては、「御子を信じる者➖全て」

滅びとは、魂が永遠の地獄に送られること

永遠の命を持つとは、神のいます天国へ入ることが「許された聖なる者」として頂く こと

 
つまり私は、
聖書という「神のみ言葉」に上記のように書いてあること、
「イエスを私の救い主と信じることのみONLYによって
私のこの肉体が死を迎えた後には、
私の魂は聖なる神のいます天国へ入ることが許される身とされる」ことを
信じています。
 
少し違った言い方をすると、
「聖書に書いてある神の約束なので、必ずそうなる」
という信仰とも言えます。

どちらにしても、私の信仰の土台は
神のみ言葉である旧約聖書と新約聖書にあって、
聖書に書いてあるが故に、
私には、天国へ行く確信が在るのです。
 
 
この確信に至るまで、クリスチャンとは名ばかりの約10年ほどを過ごし、
その後の10年間の人生の中で様々なことを経験させられつつ、自分の日常の中でいつもそばにあったいくつかの聖句が、自分の思考回路に静かな刺激を与え続けていたことに気づいた時、聖句は単なる世界のベストセラーの書物ではなく、私という個人に常に語りかける「神の言葉」であることにようやく気づくことができました。
 
世の中の価値観は常に移り変わります。
その中で、何が正しくて何がそうでないのか、自分自身の価値基準、そして目には見えなくて科学では証明できないことも含めた世界観を持つこと、それを維持することの困難さは強まるばかりです。
 
あっちを立てればこっちが立たず。そして自分の立ち位置さえも見失ってしまいそうになる世の中です。
 
聖書を学ぶことは
神について学ぶことであり、
神は全てのつまりアナタの創造主であり、
私達は神の被造物です。
創造主以上に
被造物のことについてよく知る存在はありません。
 
聖書の学びを初めてみませんか?
 
 
CORORIN
 
追伸
聖書が何者じゃ!?って思っていますか? 笑
 
次回の記事では、
聖書が何者か?
について書きます。
 

こんにちは。

訪ねてくださってありがとうございます。

 

前回は、命は誰のもの?ということに関して書きましたが、

今回は、クリスチャンとしての私が抱いている、

死後の世界ー天国での母との再会の希望について書きます。

 

****************

 

私の母が急逝した時、母は86歳でした。

私は既に20年ほども海外に住んでいて、

もし母に又は私自身に命に関する緊急なことが起きても、

言葉をかわすことが出来ないこともありうる、

ということはずっと意識して生きてきました。

 

私を日本への一時帰国に送り出す自分の家族と、

私を受け入れてくれる日本の兄家族の協力を受けつつ、

年に一回ほどではありましたが日本に帰国し、

母と一緒の日常を過ごしてきました。

そして

私が海外へ帰る別れの日にはいつも感じていました。

もしかしたら、これが

母と面と向かって会う最期になるかも知れない、

と。

 

母は、

人との交わりを愛し、最期の時まで畑仕事を愛した快活な人でしたが、

80代の人にとっての一年の重みは、若い人のそれとは明らかに異なります。

ほぼ一年ごとに繰り返してきた「母と私の地理的別れの時」ですが、

歳を経る毎に永遠の別れが近づいていることを

否むことはできませんでした。

 

母との事実上の最期の別れの時

海外在住者として習慣となったハグを

当然のようにしながら、

また会いに来るからね!元気でいてよ!といつものように声をかけると、

母は、寂しさの混じったかわいい笑顔で「はいっ」と

まるで言い諭された子供のような返事を返してきました。

そんな

本当に小さくなった母を腕の中に感じている私自身の胸の中には、

「もしかしたら、、」という思いが

いつも以上に強かったことを覚えています。

 

こうして母と別れたのは、2,022年11月半ばでした。

それは

2023年3月に母が逝ってしまう、ほんの3ヶ月半前のことでした。

 

姉からの母急逝の連絡に、娘が動揺しないわけはなく、

悲しみの涙ももちろんたくさん流しました。

しかし

クリスチャンとしてイエス・キリストの福音について学びつつ生きて来た中で、

人はどこから来てどこへ行こうとしているのか?という問いに対して、

私には確固たる答えがあります。

 

この答えを持っているということが、これまでの私を支えてくれています。

 

たとえ

母がイエス・キリストを信じたという明らかな事実は確認できなかったにしても、

これまでの母との時間を通して、

多くの時間を神イエス・キリストについて話し、話し合うことに使ってきたという

事実が私にはあります。

 

母が

イエス・キリストへの信仰を言葉にしなかったからということだけで、

イエス・キリストについて聞かされてきた母が

イエス・キリストを救世主として信じてはいなかったとは、

神以外の誰も、

断言できません。

 

イエス・キリストを信じることによって救われるチャンスは

意識の有無に関わらず

命在る限り存在します。

 

それ故に今、

私には希望が在るのです。

 

それは、

 

人が母に確認することが出来なくなってしまった今となっても、

母の急逝の前に、

全ての創造主であり、万能なる神が

その偉大な力を持って、

母を救いに導いてくれたかも知れない

という希望です。

 

希望があると言いながら、

かもしれない、という表現をすることに

首を傾げていますか?

 

でも、

私に知り得ないことについては、

カモシレナイ

と書くしかありません。

 

それであっても、

わたしにとって希望であることに変わりはないのです。

 

この私の希望の真偽は、

私が天国へ招かれた時に

明らかにされることです。

 

それは

天国で母に会えるかどうか?

によって明らかにされます。

 

もし会えなかったらと考えると

それはとても残念なことではありますが、

天国において

私はこの残念さに支配されて

惨めで悲しい時を過ごすことは無いのです。

 

これもまた、聖書の神の約束です。

 

だから、

結果がわからない現在においては、

「天国で、もしかしたら母に逢えるかもしれない!」

という希望をいだき続けて

今、私は

私の命を生きています。

 

人知では計り知ることの出来ない

全ての創造主なる神のみ力が

母の救いに現されているかも知れない!

と思う時、

天国での母との再会を想像し、

胸が踊ります。

 

これが、

母にイエス・キリストについて話してきて、

その母を亡くしたクリスチャンの私が

今も抱いている、

希望です。

 

CORORIN

いつもながら、お久しぶりです。

訪ねていただき、ありがとうございます。

 

前回の母の回顧録 

人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?

クリスチャンとして母の一周忌を終えて(1)では、

人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?

 

こんな根源的な問いを提起をしてみました。

コメントを頂いた方が一人ありました。

ありがとうございます。

 

さて、

(1)に引き続き今日の記事を訪ねていただいた皆さんは

この根源的質問について考えてみましたか?

 

皆さんの中には、

全てはビックバンから始まって、

単細胞生物から多細胞生物へと長いながい時間をかけて、

変化する環境に適合するための突然変異を繰り返してきた中で「進化」し、

人類猿から人間になったに決まってるでしょ。

つまり、人の祖先は猿でしょ。

と、

学校で唯一習ったこ進化論という仮定を「事実」と受け止めている人たち(昔の私も含めて)がほとんどなのではないでしょうか?

進化論によれば、

全ての始まりはビックバンで、

人間の祖先は 猿 !ですね。

 

または、

人がどこから来ようが、死んだ後どうなろうが、構わない。

今、命を受けて(誰から?)

この命を死ぬまで生きるだけ。

と考えている人も多いことでしょう。

(かつての私がそうであったように)

 

私達は、

命が在るから生きているし、その命の終わりには死ぬ存在。

 

この世に

たった一つしか存在しない「私の命」を生きているのは、この私だから、

この命は私のもの。

私の命は私の所有物だから、

この命が宿るこの体を用いてどのように生きるのか(またはいつまで生きようが、いつ死のうか)は、私の自由。

 

そんなふうに考えている人もいるかも知れませんね。

 

でも、考えてみてください。

あなたは、あなたの命がこの世に生まれる以前に

生まれたいという明らかな意思がありましたか?

そんなことは、誰にもわからないですよね。

では、

生まれたいと自分で希望したわけでもないのに、

この世に送り込まれたあなたの命は、

本当にあなたのものでしょうか?

 

あなたのその生きている命が、

なぜ?

どこから来たのか?

をはっきりしない限り、

あなたの命があなたのもの、あなたの所有物であるとは

言い切れなくはないですか?

だって

「命が自分のものだという」証拠が何もないんですものね。

 

一つの命があなたの体に宿り、

生きているのはあなたであることは事実でも、

あなたの体を動かしているいのちが、

あなたの意思によってこの世に存在するようになったことを証明することができないなら、

あなたは、

あなたのいのちの所有権を主張することは出来ないでしょう?

 

だから、

人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?

という根源的な問いについて、

考え、調べて見る必要が在ると思うのです。

 

自分が元気で生きているときにはあまり考えないことだと思うけれど、

このことを考えないといけない時が来たときには、

答えを見つけるまでの時間や体力がないことだって在るのです。

 

そして、自分のいのちに関してだけではなく、

自分の愛する人のいのちの灯火が消えそうな時、

愛する人を失う恐怖と悲しみに、私達は襲われます。

 

「私の愛するこの人は、

死んでしまったら どこへ行くのだろうか?」

と。

 

一人ひとりの体に宿っているいのちが、

どこから来て、どこ行こうとしているのか?

 

元気な時に、

切羽詰まってしまう前に、

この問の答えを見つけておくこと、

それが、

与えられている命、いつ終わるかも知れない命であっても、

安心して生きることにつながるのです。

 

****************

 

以下は

次の投稿の一部です。

 

私の母が急逝した時、母は86歳でした。

私は既に20年ほども海外に住んでいて、

もし母に又は私自身に命に関する緊急なことが起きても、

言葉をかわすことが出来ないこともありうる、

ということはずっと意識していきてきました。

年に一回ほどではありましたが日本に帰国し、

母と一緒の日常を過ごしてきました。

そして

私が海外へ帰る別れの日にはいつも感じていたことがあります。

母との事実上の最期の別れの時

本当に小さくなった母を腕の中に感じている私自身の胸の中には、

こうして母と別れたのは、2,022年11月半ばでした。

それは

2023年3月に母が逝ってしまう、ほんの3ヶ月半前のことでした。

それ故に私には、今、希望が在るのです。

 

それは、

これが

母を亡くしたクリスチャンの私が今も抱いている、

希望です

 

CORORIN

皆さんお久しぶりです。

訪ねて頂き、ありがとうございます。

 
 

さてさて、今年3月に母の死後1年が過ぎ、

遅ればせながら、ごくごく家族だけで

母の一周忌を済ませた。

そのために、12日間ほど日本に帰省し、今朝帰ってきました。

 

仏壇と神棚が有る家庭で育ち、

31年後にクリスチャンになったのが私です。

 

去年2023年3月4日、母の他界を知った私ですが、

海外在住という理由で地理的問題があり、

死後3日後の葬儀への参加には無理があったので参加しませんでした。

日本の多くの人が、もしかしたら

実の親の葬儀に参列できなかったことに

不憫さを感じるかも知れませんが、

私にとって、

葬儀(仏式)に出ないことは、生涯身につまされるような

問題ではありませんでした。

 

それは、

私はクリスチャンであるので、

肉体の死後も魂は存在することは信じていますが、

肉体が死んでそれを離れた魂について、

現世で行う供養に当たる法事等の行為が、

死後の世界に在る魂に何らかの影響を与えるということは

信じていないからです。

 

 仏教でいう供養、法要、つまり1,7,11,13,19,33回忌という法要は、

あの世に行った魂が成仏することを助ける、という意味があるようです。

それと同時に、

供養を行った家族の徳になるという意味も有るようです。

更には、

残された家族が故人に対して「供養という義務」を果たしたと安心できる

というような意味も有るようです。

 

宗教というものは、

目には見えない事々ー魂や死後の世界などに焦点が当てられていますよね。

魂は、目には見えないから、確かめることが出来ません。

そして一般的には、

死んで蘇った人は誰もいないということになっているので、

(実は、ただ一人、死から蘇った人がいるのですけれど、

そのことを根拠を知って信じる人は残念ながら多くはありませんが)

 

人は肉体の死後どうなるのか?

という根源的な質問に対して、自信を持って答えることができるのは、

これらについて学び信じている人以外には

いないのではないでしょうか。

 

この質問は実は、もう一つの根源的な質問と類似しています。

その質問とは、

あなたはどこから来たのか? というもの。

 

あなたは、

この2つの質問に対する、自分なりの確固とした答えを持っていますか?

 

確固としたというのは、揺るがないという意味であって、

もっと具体的に言えば、

自分の死、愛する人の死を前にしても、

「揺るぐことはない」「不安になることはない」

「自分が信じたようになる、と信じ抜くことが出来る」と

今の時点で思える「答え」のことです。

(これを、一般には信じるといいますね。)

 

もう一度、確認しておきますね。

問いの内容は、

人は肉体の死後、どうなるのか?あなたはどこから来たのか? 

 

言い換えると、

あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか?

 

母の一周忌法要(仏教式)への参加に際して、

家族の中で「死後の魂に対する考え方の異なる」一人のクリスチャンとして、

私はこのことについて一般の日本人の死生観について

改めて考える機会を与えられました。

母の回顧録 クリスチャンとして一周忌を終えて(2)へ

つづく

 

CORORIN

 

 藤川先生のように、

本来であれば治癒不可能的な精神疾患のみならず

成人病、慢性病からガンに至るまでの身体的疾患までが回復を見せ、

次々とその症例がブログ上に挙げられているこの事実を前に、

(サプリメントがどのような機序で体の中で用いられ働くのかについて知ってか知らずか?)サプリメント摂取を危険視する人たちは、

どのような反論をするのだろうか?

 

多くの病が、

診断を受け、一旦薬を飲み始めたら一生飲み続けなければならない

と言われる中で、

それらの薬が必要なくなるまでに回復される方たちが、

藤川先生の患者には後を絶たないかのように見受けられる。

 

サプリを高額で売るサプリ会社の回し者で、

会社から裏金をもらっているのではないか?とか

疑いたくなる気持ちも、今の世の中だからこそわからなくない。

けれど、

藤川先生が勧めるサプリメントとプロテインの摂取は、

一月に一人何万円も掛かるようなものではない。

 

「これ以上他人に騙されたくない」という気持ちも

わからなくはないが、

何が真実か自分で確かめようともせず、

疑い、否定、敬遠するのではなく、

まずは

自ら学んだ上で、

自分である程度納得して、やってみる! 

という勇気を持つことも、

未開の扉を開けるときには必要だと私は思う。

 

私は約一年くらい前から、

完璧からは程遠いにしても、

プロテインを取るようにし、

高蛋白、低炭水化物食を心がけてきた。 

 

そして

この一年で、

未だ私の期待通りの回復を見ない身体症状もあるにしても、

サポーターを使用しても痛かった右手のテニス肘様痛みと、

就寝時の腰の痛み、

夜間のこむら返りからは

すっかり解放された。

 

 更に、

更年期も地についてきた年齢で体幹周囲に顕著になってきたダブツイたモノが取れ、体重は4キロ以上減り,、

歩くときも自然と下腹部に力が入るようになったので、

自分の体への頼りなさ感がなくなり、

歩くことが億劫でなくなった。

 

これからも、

藤川先生の著籍とブログをフォローすることで、

分子栄養学について学びながら、

自分の体が必要としている栄養素とその必要量を

試行錯誤しながら、

私の体が必要としている

必要十分量のサプリメントの摂取を

続けたいと思っている。

 

コロリン

昨年2022年の10-11月には、大好きな農業をしていた86歳の母が、2023年のひな祭りの翌日に一人ベッドの上で急逝した。

 

 

 

 

 

 

 母と離れて海外に住むようになってもうすぐ20年になる私は、この悲しいニュースを義理の姉のライン電話で知った。あまりの突然な悲報にただ、ありがとうとよろしくお願いしますとしか言えなかった私だったが、すぐに日本に帰国したとしても2日後の葬儀にはギリギリ間に合うかどうかの状況の中だったので、私は葬儀後に帰国することに決めた。

 

 私個人的には、死後の体の葬り方にはあまり固執した考えを持っていない。

私はクリスチャンであるから、死後の世界が存在することは信じているが、この世における人間の肉体は老いて、衰弱し、朽ちて死するものだと考えているし、 死後の体の葬り方が死後の世界の命に何らかの影響を及ぼすとは信じていないから。

死後の葬り方に自分のエネルギーを注ぐよりも、私は、私の大切な人たちとは生きている内に関係を深めるために時間とエネルギーを注ぐように生きたいと考えている。

 

 私の兄は国外に住む私のことを慮ってくれ、時間を置いて、私が来られる時にいつでも来ればいいと言ってくれたが、母と私は地理的に離れ、日常を共にしていなかったので、この世から消えてしまった母の死を受け止めるには、時間をおかず、できるだけすぐに現地で事実に直面するために帰ったほうがいいと感じた。

 

日常と非日常が分ける悲しみの中身と

 私はもう20年ほども海外で暮らしているので、私の日常の生活に、母という物理的存在はなかった。もちろん、私の心の中にはいつも「日本に居る母」は存在していた。(このことは、私が日本に帰国するということは、私にとっては非日常だったんだと、後になって気づくことになった。)

 母の急逝にも関わらず、葬儀がその2日後ということは、日本の兄夫婦とその子らはこれから怒涛のような時間を過ごすことになると予想するのは、困難なことではなかった。そのことを含めて私は兄と姉に「よろしくお願いします」と言ったのだった。

 

 日本帰国の飛行機に乗るまでに、私には約3日間あった。

私は姉からの連絡を受けたその後から母を失った悲しみを、折りに触れ涙に込めて流すことができた。葬儀を執り行うまでに必要な様々な事々の段取りに悲しみを押しやられたり、覆い隠されることなく、思い出しては涙することができたことは、私にとってはとても幸いなことだった。

 

 私のそばには夫が居てくれ、私達が通う教会の牧師は電話で私の悲しみに寄り添ってくれた。私自身の近しい人たちに母の訃報を連絡した。これらのことを私のペースで行うことができたことは、悲しみの感情にただ押し流されることなく、母の死を少しは理性的に考えることができたようにも感じている。

 

日常生活の中で迎える喪失感
 

 一方、日本帰国後、母という物理的存在が各々の日常の中にあった人たち、つまり私の兄と義理の姉、そして母がその日常で交流を持っていた少なくはない方々特に高齢の方々にみる衝撃の大きさは私のそれとは異なっていた。在日中それはあたかも、娘である私の感じている喪失感よりも深くて強いもののように感じられた。

 

 母は86歳という高齢であったにしても、まだ畑もし、いくらかの家事もし、散歩にも行ったり近くの店に歩いて買い物も行っていた。こんな母の急逝だったから、母の死の前日や数日前に元気(そうな)母に会って言葉をかわした人たちも少なくなかった。

 こんな人たちにとって、突然の母の死は正に信じられないと言うしか無いことだった。 たとえ葬儀に参列し、棺の中の母に最期の別れの花を手向けて頂いたにしても、各々の日常で母と関わりを持ってくださっていた方々には、この事実を受け入れることは、とてつもなく困難なことのように、娘の私には感じられた。

 

葬儀に関する諸々の準備に忙殺される遺族の悲しみ

 

 葬儀の2日後に実家に帰った私は、兄と義理の姉と一緒の時間を過ごした。

ベッドの中で息絶えていた母を発見した義理の姉と、文字通り悲しむ間もなく葬儀の準備に追われて過ごした兄。私が実家に着いたのは、二人が親戚や子供達の有り難い助けを与えられながらこの依然としてコロナ禍での怒涛の葬儀を終え、文字通り一息つけると感じられたタイミングだった。

 

 姉(義理の姉)はこの日、葬儀のために帰省していた子供二人を兄と共に駅まで送った後に、車の中で初めて泣いたと明かしてくれた。それから数ヶ月ほどは、ドアを開けようとすると、母の寝室の戸を開けて母の死を発見した時がフラッシュバックして動機がするようになり、夕刻に電気のついていない誰もいない家に帰宅することにも、大きな不安を抱えている。

 

明らかなトラウマ。

 

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2024年2月。 

約二週間ほどで母の一周忌が来る。 

母がいなくなってから、もうすぐ一年。

 

この間、

私は昨年9月にも一時帰国して、

母のいなくなった実家に二週間ほど滞在した。

母の寝室にはもうベッドは無い。

 

去年3月、葬儀直後に日本帰国した私は、母の寝室の遺品整理をした。

近年終活をするようにと、私は良く母に言っていたし、

そして母も時折 衣服の整理など終活をしていたようではあった

実際、遺品整理をした私にしてみると、

「どうしてこんなに服がいるの?」と思うくらいに

沢山のお出かけ用のきれいに保管された服があった。

 

沢山の人にもらって頂き、

いくつかは、わたしが帰省時に着るように保管してもらい、

それでも、沢山捨てた。

仕方ない。

 

わたしは、

母が使っていたと思われるハンカチと

新しいハンカチを数枚づつ

自分のスーツケースに詰めて持ってきた。

 

いま、時折それらのハンカチを使う。

 

一周忌の予定は6月。

 

その時も、母のハンカチをもっていって、

私の涙を拭ってもらおう。

 

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そして(ヨブは)言った、

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。

主が与え、

主が取られたのだ。

主のみ名はほむべきかな」。

ヨブ記/ 01章 21節

 訳名:「口語訳」聖書種類:「旧約聖書」書名:「ヨブ記

 

 

cororin

 

 

こんにちは。

 前の投稿では、母の死の連絡を受けた私の心の中に「とうとう、本当にこの日がきてしまった」という思いがあったと書いた。

 

 

 

 

 

 今日は私自身の回顧録として、私と母の有様と母の大雑把な人間像について書いておこうと思う。 2023年4月記 2023年2月編集

 

 私は、三人兄妹の末っ子一人娘という家族構成の位置に生まれた。そして9年間の看護師職を経て、ニュージーランド人と結婚し約7年間の在日生活の後2004年に海外暮らしを始め今に至る。現在はオーストラリア在住。

 

 つまり、親の住む国を離れてもうすぐ20年位になろうとしている。この間、おしなべておおよそ一年に一回くらいは日本に帰国していた。日本を出たときの母は当時66歳。

 

日本一の農家になりたいという夢

 母にとっては60歳以降が人生の花?とも呼べるような時で、20代前後の若き日に一度は「日本一の農家になる!」と母の兄と共に意気込んだ農業に本腰で取り組み始めた。母は、肥沃ならぬ貧沃な土地の性格と格闘しながらも人に褒められる様な農作物を育てては出荷し、この歳にしては立派な小遣い稼ぎという自らの努力の賜物を手にしては、生きる励みにしていた。

  その一方では地域の農家の主婦を取りまとめ、農協に交渉して地元農産物を売ったり、料理して出したりする今で言う道の駅の走りのようなものを、地域活動振興の一環として立ち上げその運営にも関与していた。

 

 やりたいことができ、人と接することを好んでいた母は、正に生き生きとしていて、家に居ないことが多かった。そんな母の後ろで苦労していた、嫁いで間もない嫁(私の義理の姉)のことを十分に省みることもできないほどにーいつも忙しくしていた。

 

 無論その頃は、毎年のように日本への帰国をしていた私にしても、家に帰ってきても結果として母と過ごす時間が有り余るほどあった訳でもなかったが、バイクで忙しく飛び回る母に、その命の終わりを思わせられることも、この時はまだ幸いにしてなかった。

 

 けれど、人は生きている限りは間違いなくその命の終わりに向かって生きていて、肉体は本人が感じようとなかろうと、日々老い、その力を失っていっている。

 

父の衰弱と他界と母の思い

 

 私の日常は海外にあり、それは母を毎日見ることのない日常であった。

日本に帰国したときにだけ会える母は、その前の帰国時に会った母からいつも一年近くの時を経ていて、70歳半ばを過ぎた頃からは、再会と別離の度に明らかに身体的、精神的衰えが感じられてきていた。

 

 母の夫である私の父の衰弱にあたって2009年母は、一念発起して自分が中心になって立ち上げ友と共に運営してきた「じろばた」と云う名の道の駅を辞職する決心をした。理由は、それまで自分の夫と「良き夫婦という形」を成してこなかった夫婦関係を、夫の看病を通して再構築しようという母の気持ちがその裏にあったから、と後に母が話してくれた。

 

 自分と夫の「夫婦の形」の近未来への望みを打ち立てて一大決心をした当時の母には、父の状態を客観的に見て受け止めることができなかった。

母に残されていた父との時間は今から見ればほんの数ヶ月間だったけれど、病院に見舞いに行った母に対して、「気をつけて(バイクで)帰れ。(例えバイクに乗っていようとも)怒ったような顔をしてないで、ニコニコしていれ。誰が見ているか分からないのだから」とか、母の介護に対して父が「有難う」と言うなど、50年近い結婚生活の中で今まで夫から聞いたことも無いような思いやりの言葉をかけてもらった喜びを与えられた母には、父の命の終わりがすぐそこに近づいていることを感じるとることはできなかったようだ。

 

 介護職にあった姉から私は、言葉を交わせる内に父に会いたいのなら、すぐにでも帰ってきたほうがいいというアドバイスをもらい、身体的な現状を聞かされていた元看護師の私は、夫の配慮で即三人の息子と一緒に、当時住んでいたニュージーランドのオークランドから飛行機に飛び乗った。 

 帯状疱疹によりとても衰弱していた80歳の父だったが、飛行機に飛び乗ったその翌日に会った父は、意識もはっきりしていて、帯状疱疹の痛みも落ち着き、ニュージーから飛んできた私と孫三人の訪問に恐縮していたが、嬉しそうで、とても穏やかだった。

 

 にもかかわらず父はその翌朝に意識を失い、私達が父に会った2日後の秋分の日に他界した。その時でさえ母は、なぜ私達が突然帰国したのか、そしてなぜ私達が急に訪れた父の最期(母には“急'’と感じていた)に間に合ったのか不思議に思っていたと父の死後もそして母との最後の再会となった2022年の時も同じことを言っていた。

 

母娘共に身にしみる「老い」と

母と過ごす時間に込めた私の思い

 その5−6年後以降80前後だった母は、二輪の原付きで自損事故を起こし、次に三輪の原付きに乗った。しかしその原付き三輪に乗っていて留まっていた軽トラックに「気がついたらぶつかっていた」というなんとも恐ろしい事態に直面したことがきっかけで、活動的だった母の移動の自由を一手に担っていた原付き三輪の運転をもやめるという二回目の一大決意をしたのが、母84−5歳、かれこれ3年前の2021年の秋頃のことだった。

 

 80歳を過ぎてからの母は、電話で話す度に「年取ったぁー、年取ったぁー。年取るっていうのは、こういうことなんだ!とつくづく思うよぉ」と繰り返し、コロナで会えなかった約3年の間に時折友人から送られてくる写真のなかの母は、目がどこにあるのかわからないほどのシワだらけな笑顔をしていたが、その度に驚くほどに小さくなっているように感じられ、母が消えてしまいそうな心細さを感じると共に、母の命の終わりが確実に近づいているという焦燥感が自分の中に湧いてくるのを否めなかった。

 

 コロナが三年の後ようやくその勢いを落とし、母に再会したのが2022年10月だった。いつものように私一人で、今回は7週間もの長い間帰国し、この時は今までになく意識的に母と一緒の時間を取るようにした。その理由は自分の中で大きくなってきていた母の人生の終わりが近づいていることに対する、焦燥感、切迫感だった。 

 母が元気な内に、人生の晩年を過ごす86歳の母が、今までの母の人生と、今の人生、そしてこれからの自分の人生の終末や家族との関係についてどのように考えているかを知っておきたかった。

 

 そしてもうひとつは、私はイエス・キリストが自分の(人類全ての)救世主であると信じる者として、母にイエス・キリストのことをできるだけ多く話し、信じてほしかった。そして信じて、共に天国での再会を果たしたいと、望んでいた。

特に私は海外在住だったから、母に急なことが起こっても間に合うという可能性は少ないとわかっていた。だから、母との突然の別れが来たとしても後悔しないように、母自身の言葉を通して、母をよく知りたいと思っていたのだった。

 

楽しかった母との最期の7週間

 秋野菜と野沢菜の収穫と出荷、そして雪の下でも辛抱強く春を待ち続ける春一番野菜の植え付け等、新潟の晩秋の農家は降雪までやることがあるらしい。朝の農作業を終えた母が10時のお茶のため「あーつかれたぁ!」と子供が言い捨てるように言いながら、わたしが一人でいる茶の間のこたつに潜り込んでくる。

そんな母に私はお茶を入れ、茶菓子を一緒につまみながら農作物の話やら世間話やらに耳を傾ける。

 母が愛した農業を通して発見した面白おかしい農業の科学(多分これは自然科学というような分野なのかもしれないが、笑)のようなものも多く、一度でも日本一の農家になることを夢見た母の農業の話には、丹精込めて育てた作物への愛と執念!?が表れていた。

 

例話ー毎晩とうもろこしを盗みにくるたぬきがいた。

どうやって柵をくぐり抜け、どこにとうもろこしをもっていくのか(隣家の縁の下!)を、徹夜で見張って観察して、盗まれたとうもろこしを隣家の縁の下から取り返した話とか!?爆笑。

 

  母の自分が育てたものへの執念がまざまざと表れて、そこまでやる!? と腹を抱えて笑いが止まらないような自然科学が多かった。笑

 午後の3時のお茶も似たような繰り返しで、こたつに体半分突っ込んで仰向けになり、話を聞いたりしたり、かと思えば突然にいびきが聞こえてきたり!笑

 

 こんなのんびりした時間の中ではあっても、母と私は良く神や仏や自分の信念、いままで関わってきた仏教行事についての思いや死後の世界についての思い、イエス・キリストについて、そして母の葬式や母に万が一のことがあった時のことなどについてまでも、時に話は及んだ。

 

 今考えれば、母は本当によく、時にはくどくなる私の話を拒むこと無く聞いてもくれ、母に尋ねた神仏とは、信心することとは、死後の世界などの観念的なことにも母なりの考えを話してくれた。感謝

 

 昨年2022年10月1日から11月18日までの約7週間の帰国は、図らずも結果的にこれが母と私が一緒に過ごした最期の時間となった。母は当時86歳でありながら依然畑に精を出し作物を出荷していた。 いろいろな人の助けを借りつつも、人との関わりを好み、自分の努力が販売収入として実り、時に海外の娘に(日本の家族の助けも借りながら)2度も会いに来て、喜びを感じる晩年をも過ごしていた。

 

 86年という人生を振り返る中で、今まで母と関わりを持ってきてくれた多くの人達との出会いと時間に感謝し、「年取ったー!!」と嘆く一方で、「あーあ、今が一番幸せ!」と幾度と無く言っていた。

 

 2〜3度一緒に買い物に行ったこともあったが、一緒に外出をしたのはその他ほんの一回だけで、この時は、母が母代わりとなった母の姪であり私の従姉妹の家を訪ねた。

 

 それ以外は、ほとんどこたつを囲んでの時間だった。単調ではあったけれど、86歳の母と過ごす時間としては、ゆっくりとしていて今思えばとても優しい時間だった。

 

外に嫁いだ娘の心配事

 母は農業と人が好きで、行動することを好んだ人だった。

しかし、そんな母を見ながら密かに恐れていたことが私にはあった。それは、歳と共に体の自由が奪われ、ゆくゆくは自分の身の回りのことを人に依存しなければならなくなった時、母は果たしてそんな自分を受け入れられるのだろうか?という恐れだった。

 

「なんでも、人にできることが自分にできないはずはない。自分ができることは自分でしよう。でも、これが私の悪いところでもあった」と自分の妻として母としての在り方を顧みる時によく言っていた母は、自分がその命を生きることの価値を「自分でできる」ということに過剰に置いているように、私には思えていた。だから、やがては来るであろう「人の世話にならなければならない自分」を、自分で受け入れられるようで居てほしい、これが私の願いだった。

 

 こんな恐れと願いがあったからこそ、私はこの7週間、母と話す時間を、母が話すことを止めないよう、時には促すことを意識していた。

 

なのに、この私の恐れは杞憂に終わった、終わってしまった。

 

 母は、

今年2023年のひな祭りの夜、

例年にない小雪、雪国新潟の雪解けと春のおとずれの早さを感じながら

「明日は何をしようかな、雪の下の春野菜は大丈夫かな?」と

いつものように

春の農作業のこと思いつつ、

いつものように

自分のベッドに入ったのだろう。

 

一昨夜と何ら違うことなく、

明日が来ることを何ら疑うことなく眠りについた、

のではないだろうか。

 

しかし、

翌朝、

母は、

目覚めることはなかった。

 

母のベットのマットレス

 2018年秋、コロナが始まる一年前の帰国時に、

80歳を過ぎた母に、新しいベットマットレスの購入を申し出た。

 

 しかし母は、行く先長くない自分のために、娘にお金を使わせるのはもったいないといい、自分が死ねばもう誰もそのマットレスを使うことなんてないのだから、無駄になるといって、私の申し出を断った。

 そして2022年秋、雪国の冬は寒く、築60年以上(もしくはプラス数十年!?)の家は古いので隙間風さえ入るところもなくはない。その上、歳と共に筋肉が衰え、骨骨してきた体が休むには、骨の出っ張りに当たりの優しいマットレスが必要、と私はこんこんと母に話した。

 娘の説得をふむふむと聞きつつも、もったいないを拭い切れなかった母だったけれど、半ば押し付けるかのように母に買い与えた。

 

 その後、新しいベットマットレスの上で、如何に楽に寝返りができて、冬も寒くならないかを一緒にあれこれ考えては、効果の有りそうなものを買ったり、工夫好きの母は買ったものにひと工夫加えてみたりと、ひとしきり一緒に楽しい時間を過ごしたのだった。

 

 2023年3月4日、

こんなちょっとしたいわく付きの新しいベッドマットレスの上で閉じた母の目は、

二度と開くことはなかった。

 このマットレスの上で一人で息を引き取った母に

どんな苦しみがあったのかな無かったのかは分かるはずもないが、

母の死に顔は、

本当に、本当に安らかで、眠っているようだった。

 

願わくば、

母の死の直前にでもいいから、

イエス・キリストの名を呼び求めていたことを

一人のキリスト者として、そして娘として

私はこれからも願いつづける。

 

母の死後、

わたしが帰国した際には、わたしはそのマットレスの上で眠った。

 

cororin