27歳で工場から本社に異動となり、赤字事業部に配属されて困難な仕事をせざるを得なかったのはサラリーマンとしての命運だったと思っています。私が学生時代に一番苦手だったデジタル計算機という世界に足を踏み込まされたのも同様に運命的なものを感じました。学生時代に一番苦手だった英語は工場の英検2級取得でマスターして、計算機については赤字事業部という劣悪な環境の中で知識を習得して30歳代後半になると、汎用ビジネス計算機、工場プロセス計算機、研究所ガスクロ用計算機、FAコンピュータやパソコンについて一通りの実務経験によってシステムの内容を知ることができて自身の工場で得た業務経験と合わせると、計算機によるシステム開発とかシステム構築・運用・保守についての基本知識はそこいらの名の知れたコンサルタントよりもまともな知識や情報量があると感じるようになり自信がついてきたと思いました。
これも弱小事業部故に要員が少なくて一人で担当する顧客が特定の分野に限定する程の数は少ないので、結果として自身の技術的内容理解もできることと相まって到達できたのではないかと感慨深く思い出します。
27歳で本社に異動になり計算機という初めて経験する製品に対してどう対応しようかと困惑していた時にフロアにある移動書庫で事業部で販売している計算機のシステムエンジニア向けの説明書があるのを見つけ、自宅で最初から最後まで熟読して初めて計算機の仕組みから動きまでを理解することが出来たのは今でも鮮明に覚えています。しかし、事業部で扱っていたのは元々米国製で技術計算用というのを事務処理用に利用するのを提案していて当時としては一般世間には中々理解されにくい製品でした。今では当然という機能が40年も以前には革新しすぎて理解されないままに埋もれていったという製品でした。
工場で勤務していた時に扱った米国製航空機製品や本社で扱った米国製計算機という機器に知るたびに米国と日本との技術力や製品力との差が10年どころか20年以上の差があるのではないかと感じていたのは、少しは技術的な理解ができていたせいかと感じています。本社の事業部では文科系の出身者が多く、技術説明はシステムエンジニアと割り切っている人ばかりだったので私のような感想を持っている人はいなかったと思います。
 
本社勤務で得た知識は製品の知識だけではなく、サラリーマンとしての顧客に対する姿勢というものを学びました。顧客との面談メモについて私は書き魔と言われたほどで一言一句すべてメモを取るということをしていましたが、顧客の前で全て書き取られているとのを顧客が意識しますよというアドバイスもあり、顧客の発言を記憶してから意図を読んでから報告書に記載するという方法に変わっていきました。当然ながら、上司の発言も私の理解で正直に全て報告するので、上司の課長が気に入らない事が書いてあるときは赤いペンで消して間違いだとコメントしていました。
服装についても工場では作業着で独身寮との間を往復していたので背広はほとんど必要なかったので、入社時の背広で本社異動後も着用していましたが、上司からも少しは背広やシャツについて都会者らしいのを選んだ方がいいのでは言われて始めて服装の重要性について気付かされました。
会社から背広の費用が出るわけでもなく、背広は営業マンの作業着だという人もいるくらいでしたので、このアドバイスがあってから以後は百貨店のセミオーダー背広で生地も国産から輸入物へと年齢が上がるたびに段々と高い背広を買うようになりましたが、年齢とともにそういう外観も営業マンとしては重要だというのを感ずることができたのは、自分が営業マンとして実績を上げた事が出来るたびでした。
靴は30歳代に気にいったメーカーのものを20年以上は履いていましたが、退職時には靴のサイズが小さかったせいか見事に外反母趾ができてしまいました、これも営業マンとしての成果と思って外反母趾を直すことなど考える事もなく毎日眺めては自分が歩いた道の長さを思うばかりです。
接待費についても本社の赤字事業部で教育されました。担当者の頃は仲間内の喫茶店での飲食費等社外で利用した飲食費は領収書をもらっていました。又、当時は近隣の喫茶店や飲食店では会社名での付けがきくので事業部名をサインして飲食できるといういい時代でした。残業代もつかない管理職になると接待費も少しは考えて出せと言われるようになりました。顧客との飲食も単なる仲良しの関係だけを作るだけの目的では接待するなという様な厳しい話もあり、そうなると仕方なく自腹で接待しなくてはならないという事も当然ながら起きてきました。上司に相談しても、営業マンは自腹で接待しなくてはならい時もあるし、そういう時の方が顧客との関係も良くなることがあるとかいう都合の良い言い訳を聞かされたものでした。
マンション購入前の時にはローンも無く財布には余裕があって、自腹接待も余裕でしたがマンション購入後にはバブル前兆のころで色々な投資をローン支払いが始まると、この自腹接待の支払いも重荷に感じられるようになってきました。当時の殆んど顧客は真面目な人ばかりで接待も事前に申請して済ませる場合が多かったのですが、ある特定の顧客だけには顧客の趣味である高い盆栽を自腹で購入して自宅まで届けたりしましたが、多分殆んどの営業マンが経験をした事が無いだろうと思っています。営業という仕事は物売りという単純明快に割り切っている人には到底思いもつかない芸当だろうと思っています。
40年も以前のことを思い出しながら総括して書いていると、何時も元気でバリバリと働いている時ばかりなくスランプの時期が何度かあったのを思い出します。営業マンとして一通りの仕事を覚えた頃、30歳くらいの時には毎日を同じ作業の繰り返しばかりの単調なので、このままだらだらしながら定年まで行くのかなと思うと何だか一生懸命に働くのが馬鹿馬鹿しく思えて、体もそういう心が芽生えると芯が座らないような感じ
でした。そういう態度を見ていた上司から「最近、単に仕事をこなしていればいいとい風に思っているんだろう。仕事は熱意をもってしないといけない」と諭されたのを覚えています。
当時は事業部でのゴルフ大会とかバス旅行とかあって、そういう行事でも幹事を指名されたりしたので、会社員として負け犬事業部から逃れられないという風に割り切るしかないかと思って、営業職というのを定年まで続けるという諦めが覚悟を決めるという心境になり段々と本来の自身の積極性が出てきて、仕事に対する意欲も出てきたという経緯があります。サラリーマンを4・50年もしていると誰もが何度かは壁にぶち当たって、それを乗り越える人とそうでない人がいると思いますが、これも人生の一契機だろうと思います。
バス旅行の幹事として一泊で近隣の温泉地に行くのですが、バスに乗った途端に温泉ホテルに到着するまでは酒を飲ませろというリクエストがくるので、私は幹事に指名された恩返しで安い酒を大量に買い込んで、銘柄品のウィスキーとか日本酒とか偽って飲ませて散々に酔わせるのが日ごろの恩返しとして痛快に感じる時でした。散々に酔わせても事業部の社員は温泉ホテルでは、徹夜麻雀とかエロビデオ鑑賞とかに夢中になっていて、私はそういう連中の心境は全く理解出来なくてさっさと寝る変わり者に見えていたと思います。
こういうスランプの時期を何度か過ごすと、会社というものがどういう場所であるかを再認識することができて、上司におもねても所詮最後はどう処遇されるかは時の運みたないものがあるので、自身で考えた道を進むのが最善という結論に至ったのも一つの学習効果であったと思っています。当時、赤字事業部というのもあって特に部課長の息が掛かっているとみなされると、部課長の移動とともに息のかかった社員は地方転勤という裏ルールがあり、私が転職するまで本社に13年も在籍したというのは珍しいという事例でした。
本社の事業部では、社内・関連会社・取引バーターという王道の顧客を担当するという事は無く、新しい顧客を発掘するという厳しい道を歩くばかりの日常を送りました。営業職の最初の頃は既存の顧客を担当して、大抵は情報システム部長は私より年配で、年齢的には情報システム部長から見ると自分の息子くらいの年なのでかわいがられたという記憶もありますが、30歳になってから新しい顧客の発掘という苦難に満ちた道を歩いたので、過去のいい思い出はその時には忘却の彼方にあったと思います。
 
数え切ないほどの会社に電話をしてダイレクトメールを送ったり、アポイントが取れれば面談に訪問したりしていました。直属上司が大学の野球部出身というので体力があり私のようなひ弱な人間を引きづり回わして、営業の基本指導をして、2回3回と繰り返し訪問して相手と仲良くなる方法を教えてもらったりしました。契約もない新規の顧客と打ち解けるとはなかなかに難しい事でした。新しい顧客から温情で提案の機会を得たりしたときは、契約には至らないと思いつつも提案の機会を得ただけで何となく人間関係が深くなったようにも思えた時もありました。
製品が知名度も無く、技術的にも特徴が普通とは少し違っていて色々な課題が多くあって売るのが非常に難しい製品という事もあり、コンピュータ販売は一筋縄ではいきませんでした。私が自分の勤務する会社とは全く無縁な会社から何度かコンピュータを販売した時、顧客から言われたのは「あなたの熱心さが、技術的な比較より優先されました」という言葉が出るほどのものであったというのは鮮明に記憶に残っています。
新しい契約のない多くの会社を訪問するという時は、その会社の属する業界情報も話を聞けるし、同時にその会社の利用しているメーカー情報も聞けるので、自身の情報量は業界の雑誌よりも早いし多かったという風に感じていました。これも王道を歩かなかったから他の営業マンとは格段に違う知識量を得ていたと思っていました。
今から40年も以前のコンピュータ会社で大手の名の知れた会社の営業職といえば、コンピュータを毎日朝から晩まで売りに回るのが仕事となっていて、あるコンピュータ会社では営業課長に昇進するには胃潰瘍になるのが前提であると言うくらいにコンピュータを売ることに厳しく邁進していました。
特に顕著なのが外資系コンピュータ会社で、外資系では営業職は歩合給が普通で目先の自己利益のために、顧客の情報システム部長を金銭贈与や弱みを握って高額なコンピュータやソフトウエアを売るというのが業界では常識と言われており、それは今でも変わらないと思います。一時期ですが経団連の幹部に外資系コンピュータ会社の社長が名を連ねているのに違和感を覚えたのは、外資系独特の利益至上主義で金のためなら何でもするという会社が保守的な日本の会社の社長と同列に並んでいたという事でした。
しかしながら、私は不幸にも私は業界でも一番弱いと言われたコンピュータ事業部に勤務していたので販売には四苦八苦していました。コンピュータを販売するにしても外資系のような芸当ができるわけでもなく、顧客に製品をまっとうに評価をしてもらいコンピュータを販売するという正統的なやりかたでした。それに加えて弱小事業部ゆえに、営業職を支援する人材も少なく業界の情報も顧客から得るものの方が社内で情報管理している部署よりも多かったと思いました。

私が営業職をメインとしながらも、専門社員を配置するほどの余裕もない事業部という理由からと、私のコンピュータ教育の一環として、コンピュータ営業を支援するための仕事を宣伝部と一緒にするという仕事もすることになりました。カタログ製作から始まって雑誌新聞への広告宣伝の原稿づくりとか、展示会の企画から実行という仕事をすることによって得た知識や経験は、普通の営業職に専念している人たちよりも広い知識や経験をすることになったと思っています。サラリーマンとしての道は経営管理ではなく専門職への道でもあったのだと思いますが、30歳代は元気もあり性格も前向きだったので何でもこなすという気概があって、体力的には限界を感じることが度々でしたが何とかこなしたと思います。
特に思い出深いのは毎年実施した晴海や池袋での大きな展示会への出展でした。コンセプト作りは大手会社の真似では太刀打ちが出来ないので独自路線をうたうものを考え、展示会で商品説明をする女性のコンパニオン向けの説明原稿作りを行い、展示会場での監督をしたので疲労感は尋常ではありませんでした。展示会の終了時には最後まで現地に一人残って撤収を確認してから、バスに乗るために日暮れの晴海通りまでとぼとぼと疲れた体を引きずりきながら歩いた記憶は今でも残っています。これほどの苦労をしても成果は何時も大して出なかったのですが、コンピュータ事業を世間に知らしめるために当時の金額で1億円ほどもかけて毎年実施をしていました。

30歳後半には普通の営業職を続けながら、事業部が当時出始めたCAD事業に乗り出すというので、元々技術者出身というので私に白羽の矢が当たって事業の計画をするという事になりました。事業部長からはえらく高い目標の売り上げを計画しているという話を聞かされて、最初から無理筋の話だとは思いましたが一応はあらすじを書いて事業計画書を作成しました。赤字事業を何とか転換したいという事業部の希望でもありましたが、私が無理筋ですと言っても聞いてもらえるような雰囲気でもなかったので仕方なく物語を創作したということになったと思いました。事業計画を作成した当初は、事業部内では皆が嬉々としているし、工場に行くとえらく歓待されたりしていましたが、実態を知っているので私はうかうかした気分よりはすぐ先に見えた実績を心配して浮かぬ日をすごすことになりました。数年してから余りにも高い目標値が問題になり、結局のところ私がCAD事業をとりまとめるものの、拡販の努力は続けるという方針から代理店の社員による体制を作り、事業部のメンツがつぶれないようにするという事に専念していました。
弱小事業部の営業職の人間が、こういう普通ではない経験を経て得た知識や経験は普通の営業マンとは格段に違うもので、普通に考えても別世界の話かもしれないと思われるものでした。普通の営業職の人達とは随分と違った道を歩いてきたというのは、楽ではなく大変な苦労があったというのも人生の道筋であったと思いますが、自身の何事も前向きにしか考えない性格も裏側にあったのかもしれないと思います。
サラリーマンとして22歳から始まり70歳まで何とか勤め上げた最後の仕事が、役所体質の顧客のシステム開発の失敗という仕事で後味の悪いものでしたので、長々と個人的見解を述べることになってしまいました。
私の人生は小学生から高校生の頃は碌に勉強もしないで、大学での少しの努力ばかりでサラリーマンの社会に入った事もあり、現在の自分の知識や能力は殆どサラリーマンになってから身に着けたものばかりでした。
新入社員の頃には英検2級合格が会社の必修というので、仕方なく大学受験用の本で入試まがいの勉強をしたので、一番の苦手だった英語がその後は一番の得意科目になりました。若い頃なので記憶力も十分で単語やフレーズを容易に覚えられた結果ではないかと思います。
当時は外国とのやりとりはテレタイプというものしかなく、英文タイプライターで原文作成してテレタイプ室のオペレータに渡して米国に送付してもらうものでした。英文タイプライターを使っていたので、その後ワープロとかパソコンの操作は全く違和なく使えたのも、工場勤務の時の英文タイプライターでの英文作成という経験があったからだと思っています。
工場実務では物づくりの現場にいたので、製造業の会社では誰が何をしているのかを理解していた事が後にコンピュータ販売していた時、顧客の業務課題がいち早く理解できた事でした。こういう仕事振りは社内のシステムエンジニアにはえらく嫌がられていましたが、営業マンとして顧客との付き合いが表面的ではなく深く付き合えた一因になっていたと思います。

工場から本社に異動後は役所まがいの文書主義の職場だったので国語や漢字の習得が出来た事と、顧客ばかりでなく社内の部署に対して仕事上で必要な協力を得るための説得という理屈作りという訓練があって、理屈や理論武装づくりという変な能力が養われることになりました。本社では営業職でしたが、常に上司からは常に行動を考えろという指導や、30歳の頃には非常に個性的な上司も現れて指導されて、仕事上の色々な局面において対応するあらゆる手段を考えるという能力が身に付きました。こういう仕事振りで、営業職としては職場でも一目置かれる立場だったと思いますが、しかしながら上司にはなびかない事や仕事上も常に真面目さを求める性格が上司からは煙たい存在だったと思います。
本社では事業部の管理部長からは営業職の新人は丁稚奉公という気持ちで始める事が必要だと常に言っていましたが、個人的には小ばかにされている気分で余りいい気分ではなかったと思っていました。そういう営業職としては何かやりづらい職場でもあるというのにも関わらず、新しい顧客を見つける仕事が10年以上も続きました。会社や製品の知名度も業界では低く、結局のところ親戚会社か取引先とのバーターでしか売れないという事が分かっていても、朝から晩までアポイントを取り訪問して製品説明をするという日常を送っていた事で得たものは、営業職は粘りとか諦めないという心持が必要であるという事でした。又、往復で一日もかかるような遠方の顧客でもアポイントが取れれば僅かな希望を持って出かけていくことも度々あり、営業職として微かな希望しか持てない顧客でも訪問して歩き回るという事も重要だと思いました。こういう地道な営業活動が、従来とは全く違い営業努力だけで新しい顧客と契約することが出来たと思いました。

赤字事業部でしたが営業職として高価な外部業者による営業マン教育も受けられて、過去の自身の仕事の仕方の参考になりました。面談する人の能力や性格というものを理解してから対応を考えるという事が必要であるという事も学んで大いに参考にはなりましたが、実務で営業マンとして相手と何処まで信頼関係を築けるかというが基本であるというが最重要というのも再確認出来ました。
営業職として新しい顧客訪問や既存の顧客フォローの為に歩き回るというのは苦にはなりませんでしたが、当時の職場は事業部長が帰り始めるのが夜8時位だったので、自然と職場全体が夜8時定時になっていて、昼間歩き疲れた体には少々辛いものがありました。
40歳前には、この職場でも本道から離れた道を歩いていたと思いますが、本道を歩いていた社内や親戚会社とか取引先バーターとかを担当している営業マンとは、多分仕事力という意味では随分と差があるなとは自身でも感じることが出来るようになる位にはなっていたと思います。
本社に異動してから13年も経過する頃には、赤字事業部という事もあり社内の厄介者扱いで色々な体制変更が毎年の様に行われて、最後には当時の社内の稼ぎ頭の部門に相席するような形になりました。ここで、事業部長が正当な理由も無く本社から支店に転勤させようとしたので、たまたま転職のお誘い電話が転職先企業の管理者から直接あったこともあり、選択を迫られた結果転職という道を40歳に決めたのでした。
67歳で嘱託契約終了を退職3か月前に告げられた時の心境は、50歳以降は事業部長によるパワハラにより部内で裸にされたような状態から一人だけで15年位かけて経常利益で20億円以上は稼いだという自負があったにも関わらず、70歳まで働きたいという希望を見事に打ち砕かれたというものでした。退職するにしても次の就職先を探す期間は3か月しかなく、懇意にしてもらっている役所体質の顧客に事情を説明して何とか派遣社員として1年半勤務できるようになった時はほっとした気分でした。70歳までに、この役所体質の顧客の他、大手情報処理会社と大手メーカー子会社に派遣社員として勤務して何とか自身の目標である70歳まで働くという目標を達成したのですが、70歳になるとサラリーマンとして急に働き場所が無くなるという一抹の寂しさを感じました。派遣会社で2年半程の期間勤務した内容は以前のブログで紹介しましたが、会社というものは職場環境が会社の持つ社風で大きく異なるものだというのを身をもって感じた貴重な体験となりました。
役所体質の顧客での契約終了時には情報システム部の送迎会に加え、二次会では部長の行きつけの数寄屋橋のジャズバーに案内されて有難く感じました。一方、私が転職後27年も勤務した会社での嘱託契約終了は上司である営業部長の1000円ランチで終わりでした、まさにこの差って何ですかと考えさせられた時でもありました。
70歳で仕事から解放されて、大学の先生が定年後のアルバイトをしているカルチャーセンターで歴史とか文学コースを受講しましたが、受講生は学ぶという意識はなく単に聞いているというボケ寸前の老人ばかりなので、講師もそれに合わせている人もおり内容は私の満足を得られなかったので1年後には受講を止めて自習スタイルにする事にしました。
この年の8月には派遣会社から私の住んでいる区内の小中学校のパソコン保守点検作業のアルバイトの紹介があり、学校の夏休み期間中に何か所かの小中学校に行き、現場の先生とも話をするという貴重な体験をする事ができました。
 
こうして退職後を自由に過ごしている時に病院で循環器の定期診察を受けた時に医師から血液の鉄分が異常に少ないという理由で内科診療を勧められました。内科ではCTで大腸に問題ありというのが判明して、大腸の内視鏡検査で大きな癌が発見されて驚きました。自身は何の自覚症状も無く極めて元気な状態であったのですが、医師に質問すると自覚症状の無い場合もありますという回答でした。同時に大腸がんが大きくなり過ぎていて他の臓器にも転移しているというのを聞いて二度びっくりしました。
3月には都立病院で大腸癌摘出手術を受けましたが、癌の大きさがこぶし大という10年以上もかけて成長したもので手術は7時間にも及びました。同時に手術医師を始めとする10名くらいの手術室の中は全て20・30歳の女性ばかりだったのにも驚かされました。
大腸癌は摘出したものの他の臓器にも転移しているので現在も癌治療中です。しかし、薬が分子標的薬という薬で、癌だけでなく正常細胞も壊すので副作用がでるというものでした。私は医師に正常細胞を壊すので、それは毒薬というのではないのでしょうかと質問したら驚いた顔をしていました、多分こういう理解をしている人は始めただということかなと思いました。副作用は結構辛くて日常生活が出来なくて一日中横になるしかない状態の時もあり、暫くはこういう生活が続くのかと思うと何とも言えない気持ちです。
この大腸がんが出来たのが10年以上も前と聞いて、事業部長からのパワハラを受けた時期と重なるので合点が行きました。事業部長からのパワハラ後には一人で新しい顧客と契約をして、特に新興企業の課長は金で動く人物だと自身で語っていた事もあって、色々な手練手管を使うと同時に自腹接待を10年も続けて大きく会社の業績を拡大させたのですが、同時に大腸癌も大きく成長していたのだなと想像しました。そういう意味では、大腸癌を摘出して初めて27年も勤務した会社の厳しいサラリーマン生活が終わったのだという実感が湧いて来た時でもありました。
役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトについて色々な感想とか感慨がありますが、営業マンとしての最後に仕事に顧客に不満足な結果しか残し得なかったのは何とも慙愧に堪えないという心情です。
顧客は役所体質なので極めて温厚で親切な人ばかりなので、普通に話をすると基幹システム刷新プロジェクトの結果について非常に不満でも表面的にはにこにこして大変でしたねという表情なので、大概の人はたいして不満はないのだなと誤解をするのである。この顧客と私は取引の無い頃から初めてもう20年以上も付き合っていたので、こういう状況というのは理解が出来ていて、基幹システム刷新プロジェクトを受託した事業部から常識外の話が出た時などは、システム開発を受託した事業部の関係者が帰社した後に、私が会議室に情報システム部長に呼ばれて、システム開発を受託した事業部から説明を受けた内容についてものすごい怒りが爆発して私が聞き役に回っていたのでした。
こういう役所体質環境なので基幹システム刷新プロジェクト終了も社としては一応計画通り出来たということにしなくてはならないので、基幹システム刷新プロジェクトに関連する管理者や関係者が情報システム部に在籍中は、仕方なくシステム開発を受託した事業部に対して文句も言わず沈黙していたのは日本中何処の会社でも同じ光景だったと思います。暫くして役員が交代し、その役員は基幹システム刷新プロジェクトに関与していなかったので自由に発言できる立場から「騙された」という言葉が社内に蔓延したのだと思います。これが役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトに対する評価であろうと思いますが、私が基幹システム刷新プロジェクトを受注する立場にいた会社に嘱託として在籍中には度々基幹システム刷新プロジェクト中、基幹システム刷新のシステム開発を受託した事業部のプロジェクトマネージャーに苦言を呈していたのですが、プロジェクトマネージャーの能力レベルが低すぎて会話が成立しませんでした。プロジェクトが終了して顧客から「騙された」という発言を聞いた時には、プロジェクト中に一言も私の話を聞かなかったシステム開発を受託した事業部の出鱈目なプロジェクト運営と納品したシステムに問題があると顧客から言われ、納品物が不良品であることが証明されたと思いました。
役所体質の顧客から基幹システム刷新プロジェクトを受注した会社に私が嘱託として在籍中、システム開発を受託した事業部に相当立腹し批判的でした。システム開発を受託した事業部のプロジェクトマネージャーから私がプロジェクトに対して批判的なのを聞いた、上司である営業部長が私の嘱託契約を打ちきると突然言い出したのも、事実を把握出来ないし他人の事を鵜呑みにしか出来ない部長や管理職として基礎能力不足を自ら露呈したと思っていました。同時に、嘱託契約解除に同意した管理職や役員の管理能力も同様に問題があったということが、この顧客役員の「騙された」発言で見事に証明をされたと思っています。

顧客からクレームを受けても会話もせず知らん顔をしていたのは、以前のブログで紹介した『無謬(むびゅう)性の原則』をそのまま実行したものであろうと思います。
信じられない事ですが、会社として社員や組織としての能力が正確に把握されずに仕事が実行してされていた実例であろうと思います。そういう事業法人として自らの能力を自覚出来ないと個人的に感じていたのは、社内にシステム開発関連のライブラリがあり時々は見ていましたが、内容が3・40年も以前の古いもので、文字や表がぎっしりかいてあるので如何にも知識がありそうなシステムエンジニアが書いたのかと思わせる陳腐を思わせるものでした。想像するに、古い知識を持ったシステムエンジニアで、且つ本当の大形システム開発を体験していないシステムエンジニアが書いたものだろうと思います、そういう情報にたいしてさえ何の疑問も持たない社員の技術レベルも如何なものかと思っていました。
システム開発をするには実務でシステム開発を体験しなければ身につかないと思いますが、会社としての技術レベルからかまともなシステム開発の仕事が受注出来なくて、プログラム開発をシステム開発と称するような案件しか来ないので、負の連鎖が続いて永遠に真のシステム開発は無いのかも知れないというのが個人的感想です。
役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトについて如何にして滅茶苦茶なプロジェクト管理が行われてきたのかを考えていると、一つは顧客の役所体質による体裁繕いによる対応がシステム開発を受託した事業部の暴走を許したとも言えると思います。しかしながら、顧客の弱い立場を理解しつつ基幹システム刷新を行うというのは前提であると私個人としては十分に理解しているつもりでしたが、システム開発を受託した半ぐれ集団とそれを支援していた管理職や役員の利益優先主義は結果として顧客利益を大きく損ねたとも言えると思います。
システム開発を受託した事業部はシステム開発の経験があるというふれこみでしたが、私が横眼から見ている限りではシステム開発について業務錯誤という事実があったのではないかと思いました。
錯誤とは「錯誤とは民法上,内心的意志 (意真) と表示とが一致せず,そのことを表意者みずからが自覚していない場合の意思表示をいう。法律行為の要素に錯誤があるときは無効である (95) 。」とありますが、プロジェクトは終了しており今更法律論を語っても無意味かなと思っています。
 
このプロジェクトでは定期的に社内でシステム開発の会議が行われたのですが、どういう目的で会議が行われているのか出席者全員が理解不足のように思われたのでした。当のプロジェクトマネージャーがあれこれ発言をしているのを聞いていると、過去に経験した簡易なプログラム開発プロジェクトを経験した時の事を思い出しつつ述べているだけの様に思われました。想像するに、システム開発ではなくプログラム開発をシステム開発という全く異質な業務と錯誤していて、レベル感の全く違う事をあたかも本当のように経験則として繰り返し述べていたのではないかと思います。そう考えると、システム開発の基本である最初の基本計画のフェーズで突然画面仕様の話が出てきた事や、実務でシステム開発の範囲縮小した等々の多数のトラブル事情が理解が出来るのだと思います。
本来、システム開発という業務は創造的な思考が出来ないと仕事が出来ないという高度なもので、役所体質の顧客の割合にシンプルな基幹システム刷新というシステム開発についてさえも、システム開発の基本的な素養が無いと対応するのが無理な業務であると思いました。しかしながら、役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトで起きた事件ともいえるようなトラブルが次々に発生したのは、システム開発を受託した事業部はシステム開発という業務そのものを役員から担当者までが理解しないで仕事をしているという実態を見事に証明したのではないかと思います。システム開発という業務を錯誤していて、言葉づらばかりにしか理解していない、所謂役員から担当者までが業務を錯誤した状態で実際にプロジェクトを始めると色々な問題が発生するという事になったのだと想像されます。
 
こう考えると、システム開発に限らず会社の役員から担当者までが情報処理業という生業をどれ程の理解で取り組んでいるか甚だ疑問にも思えてきます。業務実態としてコスト削減の為に実務を外注に委託するのは良いとしても、肝心の外注に業務を委託する社員の能力が外注会社社員よりも劣るという実態も経験しているので、今振り返って考えてみると社員全体が錯誤の中で疑問も持たず淡々と仕事をしていて、顧客との間で何かトラブルがあっても自らの非を認めない社風に従って行動していた社員が多数を占めていたのではないかと思います。そういう社風の中では建前ばかりの重視で管理部門が幅を利かせて業績が伸びないという連綿とした歴史が作られていたようにも感じています。
役所体質の顧客の基幹システム刷新システム開発プロジェクトに関し、私がサラリーマンとして勤務していた時の頃を思い出しながら、どう考えても滅茶苦茶に終始したプロジェクトとなった原因というよりも、もっと根にある真実は何だったのかを、色々と思考錯誤しながら書き綴っています。しかし、別の面からこういうブログを読むと、私の勤務していた会社のホームページに記載してある会社紹介の表面的な美辞麗句の裏窓を開いて見せているのかという風にも思えます。退職後に自身の勤務していた会社とは如何なる実態であったのかを追求することはサラリーマン総括という極めて意味深いものがある事だろうと思って書いています。
 
役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトは、私が当該システム開発を受注した担当者でしたが、システ開発の途上でのプロジェクト混乱を社内で問題として度々挙げると五月蠅がられて、私の嘱託社員という弱い立場を利用されて途中で退職に追い込まれたので、システム開発を受託した事業部と関係部署がシステム開発後にどのように社内で処遇されたかは直ぐには知りえませんでした。システム開発終了後の暫く後に伝え聞くところにより社内表彰をうけたという話を聞いて、さもありなんという感想を持ったことは以前のブログでも紹介しました。
これは、顧客に納入したシステムの出来栄えが優良であったという表彰ではなく、役所体質の顧客が不承不承言われるがままの費用を半ぐれ同然のシステム開発を受託した事業部に全額支払ったことで、結果としてシステム開発を受託した事業部と関連部署が大きな利益を得た証としての表彰であったのは明らかだと思いました。念のために書き置きますが、私の勤務していた会社の中一部の部署は、無知とか弱い顧客を相手にすると自身の利益確保のみを優先して、顧客を脅したりするのを平然と行うことがあるのを分かりやすく半ぐれという表現を使いましたが、私の記憶限りではそういう一部の部署があったのは事実で、他の真面目な部署が大半であったことも申し添えておきます。
しかしながら、会社としては親会社の仕事量が減少する中で一般の顧客のシステム案件を受注するにしても、情報処理業としての基礎技術能力の脆弱さに加えて、会社の体質が前回紹介した様に『無謬(むびゅう)性の原則』に忠実だったりしていたので、相手にされるのはどうしても問題がありそうな胡散臭い顧客が必然に多くなるのは自然の成り行きだと思いますが、そういう本質問題に目が行かなくて同業他社が行う新規事業を見て身の程の実態も知らないで手を出す役員がますます情報処理業という生業を貶めていたのではないかとも感じています。
会社の歴史として多数の会社が利害調整して集合した会社という事情もあり、社員の意識統一も十分ではなく変にプライドの高い社員がいたかと思うと、平然とごますりを行う社員とそれを喜ぶ幹部がいたりとかするのが、一般的な規律重視の日本の会社とは少し景色が違うのかという印象をもっています。そこに外資系の弁舌爽やかな能力不足の転職社員が入り込む素地が同業他社よりも大きくあり、多数入り込んで一兵卒も経験もしないし実績も上げないでも大きな顔をしていました。そうなると、社員評価は役員や管理職にべた付く、ヒラメ目社員やごますり社員にあるというような変な雰囲気が蔓延しているとも思えて、建前上の公平を声高に言う必然性が発生して変な能力判定書が出回る結果に陥っていたとも思います。
 
役所体質の顧客の基幹システム刷新開発プロジェクトは、受託した事業部は既存のまともらしくない顧客から十分な利益も得られていない中、突然他事業から振られた案件は干天の慈雨の如くのとらえたと推測しますが、私が派遣社員の時に作成したプロジェクト評価書を紐解くまでもなく、プロジェクトマネージメントに始まり技術力・問題解決力・判断能力・折衝能力等々について問題があり、顧客からは「騙された」という評価も後ほどあったのを成功したプロジェクト案件と評価できるのかいう課題を、受託した事業部や関連した部署は正当に議論や評価していないと想像しています、尤も評価出来る程の能力も無いとも想像できるので致し方ないとも思えます。そうなると、身の程も知らず基幹システム刷新を受託したとも言えて、新しい基幹システムが現在でも何か障害が発生しているとすると全ての理由はそこにあると思えます。
 
この基幹システム刷新プロジェクトの失敗原因を個人能力の理由にするのは簡単です。
プロジェクトマネージャーは何を根拠に提案時にプロジェクト見積費用を作成したのか全く不可解で単に用意できそう人数を期間で積算しただけとしか思えず、それはシステム開発が進捗する度にプロジェクトは延長し費用は追加増大されて、最終的には競合先の提案費用を超えて、顧客の担当部署の面子を丸つぶれにしたと想像しています。
役所体質の顧客に年に年始しか訪問しない受託した事業部の役員や管理職は、常識通りの会話をされて顧客との関係は良好と思い込むほどの能力程度ですが、自分に不都合に事態が発生した時は矢のように突然現れて顧客側に全て問題があると主張する資料を堂々と提出するという、顧客を怒り心頭にさせ会社関係を平気で壊すようなことを仕組んでいました。
システム開発のプロジェクト問題が多発してから顧客からメールが毎日飛んできたのを受けた営業窓口の部長は、顧客を一度でも訪問して顧客の不満を聴取する事も無く、受託した事業部に毎日メール転送していました、自身の能力を超えていた問題であると告白するような事もあったのですが、そこには自社利益優先という思想が裏にあって顧客のことはどうでもいいと思っていたと想像しています。
同時に、こういうプロジェクトを野放しにしていた管理職や役員は、普通なら顧客関係悪化を心配して顧客役員や幹部と内々顧客内事情探査のために聴きに行くと思うのですが、この時は役員が顧客の役員に内々面会に行ったのはプロジェクト成功のために追加エンジニアが必要ですといって余剰社員を売りつけたという普通には信じられないような事がありました。この役員は本番後の障害発生釈明には一度も顧客役員を訪問してのではないかと推測しています。
役所体質の顧客の基幹システム刷新プロジェクトは今から5年も以前に始まり3年半もかかったプロジェクトですが、私自身はかかわった事件の関係者の一人として考えているので、役員から始まり管理職・担当者までが普通では考えられぬ行動をさせた背景とは如何なるものかという、真実の究明は尽きぬかも知れないと思っています。
私が役所体質の顧客の基幹システム刷新に当たって、受託した会社の事業部がやらかした出鱈目な仕事振りの背景を色々考えている中で、今日の日経新聞のコラム欄に参考になるような記事がありました。
一部を転記すると「日本の政府や大企業の官僚組織ではほとんど無意識のうちに前提とされているのが『無謬(むびゅう)性の原則』である。ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけないという信念だ。」という下りでした。
私が役所体質の顧客の基幹システム刷新のシステム開発を受託していた時に勤務していた会社は、大企業の子会社という事もあって組織は親会社に倣って、稼ぎの無いコストセンターの間接部門は実働部隊に比べて極めて重厚で人数が多く役所体質と言えるものと思えました。間接部門の役員や管理職には通念上は当たり前と思われるコストセンターという意識が極めて低く、逆に間接部門が経営を主導している部門と勘違いして、間接部門が会社を支えているという歪んだ意識があったのではないかと感じていました。
私が長年勤務していた時に、社長以下役員や管理職が色々な事業を手掛けたものの後に失敗とも思えるような事態になっても、経営上は辻褄を合わせて事業は放置されて何時までも辞めることが出来ない事例を見聞していましたが、これが無謬性の原則を実行していた証かと思いました。会社自体が無謬性の原則を持っていると、金さえ儲ければ何でもありという風に誤解をする、思考能力の低い社員が自ずと出てくる素地になっているのかと推測しています。
 
役所体質の顧客の基幹システム刷新を受託した事業部の当時の体制は、常に常識外れの発想をする役員や管理職が席巻するような社員が居座っていた中での出来事なので、システム開発を実行した部署では受託した基幹システム刷新開発では問題を起したくないという気持ちが強くあったと推測しています。そういう社内の環境下、受託したシステム開発を担当する社員が自身の能力を超えているというのを理解出来なくて、外注に丸投げで何とか逃げ切ろうとしたプロジェクトの推進方法が、基幹システム本番直後には多数の障害を生み出した原因ではないかと推測しています。
役所体質の顧客の基幹システムは手作業の業務をそのままシステム化したもので、極めてシンプルなものなので、どうして障害が発生するのかが不思議に思える程の内容であり規模だと思います。システム化に当たっては受託した事業部の担当したシステムエンジニアにも問題があったというのは以前のブログでも書きましたが、現場で本来頑張らなければならい社員が頑張れなかったという事もあり、この基幹システム刷新プロジェクトではシステム開発を受託した会社の体質から来る問題に加えて、現場で本来頑張らなければならい社員が頑張れなかったという事もあったという、何処までも負の連鎖が続いていたようなプロジェクトであったと思いました。
今から40年程も前の事ですが、私が営業マンとして見習いの頃に某大手機械メーカーにコンピュータを納入する案件がありました。実務担当は私よりも少しばかり若い社員でしたが、有名企業の社員らしく優秀そうに見え落ち着いていた態度が印象に残っています。何度も打ち合わせをするうちに段々と相手も打ち解けてきて会議で世間話をしている時、その男から「当社は不沈艦と言われていますが、それでも将来はどうなるか分かりませんね」という言葉が出て驚きました。当時は日本経済も上り調子の時代にあり企業は売上高が右肩上がり、そういう時代背景をものともせず持論を述べたのかなと思いました。その男は少々変わっていて会議の席上で上司が横にいても、理路整然とした理屈で物申すというような男でした。その会社も昨今は新規事業の遅れで多大な負債を負って経営が不透明であるという新聞記事を読んで、倒産というような事態にはなってはいませんが危機的状況にあるというのは事実で、40年も以前に若手社員がぽろりと述べた言葉通りになっていると思うと、その慧眼に感服するばかりと感慨を持ちました。その会社は大手企業らしく考え方が保守的で何時も安全方向に思考が行くのが個人的には気になっていて、若手社員もそういう思考が蔓延している社内の空気を察して驚くべき発言をしたのかなと思います。
 
役所体質の顧客の基幹システム刷新を受託した事業部では、自身の技術の丈を超えたシステム開発を何事も無かったかのように業務を終了したのは、契約という書面上の記載を金科玉条の如く一心不乱に唱えていたからだと思います。刷新したシステムが本番開始した直後に発生した多岐に渡る障害は、当たり前に個別に対応していただけなのが技術レベルの低さを象徴していたように思います。顧客から「騙された」という発言が出ても知らん顔してやり過ごした姿勢は、当然ながら自分たちは正しいという唯我独尊を信じていただけの事だと思います。
この顧客の基幹システム刷新に関係した管理職や役員は、この案件は利幅が通常案件より大きく業績に貢献したという事で評価されるばかりで、納入されたシステムの品質や出来栄えには全く無責任であったという事実が残ったプロジェクトだったと思われます。システム開発を生業とする業者として、自身が開発した納品物の責任を一切負わなかったという姿勢が出ていた案件であったとも言えると思います。

結局のところ、このような姿勢で顧客と接していくという事が延々と続くと、会社としては何れかの時期に存続できるのかという問題に直面することになるのではないかというのを、40年も以前に経験した事から想像したという事です。私が勤務していた時、問題のありそうな役員や管理職が何時までも異動されないでいたという事があり、変に人脈ばかりに拘る人事が横行して、会社の浄化能力が低いのが気になっていたのを思い出しました。これも会社としての暗黒面の一つとも言えるかと思います。