40歳までに経験した仕事上の失敗の主観というものの中には、理性・感性などにも影響されているのを理解していなかったり、そもそも理解を伴っていたかどうかは甚だ怪しいと思う時があります。契約している顧客からのクレームについても先日のブログで主観的には色々なケースがあったと書きましたが、それは外面的な理解であって本質に迫っていたかどうかは当時殆ど意識する余裕さえも無かったと思います。普通に仕事をしていると、何か事件があってもイレギュラー処理として流れ作業的に処理されてしまって、特に日本のサラリーマン社会に於いては失敗とかいう類の悪い出来事は自分の評価にも影響しかねないというのでさっさと処理して、臭いものには蓋をするという傾向にあると感じています。赤字事業部の管理職から過大なノルマを押し付けられ、明日を見据えて仕事をするというような余裕は無くその日暮らしをしていたという環境では、失敗という事に対しては済んだ事だとしてどんどんと置き去りにして行くしか無かったのですが、営業職としての仕事の仕方はパターンが色々あるにしても何度か同じような失敗を繰り返すと失敗の理解が出来たりすることもありました。
 
或る新規の中小企業の顧客からは信頼感も得て契約寸前という案件がありましたが、最後の最後になって価格交渉の時に「本当にこれでいいですか」という問いをされた時がありました。提示した見積書は工場とも価格折衝して何とか引き出した安値で、事業部としては最大限の譲歩だったという内容でしたが、結果は見事に外れて競争相手に負けたという事がありました。これは自身の努力が足りなかったという事もありますが、一次的な原因としては工場との折衝で得た安値はもっと厳しく査定しなければならなかったという事でした。何となく顧客との会話も好意的に思えるというのが落とし穴になっていて、そこには顧客の心情と製品価格というものには何の関係も無いという理解不足があったと思います。当時は、落選して顧客に理由を詳しく尋ねたしましたが、そんな事は無駄なことで本質的な理解に欠けたことに気づかなかったのが失敗というのは気づいていませんでした。この失敗の原因についても自身で本当に理解したのは40歳も過ぎてから転職後に多忙な仕事をしている時でした。失敗の原因の本質を見極めるというのは、本人の経験とか感性・理解力によるところが大きいのではないかとも思わされた事例でした。

新規に製品紹介と称して顧客を訪問すると、普通には話を聞いてもらうだけでも有難いというような風に感じていました。以後も定期的に訪問する関係になれた顧客はほんの少しの数で、それも製品を買ってくれそうな感じにはなれない顧客ばかりでした。渋茶でも時々飲みに来てくださいというのが顧客の常套句で、彼らも世間話だけでなく何か新しい情報でも聞けるのかなというのを期待しているだけの事であったと思います。こういう風に契約を取りたいと願って定期的に通える顧客の対応についても、失敗というのがありました。或る顧客で導入したシステムが常識的には外れているなと思って色々質問をしているうちに、相手の癇に障るような一言を発したので雰囲気がおかしくなった事がありました。この時は帰り道では自身も感情的になっている自分が分かって、少し強い日差しだったのですが駅までそんなことは気にもしないでずんずんと歩いた記憶があります。この失敗も自身の顧客に対する理解力も低かったし、同様に感性のレベルも低くて自身の心の制御が十分では無かったと反省をしました。
仕事上で失敗というものは誰でも起こす事象と思います、それを他人のせいにしたり放置するという事は日本サラリーマン社会では間々見受けられることだと思います。しかし、そういう失敗を深く考えるという行為をするかしないかで先々の仕事の成果も変わるのではないかと感じています。
40歳迄の赤字事業部では仕事上では失敗続きであったと言っても良いと思っています。特に30代後半の新しい顧客を見つけるのは大変な苦労をしたという経験があって、毎日が鬱陶しいという感情が自分の心の底辺に沈殿しているような気分であったと思います。それでも前に進まなければならんという気概で過ごしていたので、自分の自由にできる時間はわずかしかなくて休日のほんの一時でも仕事の延長線にあるようなFM放送をオープンテープで毎週定期的に収録する仕事を自宅でするような過ごし方をしていました。当時はアナログ最終期でしたが秋葉原には生テープを売る専門店があり仕事帰りにテープを仕入れて日曜日に音楽放送を収録していました。その数はどんどんと増えて数百本もありましたが、後日収録したテープを再生して聞いたのは皆無でした。それらの大量のテープは後日同様の趣味があるらしい人に殆どを送って漸く始末が出来ました。現在手元になるのは数本のテープだけになり、今振り返ると無駄なことをしていたのかなとも思いますが、当時平日は顧客訪問で社外に出かける時間が多くて体もつかれるので、休日に外出すると損したような気分になり部屋の中にこもっていたように記憶しています。
今日の新聞記事に女性の40歳後半の独身女性が毎日ハードワークをしているのに心が満たされないという記事が出ていましたが、当時の自分を振り返ってみれば心が満たされないどころか、そんな事も考える余裕もなくがむしゃらに仕事に埋没していたというので個人の生活などは後回しにされて、ハイエナのように毎日餌を求めて歩くような生活をしていたと思います。40歳後半と言えば会社の中では一番の稼ぎ頭の年代でもあり、ハードワークと言われても自分でこなして進んでいける筈なので、心が満たされないというのは愚痴にしか聞こえないというのが、この記事を読んだ感想です。

仕事の失敗の連続というものは失敗経験という自身のデータベースに蓄積されていきました。赤字事業部という会社でも小さな存在でしかなかった場所と業界でも最下位という位置づけの場所で得られたものは、大きな有名外資系コンピュータ会社では経験できない事が多々あったと思います。
職場での同僚との付き合いも普通にできましたが、管理職全員がヒラメ状態で仕事に対しては赤字事業部であったせいか常に上司の目を気にするという状況でノルマの上位下達が当然の如くあり、管理職と部下との間には大きな溝があるというのが常態化していました。建前は真面目な会社だったので喧嘩になるというような事はありませんでしたが、職員は常に不満があって帰宅の一杯の席で上司の悪口非難がごうごうと渦巻いていました。小さなコップの中の嵐という風にいえるかも知れないと思います。
事業部自体の存在が会社の失敗事例みたいなものだと思いましたが、赤字を解消するだけの対案を考えられる能力のある役員がいなかったのだろうと思います。事業部に対する社内の風当たりが強くなるように感じられた時、事業部を専務直属にして見張ろうとした時もありましたが、所詮解を持たない役員が来ても何の役にも立たなかったのは言うまでもありませんでした。
 
業界最下位というコンピュータメーカーの悲哀は、新規の顧客を製品紹介と称して訪問すると身をもって感じられるものでした。普通の会社の普通の社員であれば、何でわざわざ業界最下位のコンピュータを採用するのかというのは考えもつかないことであるのは当然のことであると身をもって知らされました。この時、何処の会社でも社員が考える事は常識的であって例外は認めがたいという事実でした。
その例外を認めさせるのが営業マンの仕事でしたが、千段の階段を上がるのに数段で心が折れてしまうような事例を多数経験しました。売れないものを売るという時には、商品を売るのではなく自身や会社を総ぐるみで売らないと顧客には認めがたいものになるという経験則を得ました。当時は工場合理化とか事務合理化といったコンピュータ処理の性能ではなく、IEと言われた業務改善を合わせて提案するという他社には出来ないような提案をしましたが、暫くすると真似をされたのかどうかは不明ですが大手の国産コンピュータ会社も同様の手口を展開するようになりました。人間というのは困ったときには、その事態を受け入れて身を任せる人たちもいますが、微力ながら困窮を打ち砕くという事にもチャレンジした時もあったという風に記憶しています。
仕事での失敗という事象に限らず、物事には主観と客観という視点があります。仕事上での失敗、私の場合は情報システム営業職という職種柄、既存の顧客とのトラブルとか新規顧客への提案で他社に負けた場合が失敗という事になりました。
既に契約をしている顧客とのトラブルの殆どは顧客からの要望に自らの会社が要求に応えられない時の場合で、喧嘩まではしたくないというサラリーマン根性から大抵は何処かで折り合いをつけ、同時に上司から一言小言を言われて終わりですが、上司はトラブルの噂が社内で広がったり役員から小言を言われて自身の評価に傷がつかないようしたいということに思考が行くので、とりあえず矛を収めて顧客のご機嫌を損ねて変に大事にならないようにという事ばかりが念頭にあり、トラブルの本質よりも表面的に収まれば良いという安易な妥協に走りがちで、とてもトラブルという失敗に対して本質を見極めるということは難しかったという風に感じています。こういう事が積み重なると顧客のストレスが蓄積して何時かは反撃に合うということになりがちだったと思います。
既存契約顧客のトラブルという失敗が、担当者の単純ミスから発生するのだという管理者の思い込みが多々あり、トラブルの本質が何であったのかを分析評価して見極めできなくて弱い立場の担当者が悪者にされる場合が多く、担当者と管理者が心の中では離反していくという別の事象が生まれる原因にもなったと思います。こういうケースの失敗の主観では、顧客とのコミュニケーションが足りなかったとか、顧客内の人間関係の理解が不十分とか、顧客経営方針が役員交代により風向きが変わったとかいうように思う事があります。客観的視点というのは上司や叱責とか同僚からのアドバイスになりますが、多くの場合上司はトラブルの前兆を把握できなかったのを担当者に押し付けて責任回避を図る場合が多く、客観的な失敗についての的を得た説明を聞くことは稀であったと思っています。
 
新規の顧客との契約が出来なかった失敗というのは、主観的には八方手を尽くして自身でできる事はすべてやったという風に思っていても、契約に至らずという結果が出ると何かが足りなかったという事に気づきます、これが主観的な失敗の原因を探る最初のステップだと思います。自身が八方手を尽くしたつもりでも、何か努力が足りなかったのか、元々無理筋の話であったのか、単純な当て馬だったのかというような考えに収束して行きました。新規の顧客とは見合い見たなもので、お互いに何も知らない間柄であるにも関わらず、計算機を売り込むというのは考えてみれば甚だ失礼な話であったというような事もありました。
この主観的な失敗の原因を探し当てるというのは、失敗してからすぐに思いつく場合は少なくて、失敗直後は心理的に落ち込むので契約に至らなかったのは何故なのかというのを考える余裕も無かったと思います。多くの事例を経験するうちに、はっと思いつく場合が多かったと思いますが、それは上手くいっている仕事をしている時に過去の事例を思い出して対応を比較参照して違いが理解出来たという風に感じています。
以前のブログでも紹介した契約に至らずという失敗の思い出としては、顧客の責任者から個人的には信頼されていましたが計算機の評価が二番手で契約に至らなかったのですが、責任者から「飯でも行きますか」と言われた時には、何の関係もない人が私に対して謝意を示したいという事があり、失敗の程度も半分くらいかなと思っています。
こういう新規の顧客に対する失敗の客観的は評価についても、上司がそういう見識とか経験とかがあれば素直に聞き入れられたと思いますが、実際は机上の空論を如何にも本当らしくいう輩が多くて、凡人の思考の程度を出ていないので、聞かされるほうは失敗したという負い目から黙って反省論を聞かされるばかりなのが辛かったという思い出があります。そういう自己流の論理を振り回す上司が頓珍漢な的外れの行動をしている時を見ていると、こういう上司が揃っているから事業部の赤字は無くならないし、赤字でも理屈さえつけば良いのではないかという安易な発想があるのではないかと想像をしていました。
失敗の記憶の中には、新しい顧客から契約が取れそうだと分かりながら、結果としては他社に決まったという事例はいとまがないほどの数を経験しました。扱っていた製品の知名度が低かったという事もありますが、顧客にそれほど自身を理解してもらえていなかったという事ではないかと思います。そういう事に気づいたのは、計算機を売り込んでいた時ではなく、40歳も超えて色々な局面を一人で乗り越えていた時、ふと過去の経験を思い出した時に自身に足りなかった事が理解できたと思います。
失敗の経験を次に生かすとは軽々に言う人が普通に多数いますが、生かせるときは何時なのかという事を言える人は皆無に等しいと思います。それは本人が失敗の要因を分析出来て且つ解決策が見いだせる事ができた時に初めて失敗を生かせるというのであるとするならば、全ての人が失敗を生かせることはできないのではないかという事になります。事実、赤字事業部に属していた職場でも色々な事件が発生しましたが、事件の経験を生かして次の仕事に生かしているという人は殆どいなかったというのが感想です。
 
赤字事業部でも当時の時流に乗ったハードディスクは部内の課で始めたものが、部となり新しい事業部というところまで上り詰めましたが、あっという間に外資に負けて事業部はつぶれてしまいました。単に時流に乗っているだけでは事業は長続きしないという好例でした。この事例は長期的な視野が無く、場当たり的な対応が成功したので、そのまま同じ方針で継続したために市場動向とはマッチせず、他社に置いて行かれたのだと思います。この時、失敗した時は手遅れでもあったという程に時間の流れが他の製品よりは早かったというのも意識されていなかったのだろうと思います。
こういう何かを始めては行き詰まるという事を返している間に、事業部の赤字体質は改善もされることも無く、最後には稼ぎ頭という会社の主流事業部に併合されました。肝心の主流事業部の社員は代理店営業で、のんべんだらりとした仕事しかしていない実態を知らないで、大きな数字が上がるという理由だけで社内では評価されていたのでした。厳しい直接販売営業をしている社員が、代理店営業でぬくぬくと育った社員を見習えというのは無理筋で、これは大きな錯誤している役員がいたという証明でもありますが、同時に大きな失敗をしたときでもあったと思います。結果として時は流れると、主流事業部は社会構造の変化で自ら改編も出来なくて縮小の道をたどり、最終的には同業他社との合併で生き残るというみじめな末路になりました。赤字事業部は会社の業績悪化にもつながるとして、最後には子会社にさせられて終わりました。子会社にしたからと言って何か変わったという事は無く、会社が小さくなったので管理費も減って何とか体裁を整えることが出来るほどの体質になったと思います。この子会社の社長は親会社の社長が引退した後の指定席ともなった理由は分かりませんが、長年赤字事業部に在籍した社員から見ると違和感があります。
役員が計算機というビジネスを軽視し、役員の方針が間違った方針をだしたのは事業の大きな失敗とも言えると思います。それが子会社となった赤字事業部に生かされたという様子が無いというのが分かったのは、子会社となった後の営業マンが、私が転職後の会社で新たに顧客となった会社を訪問して何かの提案をしたというのを知った時でした。提案内容の評価を顧客の課長から聞くと、内容は合格ラインに行かないという評価で、私が勤務していた20年以上も以前と何も変わっていないというのを確認したからでした。
27歳で本社異動後、転職する迄の14年間に仕事上で自身がどれほどの失敗があったかと思い出してみると、失敗の中身には色々あって選別しなければならないという事です。特に30歳以降は売れもしない大型計算機を新しい顧客に売り込むという非常に困難な仕事をしていましたが、肝心のそういう困難な仕事に対して適切な指導は部課長には出来ないという絶望的な環境もあり、全てが手探りで上司はあてにならないので自身で解決しなければならないという環境にあったので、必然的に失敗の連続でした。
顧客との面談でも割合と好意的な人とそうでもない人とのコミュニケーションの確立から実際に提案書を作成して提示する迄の課程においては、まさしく荒野を一人で行くようにも感じられて、失敗の連続から段々と自分で顧客に対する方法を確立していきました。特に顧客とのコミュケーションが一番重要であるのは基本ですが、その相手はどういう人なのかを見分けるのに、相手の表情を読むというような当たりまえのことから、骨相学というような本も読んだりして心理学の勉強もしたと記憶しています。
工場勤務では毎日同じ顔をした人たちと仕事をしているので自ずと相手の性格とかは理解できますが、新しい顧客と面談するときは素性も分からない同士で話をすることになるので、面談の最初は製品の説明ではなく自身の会社の説明とか自己紹介をして相手と打ち解けるようにしました。粗雑でもコミュケーションが出来るようになると相手の要望も薄々理解できる様になり、必然的に失敗というような事につながることは少なくなりました。年齢を重ねるたびに経験を積むことで失敗は少なくなり、的確な行動ができるようになっていったと思います。事業部も計算機が売れない事情も分かっていたせいか、特に新規のビジネスについては期待が薄く、へまをやらかそうが失敗しようが、そういう悪い報告をしても精々課長から赤ペンで勘違いしたコメントが返ってくるだけという毎日でした。
 
本社異動後に或る製造業の顧客を担当されました、この顧客の課長が「私が営業マン教育をしてあげます」と言って懇意にしてくれましたが、酒飲みなので接待には労しました。この顧客と相当ねんごろな関係になった頃に、そろそろ計算機も古くなったので次期計算機のリプレースを提案しようというので社内をあげて提案をしました。新しい計算機の提案は役員の反応がありませんと情報システム部長からも告げられたのですが、当時の営業部長は業績が悪く数字が足りないというので私に仮でいいから注文を入力しろという指示があり、担当者としては上司の指示とは言え嫌々注文をシステムに入力すると、工場の部長から直々に私に電話があり本当に大丈夫かと詰問されました。そうしていた後、社内のあちこちから注文を疑問視されていた営業部長は顧客の役員を押そうとして面談をしましたが、結果的に次機種導入の提案は拒否されて失注ということになりました。
この時、私は営業職の教育中という時期で、顧客の状況を正確に伝えていただけのメッセンジャーボーイしか務められていなかったという風に思います。顧客の内部情報を懇意にしている課長からも聞いたのですが、役員の意向は分からないという状態だったので、営業部長なり事業部長なりを動かして顧客役員に面談し提案内容の受諾可能性について探るべきだったと思います。長年の付き合いのある顧客なので営業部長は油断していい加減な判断をして、営業担当者を悪者にしという事件でした。
こういう失敗をしてからは受注入力も本当に慎重にするようになり、大きな勉強代を支払ったものだと感じて、以後の営業活動では顧客とのコミュニケーションを一層重要視する態度になりました。
成功で学ぶことよりも失敗で学ぶことの方が心理的にはずっしりと重く感じられて、反省をして落ちこむこともあります。通勤途上の電車の中で失敗の自己分析していて車窓の景色もうつろに過ぎ去っていただけという思い出もあります。
サラリーマン48年の間には色々な失敗がありました。仕事だけでなく投資とか趣味においてさえも失敗をして、人生とは失敗の連続なのかと思いますが、私の失敗は主に転職する40歳までが一番多かったと思います、それは仕事から来るストレスもあったし金銭的にも余裕があったことが災いしたのではないかと思っています。
仕事の失敗は過去のブログに書いたつもりなので詳細は省きますが、一番忘れえない最初の失敗は工場勤務の時に起こした発注仕様書の書き間違いで500万円以上もの損失を出したときで、部内では当時は新入社員というので仕方ないなあという風に思われていたと思います。当時の500万円といえば家一軒が建てられるほどの金額でした。現在の金額で言えば3・4千万円ほどの損失ではないかと思われますので大変な失敗と言えます、しかし当時の私は部としての損失の意味も分からず、茫然として責任者の次長が損失を購買部にも負担させようと腐心している姿を見ているだけでした。当時の図面や仕様書は担当者印の他に照査欄もあったのですが、すべて他人が押す判は全てめくら判で担当者がすべてを管理無くてはいけないという体制でした。工場には5年ほど勤務していたのですが、入社早々にこんな失敗をしても申し訳ないという気持ちはありましたが、私の失敗で産んだ損失の意味が理解出来なくて、失敗から学ぶということは無かったように思います。しかし、段々と会社の仕組みが分かってくると自分の起こした失敗が大変に迷惑をかけた事件であったというのを理解できるようになったという意味で、自身の経験として意味があったと思います。

本社に異動後に経験したもので一番記憶に残る失敗は、私が起こしたものではなく私が本社異動後に営業マンとして一生懸命に面倒を見ていた顧客の情報システム部長に対して営業部長が間違った判断をして計算機システムを他社に切り替えられたという失敗でした。この時、顧客の情報システム部長から営業担当者として息子同然にかわいがられていたこともあり、計算機の次機種提案のときには他社が計算機を切り替える条件に米国接待を内々持ち掛けていたのを情報システム部長が耳打ちしてくれたのでした。これを営業部長に伝えて、わが社でも同様に顧客を米国接待をしないといけないと言ったのは当然でしたが、営業部長は赤字事業部という負い目があったのか上司の役員にも相談できなかったのかどうか不明でしたが、顧客の情報システム部長に米国接待は出来ませんと宣言して顧客の情報システム部長を怒らせて、当然のごとく次期計算機は他社に決まったという事件でした。
この時ほど私自身は心の中で怒り狂ったことはありませんでした。顧客の面倒を一手に引き受けて顧客訪問都度に情報システム部長のお好みのウィスキーは持参するし、部員にはお茶菓子を差し入れる、冠婚葬祭も情報を得て対応するというな私が顧客を丸抱えするような日常を送っていたので、営業部長の根性の無さに非常に立腹したのは言うまでもなく、私が言う通りにしていれば難なく時期計算機の契約は出来たのに、全てをぶち壊された気分になって以後は顧客に行くこともなくなり何の対応もしないというかたくな態度に豹変しました。直属上司が私の仕事をカバーしてくれて、顧客の情報システム部長が私が相当に落胆しているとうのを聞いたせいかどうかは分かりませんでしたが、次期計算機と金額的には同じくらいの別の計算機を導入するという契約をもらえることになり嫌々ながら見積書を夜中に自宅で作成したという記憶が残っています。
失敗すればするほど自信もなくなりますが、暫くして失敗の傷が段々と癒えてきて、普通の日常が始まっていると自身が意識した時には、何だか今までの自分とは違って見える時があり、自分がそれまでの自分とは違った人間に見えるような気分になることもありました。
40歳で転職するまでは非常に規律の厳しい、ある意味では開かれた監獄と言ってもいいほどだと個人的には感じていた程に息苦しい会社であると感じていました。そういう会社とは知らずに自身の趣味の延長線上にある会社というので訳も分からず入社したのが運の尽きということだったかも知れません。
監獄というたとえは的を得たもので、閉空間の環境の中で規律も指導されるし生活も或る枠の中に入ってしまうものになっていたと思います。転職した私はそういう枠組みから抜け出したという事ですが、大半の社員は定年まで同じ事業部で勤め上げるとなると、型にはまったサラリーマンとして終わってしまうと思われて個人的にはやっぱり耐えられないなという感想をもっています。性格的にも他人や組織から拘束されたり強要されるのに非常な反発を覚える様なところがあり、転職して苦労はありましたが解放感はあったと思いました。この会社にずっと居続けたら、自分の意志を殺して只毎日を決められたことをして過ごすだけという理由で多分に腑抜けになっていた可能性もあったかも知れないと思っています。
勿論この会社は今でもちゃんと存在はしていますが、私の転職後には日本経済の構造も変わったのに連れて、赤字事業部は全て同業他社との合弁会社にして切り離すとか、出来なければ子会社として帳簿上黒字になるような会社に仕立てるというような変遷を経て、表向きは業績好調という風に評価されているようです。多分、会社の本質は何も変わっていないので、社内の雰囲気は私が勤務していた時と同じで役所体質の保守的な会社で変わっていないと思います。
 
平日の日中に街中を歩いている定年後らしい老人を見ていて、その多くは服装に気を遣うというようなことも無く、地味でよれよれの服装で小汚い鞄を肩からぶら下げて歩いているのを見ると、自分を客観的に見られなくて過去の自身の慣習の延長線上で生活をしているという風に見えます。こういう人たちがサリーマンとして自己評価は別として、想像するのは大して仕事もしないで決められた環境で毎日を過ごしてきた人たちだろうなと思わざるを得ないという風に思っています。
先日、癌治療のために病院を訪れてから食堂で昼飯を食べていると、食堂の一角にあるテーブルを婆さん爺さんの集団が占拠していて延々とどうでもいいような井戸端会議をしているのに出くわしました。目的もなく只何の目的のなく世間話を延々としているというのを見ると、時間管理の観念が無くなっているし、自己実現などという自分のやりたい事も明確ではないとうのも現れていると思えて、サラリーマン時代に閉塞した環境で毎日を過ごした人たちの成れの果てだろうと勝手に想像をしてしまいました。
私の場合は会社という組織では仕事をして成果を上げるという事だけに注力するのが生き甲斐にもなっていたこともあり、会社という組織では変わり者だったと思います。しかし、仕事の厳しさを支えた趣味には大きな散財をして大いに反省をした時もありましたが、今頃になって時間に余裕が出来ると、漸く自分の望んでいた時が来たんだなと感じることがあるこの頃です。
書く順番違いとなりましたが、50年も以前に私が入社した会社を何故選択したのかというところまで行かなくてはならないと思いつきました。現在の私の社会人としての生活は会社で培われたものであるというのを書いてきたのですが、その会社に入社した経緯とは如何なるものであったのかも書かないといけないと思った次第です。私の性格が頑固とか一途とか変に上司に靡かないというような性格だったので、所詮どこの会社に入社しても苦労が絶えないだろうというのは容易に想像がつきます。仕事については元々技術職というのが異動で営業職になっても大いに役立ち成果を上げることが出来た要因だと思っていますので、技術職で入社したというのに間違いはなかったと思います。
 
最初に入社した会社へたどり着く運命というのは子供のころから道筋が出来ていたのかなと思っています。会社とは何の縁戚も無いのは言うまでもなく、私が子供のころには全く勉強はしていませんでしたが、ラジオとか音楽に興味があって、当時は子供の科学というような雑誌があり毎週読んでいると天体望遠鏡も欲しくなるし、ラジオも欲しくなるというような具合でした。貧乏な家庭だったので当然ながらまともなものは買ってもらえず、天体望遠鏡も組みたてるようなものを買ってもらい、組み合わせが難しくて自分ではできず姉が組み立てたというような記憶もあります。当時はまだトランジスタが高価な時代で到底手が出ず、最初は鉱石ラジオ制作から始まり、イヤホンで音が聞こえると感激して、次はもっと性能の良いラジオが欲しくなり真空管ラジオを親戚から譲り受けて感電しながら中身をいじるのが趣味となりました。
家では大きなアンテナを張って自作のラジオで短波放送を聞いていましたが、たまたまトラジスタラジオが出来上がった翌日に何時も聞いているVOAという米国の日本語放送を朝早に聞くと「本日は非常に悲しいニュースをお伝えします」ということでケネディ大統領暗殺のニュースを聞きました。朝7時のテレビで放送されるのかと思って見ましたが話題にも出ていませんでした。ニュースとなったのは夕方でしたので私は日本でも一番早い時間にケネディ暗殺のニュースを聞いたのかと思い少しばかり得意気に思えた時もありました。
そういう自分の好きなラジオの回路図とかを眺めているだけで楽しいというような毎日を送っていたので、大学受験で受験する学校の課程は電子工学以外には考えられませんでした。受験勉強とは無縁で普通に高校に行っていただけなので、それなりの偏差値の学校に何とか入学することが出来たという事でした。
昨今の新聞で就職事情というのが記事として話題になっていることがあり、私には信じられないのですが神学部の生徒が普通の会社に入社試験を受けるというような記事を読むと、そもそも神父さんになる気もないのに何故神学部などに入学したのか非常に不思議でたまりませんでした。どこの学部でもいいから入学さえできれば良いという安易な考えからなのかと想像をせざるを得ませんが、自身のやりたいことを無視しているのか不明なのかは別にしても私の理解を超えた事だというのが感想です。私の入社した会社にも本社異動後に上司となった人は教育学部卒ですと聞いて驚きました、文科系の人達の行動というのは自分の意志ではなく成り行き任せの人達が多いのかとも想像をしてしまいました。当時の教育学部といえば先生を目指す人達の行く学部としか思えないからでした。
大学での専攻はレーダー用の電波装置の一部を作るということで電子工学の先端分野に関わり、当然ながら就職先も電気関係の会社になるのは必然で、何とか自分の意志に沿った会社に入社出来たということになったのでした。
 
人生の道筋は紆余曲折しながらも誰かが決めた道ではなく、曲がり何にも自分の意志で入社した会社も決めたように思いました。しかしながら、会社に入社すると想像とは全別の世界があって、自分自身の社会人としての知識欠如と性格が災いして苦労することになりました。最初に工場に配属されたときは日本でも最高の偏差値の集団ではないかと思われるような職場でしたが、職場に段々と慣れてくると仕事と学校の偏差値とは関係性が薄く、仕事のできる事と勉強ができる事とは違うのだというのを理解出来たのは社内人としての一つの経験であったと思います。
技術職の工場勤務から営業職の本社異動という、普通ではなかなかあり得ない道を歩む事なったのも、子供のころの自分の好きな道を会社選びにも選択した結果だという背景を思うたびに、人生の道というのは自分の意志では図りえないものがあるのだろうという風にも感じます。
サラリーマンとして仕事を糧として生活していたので、当然ながら仕事にまつわる教育とか経験を積んで自身の中に蓄積してきた事を述べてきましたが、それでは新入社員以降は仕事以外のことについては社会人としてどのような教育を受けていたのかと考えると、毎日の生活が会社中心なので会社というものからは離れて考えられなかった事だったと思います。そうなると自然に保守的な会社の習慣を社会常識と考えることになりましたが、後年よくよく考えてみると少し常識外れなこともあったのではないかと思いました。会社には会社のカラーがあって、それが一般社会常識とはちがっている場合があるので、それを思い込みで常識と思うと間違いという程ではないにしても少々変だと思わされることもあったからでした。
 
工場勤務は朝8時から夜5時までで残業もして休日出勤もしたりしていましたが、工場を出るには上司の許可証が必要なので本当に塀に囲まれた監獄みたいな場所だったと思います。職場の社員だけの社会という状態であり、すごく狭い世間に生きていたのかなと思っています。本社に異動後は営業職というので人間関係は職場だけでなく顧客も含まれる中での生活だったので少しは視野が広まったとは思いますが、それでも生活の中心は職場になるので所詮は小さな部落社会の中での生活でしたので、工場時代よりは職場の人数が増えたというだけで狭い社会に生きていたというのは変わらないと思います。
会社は規律を重んじる会社だったので、何かにつけていちゃもんをつけられることが間々ありました。そうなると、人間は自然と内向きになって触らぬ神にたたり無しの心境になり、出来る限り大人しくしていようという風になってサラリーマンが鉛の兵隊になるのかと思っていました。
 
サラリーマンは仕事に拘束されるので自分で使える時間は非常に少なくて、特に私は普通の人よりも疲れやすい体ということもあり休日も殆ど世間と接することも無く精々食料品を買いに行くくらいだったので、世間に生きる社会人としては殆どを会社生活という社会で日常生活を送ったといっても過言ではないと思っています。
サラリーマンの社会生活といえば職場の上司・同僚の冠婚葬祭がメインで、その他は慰安旅行、ゴルフ
大会、忘年会、運動会というような仕事以外の社内での付き合いがあったと思います。どれこれも自分の趣味とは合わないものばかりで世間体を保つために嫌々参加していた行事ばかりでした。冠婚葬祭では特に葬儀数が職員数とその家族親戚数に比例していたせいか1年に何度も香典を包まなければならなかったのが記憶に残っています。勿論、同僚の親が亡くなったときには葬儀が行われる斎場や自宅まで出かけるので、仕事が仕掛中でも言い訳ができて気分転換になったという風に感じています。職場の若くて大人しい同僚が自殺した時や、親しくしていた先輩が灯油で焼身自殺をした時の衝撃は忘れられませんが、何となく噂で自殺の理由を知るものの、すっきりしないまま社会から消えていったのは会社生活の中で忘れられない出来事の一つです。
 
30歳代になると毎日殆んどの時間、外出もありますが会社に在籍するようになると、夕食を近くのビルの定食屋で食べるようになり栄養が偏って自然と体重が増えて腹が出てきました。サラリーマンが帰宅している人波を分けながらビルの1階にあった定食屋に行くというと何ともわびしく感じますが、当時は帰宅時間は夜の10時以降と決めていたので空腹で文字が書けなくなるという事の方が心配で、仕事が大切という価値観を持っていました。そういう毎日夜遅くまで仕事をしていても、私の体を心配して上司や事業部長からは何の言葉が無かったのは、それだけ赤字事業部という会社から厄介者扱いされているという事情もあって、かえって夜遅くまで頑張っている社員がいるという風にしか見えなかったのではないかと推測しています。時々他事業部の前を通ると時などに職場の様子を覗き見ると、割合と業績の良い事業部では他人の芝は青く見えるせいか人間関係も良さそうに見えて職場の雰囲気も明るく活況を呈しているように見えました。仕事面だけでなく、会社生活というものも事業部の業績により大きく雰囲気が違うなというのを何時も感じると、サラリーマンというだけでなく社会人としても人生の悲哀を感ずるということになりました。
職業上の教育というのは何も職場の上司や周りの職員からのアドバイスとか経験談を聞くだけでなく、自身で実体験したことの方が何よりも記憶に残るものになると思っています。教育というと抽象的で非常にあいまいな言葉に思えますが、自身の経験が積み重なって体に染みつくという事も教育といえるのではないかと思います。そうなると、サラリーマンの殆んどの人達が毎日の仕事を積み重ねた経験が教育の効果になっている筈ですが、例えば人事・総務・法務部門と言った職種ではルーチンワークの毎日だったり、定型業務の繰り返しという職種では中々働いている人たちは何か教育効果として得ているものは少ないのではないかと思います。

それが営業職で新しい顧客を見つけるという仕事になると急に自身の能力や行動力のハードルを上げざると得ない事態となり、色々な体験から教育とか教訓とかいうものを得ることがあると思います。営業職でも、ルーチン的な定型営業や組織営業とか多種多様ですが、私が経験したのは個別営業という自身で道を開くという開拓精神がないと出来ないような仕事でした。そういう開拓者が小さな場所を巡って争い事が起きるのは、開拓する中でも少しでも楽をしたいという人間の本来的な欲求があるからだと思いますが、私もそういう小さな開拓場所での争いごとに巻き込まれて、世の中は弱肉強食の世界だと嘯いていた人もいましたが、それは違うだろうという教訓を得ました。よさそうな土地だからと言って他人の土地を無理やりに自己のものにするというのは、サラリーマンとして手っ取り早く目立ちたいという人間の根源的な欲求の表れだと思いましたが、そういう行動には自己本位の考えしかなく、組織としての成績向上につながるかどうかは非常に危ういものがあると感じていました。しかし、そういう行動をしても能力のない目先ばかり気にする管理者は大いに評価をしていたという現実があり、赤字事業部という何か特殊な小さな世界では小さなパイを巡って争い事をするのが普通になっていたのかもしれないと考えています。
上司に認められたいという気持ちが強いと体面を気にすることに意思が働き自己本位になるのかなというのが私の得た教訓で、逆に私はそういう態度とは真逆な自然体で困難な仕事を大汗をかいて行うことになり、成果を上げても上司からそれほど褒められることもなく、上司が部下に近寄るのは沽券にかかわるとばかりに、上司は自席を動かないでちちらと眺められているのは何とも変な職場だと感じていました。しかしながら、そんな事を気にしていても仕方がないので、上司よりも自分の方が余程度量もあるし人間的にも心は広いと考えると、そういう凡人で部下を兵隊としか思わず上司の目ばかり気にする上司には、心の中は明かさず普通に付き合うしかない思うようになったのは、サラリーマンとしての教訓だったと思います。
 
赤字事業部という本質、大して成果も上がらない組織の本質とは何かというのを営業マンとして電車で移動中や満開の桜の咲く道を歩きながら考えることはよくありました。そういう組織に配属されたというのも何か運命的なものがあったのか、それとも余程自分の前世の行いが悪かったのかなと思うことも度々でした。
業績が赤字とか悪いとかという組織は、会社という組織の中で生き残りを図らねばならないので自然の成り行きとして目先の事にしか考えが及ばない事が多く、そうなると益々やる事なす事が硬直してしまい悪循環に陥って最後の日を迎えるという事になるように思えています。これもサラリーマン48年の経験から得た教訓だと思います、長年にわたる仕事をして教育をうけた教訓なので間違いはないいう確信は十分にあります。