こんにちは。Jukool BLASTの塾長、吉田憲司です。
あまり、こういった社会的な事件に言及することって、ないのですが…
しかし、今回は思うところあり、と言いますか、これまでも実は思うところはあったのですが、あえて言わなかった部分について書いてみようと思います。
おそらく、これは今年の塾長のテーマでもあるのでしょう。(いや、今年に限らないかもしれませんが…)
こういった事件が起きると、メディアは深く掘り下げますよね、特に、テレビが…。
そうすることで、〝真実を明らかにしたい〟という正義感でもあるのでしょうが、できるだけセンセーショナルにして、視聴率を稼ぎたい思惑もチラホラ、見え隠れします。
ネットの情報は、どれも詳しいのですが、基本、「玉石混交」でしょう。
一つのサイトの記事でも、〝正しい部分もある、間違っている部分もある…〟という、無責任さを前提に見るというのが、メディア・リテラシーの本質ということです。
また、教育学的に見る、という場合もありますが、この十七歳犯人の出身校も、決して悪い学校ではないらしいのですが、そういったことに限らず、現代日本の「教育制度」には、何か抜け落ちたものがあるという感覚を持ちます。
これは、今回の事件だけには留まりませんが…。
社会学的に見る、という場合もあり、十七歳犯人の責任は追及できないものだから、〝このコロナ禍で歪んだ社会への抵抗〟などという見方も散見されます。
心理学的に見たなら、〝歪んだ自己顕示欲と象徴的な場所で起こした犯罪〟という指摘などもあったようでした。
それぞれの立場もあり、そこからの主張も出てくるものです。
さまざまな学問がある理由も、さまざまな角度から、正しさというか、真実・真理にたどり着くためというのが、前提ではあるでしょう。
そういったことは、理解しているつもりです。
ただ、何と言えばいいのでしょう、塾長から見るなら、どれも踏み込み方が、中途半端に感じてしまうのです。
少年法で守られているというのなら、その責任は、この十七歳犯人に向けられるべきではなく、この少年をこれまで育ててきた保護者、そして、現在この少年に教育の機会を与えている高校の教育方針にあるべきと見るのが、妥当ではないかと思うのです。
(今回、情報の出方自体が、少年法に抵触するという意見もあったようです)
それ以外の、〝コロナ禍の社会〟とか言い出すと、もうその時点で責任の所在がうやむやとなりますので、今後に何らの教訓も生かせないと感じる次第です。
こういった文章、あまり書かないのに、けっこう舌鋒鋭いなと、自分でも感じています。
で、ここからが、BLAST的ともいえる考察になるかと思います…
「性善説」「性悪説」という二分法がありますが、この観点で言うと、BLASTは「完全に性善説」という立場に立っています。
どう考えるかは、先の、テレビの人、ネットの人、教育学者、社会学者等々、それぞれ、人に任されているわけなのですが、BLASTでは、「すべての人間は、神仏によって、その魂を作られた三次元的存在」と考えるようにしています。
この「三次元的存在」というところが、ポイントとなります。
「三次元」を語るということは、それ以降の「四次元」「五次元」…といった高次元をも前提にして、〝この世の中とそこで起きる事象〟を見ているということになります。
魂が、肉体を授かった、この物体のある世界が「三次元世界」です。
つまり、〝人間は死んだら終わり〟〝神仏は存在せず、支配者の作る幻想〟〝天国も地獄もたわ言〟…と思っている方々が多いということは、承知していますが、もう、このレベルの認識では、この「三次元世界」で起きる事象を説明するのには、無理があるのではないかという立場なのです。
そういう意味では、デカルト以降の〝目に見えず、手でさわれない世界は学問対象から外す〟ことを前提に成り立つ、現代の学問のほとんどが、それぞれに研究は進めど、この一点が突破できないために、「本来あるべき探究ができていない」ということになると考えているわけです。
いや、全部が全部間違っているというつもりは、毛頭ありません。
先ほども述べましたように、それぞれの学問領域で、進歩、発展し、新しい知識、知見が出てくることは大歓迎です。
それこそが、「真理の探究」に相当する部分ではあると思います。
しかし、「〝見落とされている部分〟が多いであろう」というのは、事実なわけです。
それこそが、この〝目に見えず、手でさわれない世界〟にあるという意味です。
今回の、十七歳犯人にしろ、その動機が非常に、屈折したものとは感じられます。
もちろん、未成年者でもあり、深い悩みも抱えていたでしょうから、十分に思考・思慮がなされていないということになるのだと理解はしています。
〝それほど、医師にこだわるということは、よほど、家庭での期待とストレスが大きかったのだろう〟
〝学校自体が、偏差値至上主義で、子どもたちを数字で測れる「知性面」のみしか見なかったのだろう〟
〝ここのところ続く、猟奇的な事件にも刺激を受けて、情報を収集しつつ、自暴自棄な行動となったのだろう〟
などと、想像でものを言うなら、いくらでも言えます。
このあたりは、今後、明らかになるかもしれませんが、いずれにしても、「ふつうの人間は、こういった事件は起こさない」ものです。
そうであるなら、この十七歳犯人は、明らかに〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟にあったということが言えるかと思います。
では、「〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟とは、何か?」ということになります。
・地下鉄で火をつけて、人を刺すジョーカー
・心療内科に火をつけて、人を殺す元患者
・自分の将来を悔やんで、人を刺す学生
・身内の死に納得がいかず、医師を散弾銃で撃つ男
教育学的、社会学的、心理学的見地などからは、これらすべてに、〝何らかの原因〟を作り出すことができるのでしょうが、どれも一様に〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟で為されたことかと思います。
この〝ふつうの人間ではない状況、精神状態〟ということを考察したいと思います。
塾長は、若い頃より、幸福の科学で仏法真理を学んできていますので、この霊的真理に基づいての考察となります。
この「三次元世界」で生きている人間は、実は、「自分一人であっても、ひとりではない」ということを学んでいます。
よく夏の心霊番組などでも「守護霊」というような言葉が使われますが、その「守護霊」を含む「魂のきょうだい」のことをさします。
ちなみに、「守護霊」は、次回、地上に降りる「魂のきょうだい」の一人、もしくは、前回、地上に降りていた「魂のきょうだい」の一人が、担当することになっています。
自分含めて、この6人が、時代や地域を超えて、順番に地上に降りてきて、「魂修行」を積んでいるという設定です。
これが「魂のきょうだい理論」なのですが、私たちには「自分以外に5人のきょうだいたち」がいて、順番にこの地上「三次元世界」に降りて(生まれて)来ているわけです。
その目的は何か、というと、次の一点に絞られます。
さきほど「魂修行」という言葉を使いましたが、「これまでの人生(過去世)でマスターできなかった事柄、十分でなかった部分を、〝今回の人生〟を通して学ぶ」という目的です。
こういう意味では、「人生の目的」は、出世でも、お金でも、成功でもなくて、「自分の足りざるところ、さらに伸ばせるところをどこまで修正、あるいは伸ばしたか」という尺度が存在することになります。
つまり、この「三次元世界」は、「心を学び、魂を鍛えるための学校」という言い方もできるでしょう。
この観点が、唯物論・無神論の方々にとっては、基本的に欠落しているように思います。
なぜ、これが成り立つかと言うと、人は肉体に宿り、一生を終えて死に至りますが、その中に宿る魂というか、心というものは「永遠の旅人」であるからです。
「死ぬのは肉体だけであり、そのなかで経験と学びを積んできた魂・心は、決して死にはしない」という前提です。
塾長は、少なくともここ30数年間は、この価値観で生き、この価値観で物事を判断するようにしています。
もし、部分的にもこの考えを受け入れるなら、何が起こりえるか、となります。
つまり、これまでこの地球上で死んだ人が何人いるかは知りませんが、その方々は、肉体こそないが、その「心・魂というものは、どこかに存在する」ということになります。
古来より、さまざまな宗教で説かれる「天国・地獄・(煉獄)論」をこれに当てはめるなら、肉体を失った方の「心・魂」は、大きく分けるなら、「成仏すれば天国、人生の負債が多ければ地獄、自殺などして一定の年齢まで上がれなければ、地上を徘徊」のどれかになるということでしょうか。
よく、大量殺人を行って逮捕されて、その挙げ句の果てに「(そんなにたくさん殺した)記憶がない!」などという犯人がいますが、社会学的には〝罪を逃れるために、精神異常者のふりをしている〟という見解がほとんどかと思います。
しかし、この仏法真理的見地に立つなら、「十分に記憶がない」ことは成り立つことになります。
つまり、その間は、自分の守護霊さえも追い出されて、それより強力な霊存在、それより多数の邪悪な霊存在に肉体を支配されていた可能性が濃厚だからです。
もちろん、こういった犯罪者に罪がないなどと言っているのではありません、ご注意ください。
この三次元世界で、肉体が起こしたことは、この地上の社会的正義によって裁かれるべきです。
ただ、こういった霊的な背景があると考えるなら、この犯罪者は、「(実際の犯罪を犯すまでに)すでにその思考を、邪悪な存在に明け渡していた」ということが言えるでしょう。
ここには100%以上の「原因と結果の法則」が働くことになります。
つまり、なにがしかの原因があり、その結果につながったということです。
では、何がきっかけとなって、その原因が出来上がるかという問題が出てきます。
ここに存在するのが、「心」ということになります。
心の反応は、人ひとりひとりに任されています。
つまり、ある事象に対して、どう考えるかの「100%の自由」が与えられています。
ある事象に対して(それがどんなものであったとしても)、そこに「プラスの面」を見出すか、「マイナスの面」を見出すかは、個人に任されているわけです。
よく、「幸せは、心が決める」と言われますが、まさに、このことをベースに述べられているかと思います。
まとめますと、すでにある学問、つまり、「唯物論的思考をベースとした学問領域では、推し量れない領域が多く存在する」ということになります。
ここ百数十年において、アカデミズム等の表の世界では、まさに「唯物論的思考をベースとした学問」しか存在しないでしょうから、それは仕方のないことではあります。
しかし、すでに幸福の科学ができ、30数年が経ち、その書籍群も3000冊に迫ろうとしている今、もうそろそろ、少しは「幸福の科学で説かれる仏法真理に基づいて、思考なり、判断なりを下してもいいのではないか」ということです。
この世、「三次元世界」は、〝金魚が泳ぐ水槽〟のような「閉じられた」「限られた」世界にしか過ぎません。
その「〝水槽〟を超えて広がる、広大な本当の世界」の一端でも、知るなり、研究対象とするなりしてはいいのではというご提案となりました。
実に、長文となってしまいましたが、ここまでお読みくださった方々、本当にありがとうございました。
この拙文が、みなさまの人生に何か一つでも輝きなり、小さなヒントを与えられたなら、望外の喜びかと思います。
( https://www.a.u-tokyo.ac.jp/campus/overview.html より転載)
(2022-01-23 11:58:32より記述)