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「BLAST塾長日誌」

BLAST塾長が、日々、気づいたこと、やったこと、勉強に役立つノウハウなどを、さまざまに残していきます。

こんにちは、BLAST塾長、吉田憲司です。

 

2/11(金)祝日返上で、推薦入試の「面接・小論文クラス」の演習と、小学部の授業を行なってきました。

 

忙しい半日でしたので、夜は、当然、「吉田バー」開催となります。

 

「吉田バー」と言っても、実在の店舗ではなく、塾長の家飲みの総称です。

 

千幸さんの美味しい料理に、これまた美味しいお酒を合わせて、楽しく過ごすというのが「吉田バー」です。

 

 

ある意味、教育一家とも言え、アルコールが入ると、「理想の教育論」を語り合ったりするわけです。

 

もっとも、この日は、途中からテレビ放映の映画「クール・ランニング」を副音声(英語)にして字幕表示で見ていましたので、それまでに出た話題ということにはなります。

 

それが、「理想の部活論」とも言える内容なので、ここでご紹介して記録しておこうと考えました。

 

塾長は、以前にも、このブログで何度か「部活論」を述べたことがあるかと思います。

 

 

 

世の中の流れも少しずつ、変化しているところもあるようですから、無駄ではなかったとは思いたいものです。

 

 

塾生などでも、「部活が、イヤだ!」と言っている塾生がいたりします。

 

そんな塾生に限って、「塾長は、中学生の頃、何部でしたか?」と、たずねてきたりするものです。

 

たいていの場合、いかにも、文化系的な雰囲気の学生、あるいはオタク系だったりします。

 

きっと、本人にふさわしい部活動がないのだろうと感じます。

 

神崎郡のような郡部では、どうしても、体育系が花形で、文化部というと地味というイメージの定着があるように思えます。

 

 

「塾長は、中学生の頃、何部でしたか?」と、たずねられた時には、必ず、「帰宅部の部長でした!」と答えることにしています。

 

すると、「いいなぁ、帰宅部ですか」とか、「帰宅部の部長ってあるんですか?」となります。

 

帰宅部に、部長などがあるはずはありません。

 

しかし、今思えば、中学3年間を通して、帰宅部だった学生は、そんなに多くはなかったでしょうから、「部長」と言ってしまっても、あながち間違いではないかもしれません。

 

塾長が中学時代の姫路市では、週に1度の「クラブ」には全員が参加しなければなりませんでしたが、「部活動」には特に、強制がなかったようには思います。

 

もちろん、「クラブ」の方は、「ESS」だの「歴史研究部」だのに入っていたのではなかったか…と思いますが、部活動の方は「帰宅部」でした。

 

部活を嫌がる塾生たちの反応を見ていると、そうか、そんなに「帰宅部」に憧れるものなのかという気持ちになります。

 

イヤイヤに部活を続けていたら、きっと、その様子が態度に現れて、先輩たちに目もつけられるでしょうし、学校の先生からは、「やる気のないヤツ」と烙印を押されて、内申点にも響いたりするのではないかと、若干、心配になってしまいます。

 

 

そんな、部活を嫌がる塾生だったとしても、もし仮に、「一定のルールを守るなら、自由に好きな部活を作ってもいい、ということにすれば、責任感を持って、部活動に参加できるのではないだろうか」というのが、今宵の「吉田バー」での会話だったのです。

 

ダンスが好きな学生は「ダンス部」を作り、ゲーム好きは「ゲーム部」…といった具合です。

 

しかし、ただ単に、放課後に〝気分に任せて、ダンスなり、ゲームなりをするだけ〟なら、正直言って、遊んでいるのと変わりなくなってしまいますし、従来の部活をしている学生たちにも影響がよくないかもしれません。

 

そこで、「しっかりとしたルール」の徹底と「活動報告」「他校との試合やコンクール、コンテストへの参加」などを義務付けた上で、「一定の条件を満たすなら『部活の創設』という仕組みを作ってはどうか」という「ご提案」です。

 

こうすることで、

①まず、「創造的な(クリエイティブ)発想」が、子どもたちに生まれます。

 

②そして、その発想を形にする上での「企画力」も求められます。

 

③さらに、実現に向けて、先生方との「交渉力」も磨かれます。

 

④そして、いざ部活がスタートした後には、責任が生じますから、「運営力」といったマネジメントも求められます。

 

⑤その後、実際に、コンテストなりコンクールなりに出るために、「能力を磨く努力」も必要となってきます。

 

 

こう考えてみると、これって、「企業のスタートアップ」と同じようにみえてきました。

 

「部活の創設」を通して、将来のための「生きる力」も形成される機会が与えられるわけです。

 

従来の部活は、上の条項の、④と⑤、主に⑤でしか努力をしていないということになるわけです。

 

これって、もしかして、画期的な提案になるかも…という気になってきました!

 

 

前々回のブログでの主張の一つには、「(プロを目指すわけじゃないんだから、)学期ごとに部活を変えた方が、鍛えられる筋肉にもバランスが取れていいのではないか」というものがありました。

 

そして、この意見も同時に受け入れるなら、〝生徒数が減っているから、〇〇部は廃止して、〇〇部に統合〟ということもなくなります。

 

生徒数減少が気になる郡部であっても、「体育系部活の存続」にもつながりますし、今まで、〝スポーツ一辺倒〟だった生徒も、「文化部の良さを再確認する機会」にもなり得ると思うのです。

 

これも、部活動における一つの「文武両道」なのかもしれません。

 

 

今回、ここで述べた「部活の創設」と、以前からの主張「学期ごとに、部活を変える」を取り入れるだけで、「子どもたちの発想も輝きも変わってくる」と思う次第です。

 

この拙文をお読みのお偉い方、おられましたら、一私塾の塾長の主張ではありますが、一度ご考察くだされば幸いです。

 

お読みくださり、ありがとうございました!

 

 

Jukool BLAST

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こんにちは、BLAST塾長、吉田憲司です。

 

最近、なぜかしら、9年前に書いた次のブログが、よく上がってくるんですよね。

 

 

何でだろうかと思っていたのですが、その理由が(どうやら)判明致しました。

 

おそらく、キーワードが「アルデバラン」ではないかと考えられます。

 

この2021年から2022年にかけての「アルデバラン」といえば、そう「AI」さんの「アルデバラン」です。

 

朝ドラにはとんと縁のない、塾長夫妻も「カムカムエヴリバディ」にはハマっているのです。

 

見始めたのは途中からでしたが、それ以来、毎回欠かさず録画をするようにしています。

 

もう、どハマりです。

 

このドラマの主題曲が、「AI」さんの「アルデバラン」なのですよね。

 

おそらく、ここから見えられた方がおられるのではないかと推測しました。

 

 

その「カムカムエヴリバディ」ですが、ホント、脚本家の藤本有紀さん始め、スタッフ、出演者の方には感謝しております。

 

あんなによくできたドラマ、なかなかないですよね。

 

あまり、熱心にドラマを見る方ではないのです。

 

3人の女優が出演し、三代に渡ってラジオ英会話で繋がれている、二代目が「深津絵里」と聞いても、〝えーっと、深津絵里さん、どんな方だったっけ?グラビアアイドルだったけ?〟というレベルだったのです。

 

それが今や、「雉眞るい」いや「大月るい」なしの生活は考えられません。

 

もちろん、深津絵里さんだけでなく、一代目の「上白石萌音」さんの「安子」もそうです。

 

なぜ、このドラマにこれほどまでに共感するかなのですが、見ているとどうしても自分の人生に引き合わせてしまうのですよね。

 

・安子がロバートと出会い、初めて英語を喋る姿

・安子がるいに英語を教える姿

・安子が進駐軍クラブでクリスマスを祝う姿

・小さいながらも店を始める姿

・るいがジャズクラブで錠一郎と出会い付き合うまで

・結婚し、回転焼きを始める姿

・よく働くるいと、全然働かず引きこもる錠一郎

 

これ全部、自分や家族の人生のどこかの部分で、似たようなことを経験しているわけです。

 

共感を生みやすいというのが、やはり、人気の秘密なのでしょう。

 

ルイ・アームストロングの「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」で紡がれる物語なんて、そうそう、ないですよ。

 

脚本家の藤本有紀さんのことは、ほとんど存じ上げませんが、最初にこの物語、ドラマを見たときに、ピンっと感じたのは、あぁ、これ言っていいのかな…、言っていいのかどうか分かりませんが…

 

この物語の構成のどこかに、かの景山民夫さんの影響というか、インスピレーションを感じるのですよ。

 

景山さんの帰天日前日、つまり、お通夜には会場にサッチモが流れていたというのは、有名な話ですし、確か、どこかのエッセイか何かで、この「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」について書かれていたように記憶しているのです。

(記憶違いなら、すみません)

 

この三世代の、時代の流れをずーっと追っておきながら、「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」が常に見え隠れするという脚本に、どこか景山民夫さんの影響を感じるのは、私一人でしょうか。

 

この、藤本有紀さん、もしかして、塾長と同じ「カゲヤマニア」であられるのではないかと、推測、いや夢想をしている次第です。

 

全然、違っていたら、申し訳ありません、ごめんなさいね。

 

もし、そうなら、ご連絡くださいませ(笑)

 

 

話題を、変えましょう。

 

 

ちなみに、貼り付けた上のブログ、読んでいただくとわかりますが、冬の星座について述べています。

 

塾という仕事柄もあってか、夜、仕事を終えて空を見上げることも多いものです。

 

この「冬の大三角」が見え始める時期になると、あぁそろそろ「受験に熱が入り始める頃かな…」となります。

 

そして、時の流れとともに「冬の大三角」が天頂近くに来た頃には、「本格的な受験期」を迎えます。

 

「冬の大六角」の「アルデバラン」がかなり西寄りになると、「受験真っ只中」です。

 

そんなふうに、天空を仰いで、受験を考えているのが、BLAST塾長の真の姿です。

 

千眼美子さんに言わせると、〝好きな星座〟と聞かれて、「冬の大三角」を上げるのは、「ベタ」らしいのですが…、塾長は星座の中では「冬の大三角」が大好きなのです。

 

そして、『塾長の三角好き』は、ある界隈では全国的に知られているはずです。

 

この『三角好き』が高じて、塾長にとって『一大事のあること』が起きるのですが、この2013年の時点では、まだ、起こっていないということになります。

 

それが、一体何か、については、直接、お会いした方にはお教えするということで、留めておきましょう。

 

 

(撮影:2022.02.25 23:13:28)

星座を書き込んだものを載せておきます。

 


 

カペラが惜しいところで入ってはいませんが、ご了承を。

 

 

(2022-01-21 11:29:15 記述始めました)

 

こんにちは。BLAST塾長、吉田憲司です。

 

↑今日から、「出だし」が変わったの、分かりましたか?

 

これまでは「Jukool BLAST塾長」と書いてきたのですが、昨日より「BLAST塾長」と名乗ることにしました。

 

今日、ご紹介する動画ではまだ「Jukool BLAST塾長」と言っていますが、テロップでは「BLAST塾長」ですね…

 

ということで、「BLASTの紹介動画」を貼り付けておきます。

 

この動画をご覧になった方、ドンドン拡散してくださるとうれしいです。

 

よくデキた動画で、動画の後半部分には「ウェブ予約」のリンクも現れてきます。(そう、設定したからなのですがw)

 

「プレ入塾説明」とあるように、BLASTでの入塾説明のための予習のような動画となっています。

 

また、「BLASTの守備範囲」のようなことについても語っています。

 

では、お楽しみくださいませ!

 

 

●お電話の場合は 0790-23-1625 まで

 

●ネット予約の場合は

(クリックでリンクしています)

 

 

【こんな記事もどうぞ…】

 

 

こんにちは。Jukool BLASTの塾長、吉田憲司です。

 

あまり、こういった社会的な事件に言及することって、ないのですが…

 

しかし、今回は思うところあり、と言いますか、これまでも実は思うところはあったのですが、あえて言わなかった部分について書いてみようと思います。

 

おそらく、これは今年の塾長のテーマでもあるのでしょう。(いや、今年に限らないかもしれませんが…)

 

こういった事件が起きると、メディアは深く掘り下げますよね、特に、テレビが…。

 

そうすることで、〝真実を明らかにしたい〟という正義感でもあるのでしょうが、できるだけセンセーショナルにして、視聴率を稼ぎたい思惑もチラホラ、見え隠れします。

 

ネットの情報は、どれも詳しいのですが、基本、「玉石混交」でしょう。

 

一つのサイトの記事でも、〝正しい部分もある、間違っている部分もある…〟という、無責任さを前提に見るというのが、メディア・リテラシーの本質ということです。

 

また、教育学的に見る、という場合もありますが、この十七歳犯人の出身校も、決して悪い学校ではないらしいのですが、そういったことに限らず、現代日本の「教育制度」には、何か抜け落ちたものがあるという感覚を持ちます。

 

これは、今回の事件だけには留まりませんが…。

 

社会学的に見る、という場合もあり、十七歳犯人の責任は追及できないものだから、〝このコロナ禍で歪んだ社会への抵抗〟などという見方も散見されます。

 

心理学的に見たなら、〝歪んだ自己顕示欲と象徴的な場所で起こした犯罪〟という指摘などもあったようでした。

 

それぞれの立場もあり、そこからの主張も出てくるものです。

 

さまざまな学問がある理由も、さまざまな角度から、正しさというか、真実・真理にたどり着くためというのが、前提ではあるでしょう。

 

そういったことは、理解しているつもりです。

 

ただ、何と言えばいいのでしょう、塾長から見るなら、どれも踏み込み方が、中途半端に感じてしまうのです。

 

少年法で守られているというのなら、その責任は、この十七歳犯人に向けられるべきではなく、この少年をこれまで育ててきた保護者、そして、現在この少年に教育の機会を与えている高校の教育方針にあるべきと見るのが、妥当ではないかと思うのです。

(今回、情報の出方自体が、少年法に抵触するという意見もあったようです)

 

それ以外の、〝コロナ禍の社会〟とか言い出すと、もうその時点で責任の所在がうやむやとなりますので、今後に何らの教訓も生かせないと感じる次第です。

 

こういった文章、あまり書かないのに、けっこう舌鋒鋭いなと、自分でも感じています。

 

 

で、ここからが、BLAST的ともいえる考察になるかと思います…

 

「性善説」「性悪説」という二分法がありますが、この観点で言うと、BLASTは「完全に性善説」という立場に立っています。

 

どう考えるかは、先の、テレビの人、ネットの人、教育学者、社会学者等々、それぞれ、人に任されているわけなのですが、BLASTでは、「すべての人間は、神仏によって、その魂を作られた三次元的存在」と考えるようにしています。

 

この「三次元的存在」というところが、ポイントとなります。

 

「三次元」を語るということは、それ以降の「四次元」「五次元」…といった高次元をも前提にして、〝この世の中とそこで起きる事象〟を見ているということになります。

 

魂が、肉体を授かった、この物体のある世界が「三次元世界」です。

 

つまり、〝人間は死んだら終わり〟〝神仏は存在せず、支配者の作る幻想〟〝天国も地獄もたわ言〟…と思っている方々が多いということは、承知していますが、もう、このレベルの認識では、この「三次元世界」で起きる事象を説明するのには、無理があるのではないかという立場なのです。

 

そういう意味では、デカルト以降の〝目に見えず、手でさわれない世界は学問対象から外す〟ことを前提に成り立つ、現代の学問のほとんどが、それぞれに研究は進めど、この一点が突破できないために、「本来あるべき探究ができていない」ということになると考えているわけです。

 

いや、全部が全部間違っているというつもりは、毛頭ありません。

 

先ほども述べましたように、それぞれの学問領域で、進歩、発展し、新しい知識、知見が出てくることは大歓迎です。

 

それこそが、「真理の探究」に相当する部分ではあると思います。

 

しかし、「〝見落とされている部分〟が多いであろう」というのは、事実なわけです。

 

それこそが、この〝目に見えず、手でさわれない世界〟にあるという意味です。

 

 

今回の、十七歳犯人にしろ、その動機が非常に、屈折したものとは感じられます。

 

もちろん、未成年者でもあり、深い悩みも抱えていたでしょうから、十分に思考・思慮がなされていないということになるのだと理解はしています。

 

〝それほど、医師にこだわるということは、よほど、家庭での期待とストレスが大きかったのだろう〟

〝学校自体が、偏差値至上主義で、子どもたちを数字で測れる「知性面」のみしか見なかったのだろう〟

〝ここのところ続く、猟奇的な事件にも刺激を受けて、情報を収集しつつ、自暴自棄な行動となったのだろう〟

 

などと、想像でものを言うなら、いくらでも言えます。

 

このあたりは、今後、明らかになるかもしれませんが、いずれにしても、「ふつうの人間は、こういった事件は起こさない」ものです。

 

そうであるなら、この十七歳犯人は、明らかに〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟にあったということが言えるかと思います。

 

では、「〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟とは、何か?」ということになります。

 

・地下鉄で火をつけて、人を刺すジョーカー

・心療内科に火をつけて、人を殺す元患者

・自分の将来を悔やんで、人を刺す学生

・身内の死に納得がいかず、医師を散弾銃で撃つ男

 

教育学的、社会学的、心理学的見地などからは、これらすべてに、〝何らかの原因〟を作り出すことができるのでしょうが、どれも一様に〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟で為されたことかと思います。

 

この〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟ということを考察したいと思います。

 

 

塾長は、若い頃より、幸福の科学で仏法真理を学んできていますので、この霊的真理に基づいての考察となります。

 

この「三次元世界」で生きている人間は、実は、「自分一人であっても、ひとりではない」ということを学んでいます。

 

よく夏の心霊番組などでも「守護霊」というような言葉が使われますが、その「守護霊」を含む「魂のきょうだい」のことをさします。

 

ちなみに、「守護霊」は、次回、地上に降りる「魂のきょうだい」の一人、もしくは、前回、地上に降りていた「魂のきょうだい」の一人が、担当することになっています。

 

自分含めて、この6人が、時代や地域を超えて、順番に地上に降りてきて、「魂修行」を積んでいるという設定です。

 

これが「魂のきょうだい理論」なのですが、私たちには「自分以外に5人のきょうだいたち」がいて、順番にこの地上「三次元世界」に降りて(生まれて)来ているわけです。

 

 

その目的は何か、というと、次の一点に絞られます。

 

さきほど「魂修行」という言葉を使いましたが、「これまでの人生(過去世)でマスターできなかった事柄、十分でなかった部分を、〝今回の人生〟を通して学ぶ」という目的です。

 

こういう意味では、「人生の目的」は、出世でも、お金でも、成功でもなくて、「自分の足りざるところ、さらに伸ばせるところをどこまで修正、あるいは伸ばしたか」という尺度が存在することになります。

 

つまり、この「三次元世界」は、「心を学び、魂を鍛えるための学校」という言い方もできるでしょう。

 

この観点が、唯物論・無神論の方々にとっては、基本的に欠落しているように思います。

 

なぜ、これが成り立つかと言うと、人は肉体に宿り、一生を終えて死に至りますが、その中に宿る魂というか、心というものは「永遠の旅人」であるからです。

 

「死ぬのは肉体だけであり、そのなかで経験と学びを積んできた魂・心は、決して死にはしない」という前提です。

 

塾長は、少なくともここ30数年間は、この価値観で生き、この価値観で物事を判断するようにしています。

 

 

もし、部分的にもこの考えを受け入れるなら、何が起こりえるか、となります。

 

つまり、これまでこの地球上で死んだ人が何人いるかは知りませんが、その方々は、肉体こそないが、その「心・魂というものは、どこかに存在する」ということになります。

 

古来より、さまざまな宗教で説かれる「天国・地獄・(煉獄)論」をこれに当てはめるなら、肉体を失った方の「心・魂」は、大きく分けるなら、「成仏すれば天国、人生の負債が多ければ地獄、自殺などして一定の年齢まで上がれなければ、地上を徘徊」のどれかになるということでしょうか。

 

よく、大量殺人を行って逮捕されて、その挙げ句の果てに「(そんなにたくさん殺した)記憶がない!」などという犯人がいますが、社会学的には〝罪を逃れるために、精神異常者のふりをしている〟という見解がほとんどかと思います。

 

しかし、この仏法真理的見地に立つなら、「十分に記憶がない」ことは成り立つことになります。

 

つまり、その間は、自分の守護霊さえも追い出されて、それより強力な霊存在、それより多数の邪悪な霊存在に肉体を支配されていた可能性が濃厚だからです。

 

もちろん、こういった犯罪者に罪がないなどと言っているのではありません、ご注意ください。

 

この三次元世界で、肉体が起こしたことは、この地上の社会的正義によって裁かれるべきです。

 

ただ、こういった霊的な背景があると考えるなら、この犯罪者は、「(実際の犯罪を犯すまでに)すでにその思考を、邪悪な存在に明け渡していた」ということが言えるでしょう。

 

ここには100%以上の「原因と結果の法則」が働くことになります。

 

つまり、なにがしかの原因があり、その結果につながったということです。

 

では、何がきっかけとなって、その原因が出来上がるかという問題が出てきます。

 

ここに存在するのが、「心」ということになります。

 

心の反応は、人ひとりひとりに任されています。

 

つまり、ある事象に対して、どう考えるかの「100%の自由」が与えられています。

 

ある事象に対して(それがどんなものであったとしても)、そこに「プラスの面」を見出すか、「マイナスの面」を見出すかは、個人に任されているわけです。

 

よく、「幸せは、心が決める」と言われますが、まさに、このことをベースに述べられているかと思います。

 

 

まとめますと、すでにある学問、つまり、「唯物論的思考をベースとした学問領域では、推し量れない領域が多く存在する」ということになります。

 

ここ百数十年において、アカデミズム等の表の世界では、まさに「唯物論的思考をベースとした学問」しか存在しないでしょうから、それは仕方のないことではあります。

 

しかし、すでに幸福の科学ができ、30数年が経ち、その書籍群も3000冊に迫ろうとしている今、もうそろそろ、少しは「幸福の科学で説かれる仏法真理に基づいて、思考なり、判断なりを下してもいいのではないか」ということです。

 

この世、「三次元世界」は、〝金魚が泳ぐ水槽〟のような「閉じられた」「限られた」世界にしか過ぎません。

 

その「〝水槽〟を超えて広がる、広大な本当の世界」の一端でも、知るなり、研究対象とするなりしてはいいのではというご提案となりました。

 

 

実に、長文となってしまいましたが、ここまでお読みくださった方々、本当にありがとうございました。

 

この拙文が、みなさまの人生に何か一つでも輝きなり、小さなヒントを与えられたなら、望外の喜びかと思います。


 

( https://www.a.u-tokyo.ac.jp/campus/overview.html より転載)

 

(2022-01-23 11:58:32より記述)