いつもながら、お久しぶりです。
訪ねていただき、ありがとうございます。
前回の母の回顧録
人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?
クリスチャンとして母の一周忌を終えて(1)では、
人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?
こんな根源的な問いを提起をしてみました。
コメントを頂いた方が一人ありました。
ありがとうございます。
さて、
(1)に引き続き今日の記事を訪ねていただいた皆さんは
この根源的質問について考えてみましたか?
皆さんの中には、
全てはビックバンから始まって、
単細胞生物から多細胞生物へと長いながい時間をかけて、
変化する環境に適合するための突然変異を繰り返してきた中で「進化」し、
人類猿から人間になったに決まってるでしょ。
つまり、人の祖先は猿でしょ。
と、
学校で唯一習ったこの進化論という仮定を「事実」と受け止めている人たち(昔の私も含めて)がほとんどなのではないでしょうか?
進化論によれば、
全ての始まりはビックバンで、
人間の祖先は 猿 !ですね。
または、
人がどこから来ようが、死んだ後どうなろうが、構わない。
今、命を受けて(誰から?)
この命を死ぬまで生きるだけ。
と考えている人も多いことでしょう。
(かつての私がそうであったように)
私達は、
命が在るから生きているし、その命の終わりには死ぬ存在。
この世に
たった一つしか存在しない「私の命」を生きているのは、この私だから、
この命は私のもの。
私の命は私の所有物だから、
この命が宿るこの体を用いてどのように生きるのか(またはいつまで生きようが、いつ死のうか)は、私の自由。
そんなふうに考えている人もいるかも知れませんね。
でも、考えてみてください。
あなたは、あなたの命がこの世に生まれる以前に
生まれたいという明らかな意思がありましたか?
そんなことは、誰にもわからないですよね。
では、
生まれたいと自分で希望したわけでもないのに、
この世に送り込まれたあなたの命は、
本当にあなたのものでしょうか?
あなたのその生きている命が、
なぜ?
どこから来たのか?
をはっきりしない限り、
あなたの命があなたのもの、あなたの所有物であるとは
言い切れなくはないですか?
だって
「命が自分のものだという」証拠が何もないんですものね。
一つの命があなたの体に宿り、
生きているのはあなたであることは事実でも、
あなたの体を動かしているいのちが、
あなたの意思によってこの世に存在するようになったことを証明することができないなら、
あなたは、
あなたのいのちの所有権を主張することは出来ないでしょう?
だから、
人はどこから来て、どこに行こうとしているのか?
という根源的な問いについて、
考え、調べて見る必要が在ると思うのです。
自分が元気で生きているときにはあまり考えないことだと思うけれど、
このことを考えないといけない時が来たときには、
答えを見つけるまでの時間や体力がないことだって在るのです。
そして、自分のいのちに関してだけではなく、
自分の愛する人のいのちの灯火が消えそうな時、
愛する人を失う恐怖と悲しみに、私達は襲われます。
「私の愛するこの人は、
死んでしまったら どこへ行くのだろうか?」
と。
一人ひとりの体に宿っているいのちが、
どこから来て、どこ行こうとしているのか?
元気な時に、
切羽詰まってしまう前に、
この問の答えを見つけておくこと、
それが、
与えられている命、いつ終わるかも知れない命であっても、
安心して生きることにつながるのです。
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以下は
次の投稿の一部です。
私の母が急逝した時、母は86歳でした。
私は既に20年ほども海外に住んでいて、
もし母に又は私自身に命に関する緊急なことが起きても、
言葉をかわすことが出来ないこともありうる、
ということはずっと意識していきてきました。
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年に一回ほどではありましたが日本に帰国し、
母と一緒の日常を過ごしてきました。
そして
私が海外へ帰る別れの日にはいつも感じていたことがあります。
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母との事実上の最期の別れの時
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本当に小さくなった母を腕の中に感じている私自身の胸の中には、
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こうして母と別れたのは、2,022年11月半ばでした。
それは
2023年3月に母が逝ってしまう、ほんの3ヶ月半前のことでした。
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それ故に私には、今、希望が在るのです。
それは、
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これが
母を亡くしたクリスチャンの私が今も抱いている、
希望です。
CORORIN