サラリーマンとして22歳から始まり70歳まで何とか勤め上げた最後の仕事が、役所体質の顧客のシステム開発の失敗という仕事で後味の悪いものでしたので、長々と個人的見解を述べることになってしまいました。
私の人生は小学生から高校生の頃は碌に勉強もしないで、大学での少しの努力ばかりでサラリーマンの社会に入った事もあり、現在の自分の知識や能力は殆どサラリーマンになってから身に着けたものばかりでした。
新入社員の頃には英検2級合格が会社の必修というので、仕方なく大学受験用の本で入試まがいの勉強をしたので、一番の苦手だった英語がその後は一番の得意科目になりました。若い頃なので記憶力も十分で単語やフレーズを容易に覚えられた結果ではないかと思います。
当時は外国とのやりとりはテレタイプというものしかなく、英文タイプライターで原文作成してテレタイプ室のオペレータに渡して米国に送付してもらうものでした。英文タイプライターを使っていたので、その後ワープロとかパソコンの操作は全く違和なく使えたのも、工場勤務の時の英文タイプライターでの英文作成という経験があったからだと思っています。
工場実務では物づくりの現場にいたので、製造業の会社では誰が何をしているのかを理解していた事が後にコンピュータ販売していた時、顧客の業務課題がいち早く理解できた事でした。こういう仕事振りは社内のシステムエンジニアにはえらく嫌がられていましたが、営業マンとして顧客との付き合いが表面的ではなく深く付き合えた一因になっていたと思います。

工場から本社に異動後は役所まがいの文書主義の職場だったので国語や漢字の習得が出来た事と、顧客ばかりでなく社内の部署に対して仕事上で必要な協力を得るための説得という理屈作りという訓練があって、理屈や理論武装づくりという変な能力が養われることになりました。本社では営業職でしたが、常に上司からは常に行動を考えろという指導や、30歳の頃には非常に個性的な上司も現れて指導されて、仕事上の色々な局面において対応するあらゆる手段を考えるという能力が身に付きました。こういう仕事振りで、営業職としては職場でも一目置かれる立場だったと思いますが、しかしながら上司にはなびかない事や仕事上も常に真面目さを求める性格が上司からは煙たい存在だったと思います。
本社では事業部の管理部長からは営業職の新人は丁稚奉公という気持ちで始める事が必要だと常に言っていましたが、個人的には小ばかにされている気分で余りいい気分ではなかったと思っていました。そういう営業職としては何かやりづらい職場でもあるというのにも関わらず、新しい顧客を見つける仕事が10年以上も続きました。会社や製品の知名度も業界では低く、結局のところ親戚会社か取引先とのバーターでしか売れないという事が分かっていても、朝から晩までアポイントを取り訪問して製品説明をするという日常を送っていた事で得たものは、営業職は粘りとか諦めないという心持が必要であるという事でした。又、往復で一日もかかるような遠方の顧客でもアポイントが取れれば僅かな希望を持って出かけていくことも度々あり、営業職として微かな希望しか持てない顧客でも訪問して歩き回るという事も重要だと思いました。こういう地道な営業活動が、従来とは全く違い営業努力だけで新しい顧客と契約することが出来たと思いました。

赤字事業部でしたが営業職として高価な外部業者による営業マン教育も受けられて、過去の自身の仕事の仕方の参考になりました。面談する人の能力や性格というものを理解してから対応を考えるという事が必要であるという事も学んで大いに参考にはなりましたが、実務で営業マンとして相手と何処まで信頼関係を築けるかというが基本であるというが最重要というのも再確認出来ました。
営業職として新しい顧客訪問や既存の顧客フォローの為に歩き回るというのは苦にはなりませんでしたが、当時の職場は事業部長が帰り始めるのが夜8時位だったので、自然と職場全体が夜8時定時になっていて、昼間歩き疲れた体には少々辛いものがありました。
40歳前には、この職場でも本道から離れた道を歩いていたと思いますが、本道を歩いていた社内や親戚会社とか取引先バーターとかを担当している営業マンとは、多分仕事力という意味では随分と差があるなとは自身でも感じることが出来るようになる位にはなっていたと思います。
本社に異動してから13年も経過する頃には、赤字事業部という事もあり社内の厄介者扱いで色々な体制変更が毎年の様に行われて、最後には当時の社内の稼ぎ頭の部門に相席するような形になりました。ここで、事業部長が正当な理由も無く本社から支店に転勤させようとしたので、たまたま転職のお誘い電話が転職先企業の管理者から直接あったこともあり、選択を迫られた結果転職という道を40歳に決めたのでした。