昨年2022年の10-11月には、大好きな農業をしていた86歳の母が、2023年のひな祭りの翌日に一人ベッドの上で急逝した。
母と離れて海外に住むようになってもうすぐ20年になる私は、この悲しいニュースを義理の姉のライン電話で知った。あまりの突然な悲報にただ、ありがとうとよろしくお願いしますとしか言えなかった私だったが、すぐに日本に帰国したとしても2日後の葬儀にはギリギリ間に合うかどうかの状況の中だったので、私は葬儀後に帰国することに決めた。
私個人的には、死後の体の葬り方にはあまり固執した考えを持っていない。
私はクリスチャンであるから、死後の世界が存在することは信じているが、この世における人間の肉体は老いて、衰弱し、朽ちて死するものだと考えているし、 死後の体の葬り方が死後の世界の命に何らかの影響を及ぼすとは信じていないから。
死後の葬り方に自分のエネルギーを注ぐよりも、私は、私の大切な人たちとは生きている内に関係を深めるために時間とエネルギーを注ぐように生きたいと考えている。
私の兄は国外に住む私のことを慮ってくれ、時間を置いて、私が来られる時にいつでも来ればいいと言ってくれたが、母と私は地理的に離れ、日常を共にしていなかったので、この世から消えてしまった母の死を受け止めるには、時間をおかず、できるだけすぐに現地で事実に直面するために帰ったほうがいいと感じた。
日常と非日常が分ける悲しみの中身と
私はもう20年ほども海外で暮らしているので、私の日常の生活に、母という物理的存在はなかった。もちろん、私の心の中にはいつも「日本に居る母」は存在していた。(このことは、私が日本に帰国するということは、私にとっては非日常だったんだと、後になって気づくことになった。)
母の急逝にも関わらず、葬儀がその2日後ということは、日本の兄夫婦とその子らはこれから怒涛のような時間を過ごすことになると予想するのは、困難なことではなかった。そのことを含めて私は兄と姉に「よろしくお願いします」と言ったのだった。
日本帰国の飛行機に乗るまでに、私には約3日間あった。
私は姉からの連絡を受けたその後から母を失った悲しみを、折りに触れ涙に込めて流すことができた。葬儀を執り行うまでに必要な様々な事々の段取りに悲しみを押しやられたり、覆い隠されることなく、思い出しては涙することができたことは、私にとってはとても幸いなことだった。
私のそばには夫が居てくれ、私達が通う教会の牧師は電話で私の悲しみに寄り添ってくれた。私自身の近しい人たちに母の訃報を連絡した。これらのことを私のペースで行うことができたことは、悲しみの感情にただ押し流されることなく、母の死を少しは理性的に考えることができたようにも感じている。
日常生活の中で迎える喪失感
一方、日本帰国後、母という物理的存在が各々の日常の中にあった人たち、つまり私の兄と義理の姉、そして母がその日常で交流を持っていた少なくはない方々特に高齢の方々にみる衝撃の大きさは私のそれとは異なっていた。在日中それはあたかも、娘である私の感じている喪失感よりも深くて強いもののように感じられた。
母は86歳という高齢であったにしても、まだ畑もし、いくらかの家事もし、散歩にも行ったり近くの店に歩いて買い物も行っていた。こんな母の急逝だったから、母の死の前日や数日前に元気(そうな)母に会って言葉をかわした人たちも少なくなかった。
こんな人たちにとって、突然の母の死は正に信じられないと言うしか無いことだった。 たとえ葬儀に参列し、棺の中の母に最期の別れの花を手向けて頂いたにしても、各々の日常で母と関わりを持ってくださっていた方々には、この事実を受け入れることは、とてつもなく困難なことのように、娘の私には感じられた。
葬儀に関する諸々の準備に忙殺される遺族の悲しみ
葬儀の2日後に実家に帰った私は、兄と義理の姉と一緒の時間を過ごした。
ベッドの中で息絶えていた母を発見した義理の姉と、文字通り悲しむ間もなく葬儀の準備に追われて過ごした兄。私が実家に着いたのは、二人が親戚や子供達の有り難い助けを与えられながらこの依然としてコロナ禍での怒涛の葬儀を終え、文字通り一息つけると感じられたタイミングだった。
姉(義理の姉)はこの日、葬儀のために帰省していた子供二人を兄と共に駅まで送った後に、車の中で初めて泣いたと明かしてくれた。それから数ヶ月ほどは、ドアを開けようとすると、母の寝室の戸を開けて母の死を発見した時がフラッシュバックして動機がするようになり、夕刻に電気のついていない誰もいない家に帰宅することにも、大きな不安を抱えている。
明らかなトラウマ。
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2024年2月。
約二週間ほどで母の一周忌が来る。
母がいなくなってから、もうすぐ一年。
この間、
私は昨年9月にも一時帰国して、
母のいなくなった実家に二週間ほど滞在した。
母の寝室にはもうベッドは無い。
去年3月、葬儀直後に日本帰国した私は、母の寝室の遺品整理をした。
近年終活をするようにと、私は良く母に言っていたし、
そして母も時折 衣服の整理など終活をしていたようではあった
が
実際、遺品整理をした私にしてみると、
「どうしてこんなに服がいるの?」と思うくらいに
沢山のお出かけ用のきれいに保管された服があった。
沢山の人にもらって頂き、
いくつかは、わたしが帰省時に着るように保管してもらい、
それでも、沢山捨てた。
仕方ない。
わたしは、
母が使っていたと思われるハンカチと
新しいハンカチを数枚づつ
自分のスーツケースに詰めて持ってきた。
いま、時折それらのハンカチを使う。
一周忌の予定は6月。
その時も、母のハンカチをもっていって、
私の涙を拭ってもらおう。
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そして(ヨブは)言った、
「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。
主が与え、
主が取られたのだ。
主のみ名はほむべきかな」。
ヨブ記/ 01章 21節
訳名:「口語訳」聖書種類:「旧約聖書」書名:「ヨブ記
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