【偉人に学ぶ:北大路魯山人】料理と食器・全体としての料理を考えること
こんばんはCocoro tableの柴田裕美子です。連休、いかがおすごしですか?私は今日は子どもたちと公園を走り回りました全速力で。。。でもちょっと気を抜くと、5歳になった息子にかなり追いつかれるようになり、危機感を覚えました・・・まあ運動できるとか足の速いお母さんは目指していないのでいいのですが・・・笑さて、今日はなんだか硬いタイトルになってしまいました。。。(;^_^A私は料理も食器も昔から好きで、レストランできれいに盛り付けられたお料理をみて、それを食べるのがとても好きです自分でも「おうちレストラン」として器や盛り付けにこだわってみたりすることもあります。高価な食器だからよいというわけでもなく、その料理に合った食器を選ぶことが大事だと思っているし、そして料理と食器のバランスがうまく取れた時に、私たちはより美味しさを感じると思っています。先日それを強く実感した出来事がありました。リゾットのお皿がイマイチだった事件。。。(イマイチの写真は下にします笑)こちらはバランスが取れた成功例↓↓アサリのリゾットですが、自分でいうのもなんですがお皿とリゾット、ランチョンマットのバランスが取れていると思いますそして、こちらがイマイチ事件のリゾット・・・↓↓ポルチーニのリゾットで味はとても美味しく出来たのですが、盛り付けたらイマイチ。。。ランチョンマットとのバランスもイマイチ・・・最初は上の写真と同じお皿に入れるつもりだったのですが、リゾットやパスタはいつも同じだしな~と思って変えました。そしたら見事に失敗・・・やっぱり、いつものお皿(上の)にしておけばよかったーと激しく後悔しました。。。見た目のバランスが悪くなりました。感じ方の個人差はあると思うのですが、お皿の深さやふちの幅などにより、料理を引き立たせることが出来なかったように思います。きっと上のお皿にはイタリアンが合うし、下のお皿にはフレンチの方が合う。スープを入れても上はミネストローネが合うし、下はコンソメスープやポタージュが合う。自分で作るときにはそんな風に料理に合うお皿をイメージして作り、食器を買うときはこのお皿にはこんなお料理が合うんじゃないか、などと想像して買います。料理や食器のプロではないので、もちろんイメージしても実際に乗せたら合わなかったということもたくさんありますが・・笑今回、そのことをうまく説明してくれている記事を見つけました北大路魯山人のもの。1931(昭和6)年に書かれたものです。80年以上も前のものですが、すごく共感できるものでした。というより、やっぱりそだうだよね?!という感じでした。当たり前のことだけれど、とても簡潔にまとめっているもの。料理は「ものをうまく食するための仕事」料理は食器なくしては成立しない料理は必然的に食器のことも考えてするものだし、こういう食器にはどういう料理を乗せたい、など器も含めて全体としての料理を考えるものである。ホントにそう♡実際に読んでいただく方が、そうかーとかそうだよねーと思っていただけると思うので、一部を抜粋してご紹介します。****************************近来、食べ物のことがいろいろの方面から注意され、食べ物に関する論議がさかんになってきた。殊に栄養学というような方面から、食べ物の配合や量のことをやかましくいうことが流行った。けれども、子供や病人ならともかく、自分の意志で、自分の好きなものを食うことのできる一般人にとっては、そういう論議はいくらやっても、なんの役にもたたない。 だから栄養料理という言葉が、まずい料理の代名詞のように使われたのも、むしろ当然である。わたしどもの目からみると、栄養料理というものは、料理にもなにもなっていない。人間の食べ物は、馬や牛の食物とはちがう。人間は食べ物を料理して食うからである。料理とはいうまでもなく、物をうまく食うための仕事である。だが、わたしはなにもここまで改まって料理の講釈をしようとは思わない。ただ一ついっておきたいことは、ともかく、そういうようなことから医者とか料理の専門家といういろいろな物識りが、料理についてさかんに論議してはいるが、その一人として料理と食器についてはっきりした見解を述べているものがいないということだ。いうまでもなく、食器なくして料理は成立しない。太古は食べ物を柏の葉に載せて食ったということであるが、すでに柏の葉に載せたことが食器の必要を如実に物語っている。早い話がカレーライスという料理を新聞紙の上に載せて出されたら、おそらく誰も食おうとするものはあるまい。それはなぜであるか、いうまでもなく、新聞紙の上に載せられたカレーライスがいかにも醜悪なものに思われ、嫌らしい連想などが浮かぶからである。カレーライスそのものだけなら、これをきれいな皿に盛ろうと、新聞紙の上に載せようとも変わらないはずである。それにかかわらず、美しい皿に盛ったカレーライスは、これを喜んで食べ、新聞紙に載せられたカレーライスは見るだに悪寒を覚えて眉をひそめるのは、料理において食器がいかに重要な役目をするかを物語ってあまりあるといえるであろう。 しかして、こういう感覚は一応は誰でも持っているのだが、美食家とか食通とかいうものになればなるほど、それが鋭くなる。ほんとうに物の味が分ってくればくるほど料理にやかましくなり、料理にやかましくなればなるほど、料理を盛るについてもやかましくなる。これはまた当然である。 しかるに、現代多くの専門家が料理を云々していながら、その食器について顧みるところがないのは、彼らが料理について見識がないか、ほんとうに料理というものが分っていないか、そのいずれかであろう。 以上のことが分ると、それに従って次々にいろいろなことが分ってくる。料理をするものの立場からいえば、自分の料理はこういう食器に盛りたいとか、こういう食器を使う場合には、料理をこういうふうにせねばならぬとか、いわば、器を含めて全体としての料理を考えるから見識が広く高くなってくる。<一部略> このように、いかなる方面からみても、料理と食器とは相離れることのできない、いわば夫婦のごとき密接な関係がある。料理を舌の先に感ずる味だけとみるのは、まだ本当の料理が分らないからである。うまく物を食おうとすれば、料理に伴って、それに連れ添う食器を選ばねばならぬ。もちろん、ひいては料理は食う座敷も、床の間の飾りもすべてがこれに伴ってくるが、そのもっとも密接なる食器について意を用いることが、まず、今日の料理家に望まねばならぬ第一項であろう。 よい料理とはなにか、よい食器とはなにか、これがただちに続く問題であるが、今日の一般はまだそれを問題にするまでにさえ至っていないのを遺憾とする。 **************************私は栄養や料理の専門家ではないので、ここでいう栄養料理が今ではどうなのかとかはわかりませんが、「うまくものを食おうとするため」に器も含めて全体として料理を考える。この考え方はとてもシンプルでわかりやすい気がします。料理をするのも、食器やカトラリーを選ぶのも、うまくものを食おうとするため。これに尽きるのだと思います。うまく食せると幸せですから。私は何を食べるかよりもどう食べるかをとても重視しているのですが、それはまさに「うまく食おうとするため」のこと。「うまい」「おいしい」と感じるのは脳ですが、それは料理や食器を含めた全体のバランスが取れていて心地よいと感じたときだと思っています。美味しいと感じるのって、やっぱり心地よさ、どう感じるかの「こころ」なんですよね♡だってどんなに美味しい味付けのものでも盛り付けがイマイチだったり、プラスチックの食器に乗っていたら美味しいと感じられない。別れ話をしながら食べたら、美味しさなんて感じられない。全体として考えること、うまく食するための工夫・仕事。この記事から学んだことでした!全文はこちらからお読みいただけます★では、また料理ではないけれど、これも器と食べ物の関係の大切さが感じられた写真↓プラムとプルーンです。グレーとマスタードカラーのお皿に乗せたから、秋らしさを感じる写真になりましたが、これを白いお皿に乗せたら全然印象は違ったと思います。料理(食べ物)と食器の関係。面白いですね♪講座や講演、Cocoro tableの活動に関するお問い合わせは こちらから★