このブログは私のあくまで主観に基づいて書いているものであり、私が感じたことや思ったことを書くことが何故いけないのだろう?

 それは私がこのようなブログを書くことで不利益を被る人がいるからだ。少なくとも私の家族はそうなのだろう。私がブログで家族のことをいろいろ書くことで家族の評価が落ちる。とばっちりを受ける。だから私の兄弟や姉妹は私のブログを読んでこのようなことを母に言うのだろう。

 「おまえのことはどんなことを書いてもいいけれど、家族のことは関係ないだろう。書くな。」「おまえは好き勝手にしていいしどうだっていいけれど子供が可哀想だろう!」と。

 私はこのように家族のものから「厄介者」だと思われている。私は家族の中ではいつもお荷物で常に誰かに迷惑をかけている穀潰しなのだ。兄弟、姉妹は直接私にそういった言葉を言わないが雰囲気は言わなくても伝わってくるものだ。

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 私は常にトラブルメーカー。私がいるだけで、行動するだけで、発言するだけで家族に被害を被らせる。

 兄弟や姉妹は「おまえのせいで」「また問題を起こして」「お母さんにどれだけ迷惑かけているんだ。」と言い、母親は「あんたには無理だ」「やっぱり私がいないと何にも出来ない」「今まであんたが好きなようにさせてきたけど、最後は私が全部尻拭いしているんだ。」と言う。

 私は一体何なんだろう?私の存在自体が悪なのか?私がいること自体が家族を苦しめ傷つけてしまうのか?私がいなければすべて丸く治るのか?ねえ、私は一体どうすればいいんだろう?

 私がこの世からいなくなれば、あなたたちのその言葉を聞くこともないし、その言葉でこれ以上私が傷つけられることもない。私は自分の存在が無くなれば誰も傷つけなくてすむと思って、自分の存在をこの世から消そうと努力してきたのに。

 兄弟、姉妹、家族は私の息子を心配しても私を心配することはない。可哀想なのは私のような人間に育てられている息子であり、息子は被害者であり、私は加害者なのだ。
 
 なんで私は生きているんだろう?なんで生き続けなければならないんだろう?「必要ない」どころか「家族に迷惑を被らせる悪の根源」なのに?

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「黒子のバスケ」脅迫事件という事件が2012年(平成24年)10月に発生。2013年(平成25年)12月15日に犯人が捕まり、2014年7月18日に犯人である渡邊博史氏の公開裁判が行われましたが、A4レポート用紙44枚という膨大な量の渡邊博史氏の意見陳述用のコメントが話題になりました。(←クリックすると移動します。)

※「黒子のバスケ」脅迫事件・・・2015年9月22日 wikiペディアより抜粋(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%AD%90%E3%81%AE%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%B1%E8%84%85%E8%BF%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6)

※ 渡邊博史氏の意見陳述用のコメント・・・2015年9月22日 篠田博之氏|月間『創』編集長 2014年7月18日 15:34 Yahoo!ニュースより抜粋(http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinodahiroyuki/20140718-00037501/)



 私は現在ネット上で公開されている渡邊氏の意見陳述書を読んでこのブログを書いています。渡邊氏はこの事件を自分の言葉で「人格格差犯罪」と命名しています。この「人格格差犯罪」に至るまでの経緯の中で、いくつかキーワードがありますがその中で私が最も注目したキーワードが『社会的存在』と『生きる屍』です。

 この「社会的存在」と「生きる屍」についての説明の中で渡邊氏は乳幼児期にどれだけ家族や社会から「規範の共有」「感情の共有」を教え与えられて「安心=生きる力の源」を受け取ることができたか?が、その後の人格形成や行動様式に影響を及ぼすかを事細かに書いています。

 人間に自分の存在を常に確信させているのは他者とのつながりです。社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できている人間か「社会的存在」です。日本人のほとんどすべての普通の人たちは「社会的存在」です。

 人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか?端的に申し上げますと、物心がついたときに「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が示すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。


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 犯罪は悪いことです。なぜなら犯罪とは、社会の規律を破り社会の調和を乱すからです。それと同時にたくさんの人々を傷つけて悲しませるからです。ですが、それ以上に自分を深く深く傷つけます。

 私は最初から犯罪を犯したい人なんて誰もいないと思っています。生まれた瞬間から鬼畜な人間なんて誰一人いません。元々の生まれ持った性格や特性、才能や能力(個性)はあったとしても、その個性を開花させるのも腐らせるのも、良い人間になるのも悪い人間になるのもすべては家族や周りの人間から投げかけられた言葉と育った環境・教育だと思っています。

 なぜ犯罪を犯してしまうのでしょう?私は犯罪を犯してしまう大きなの原因として、

① 「善悪の基準を教える人がいなくなった。」
② 「尊敬できるような(良い模範になるような)人がいなくなった。」
③ 「自分の個性を受け入れて、認めて尊重してくれる人がいなくなった。」

 この3点が犯罪を犯す大きな原因だと私は思っています。

① よくテレビやワイドショーなどは何か犯罪が起きた場合、「人として」とか「常識的に」と言いますが、そもそも犯罪を犯す以前に何が良くて何が悪いのかという「善悪の基準」を知らなければ犯罪の防ぎようがないと思います。そしてワイドショー等でコメントしている人たちの常套句が「家庭での躾がなってない。」です。多くの父親または母親は家族に苦労させたくないために夜遅くまで働きに出て子供と一緒にいる時間を設けることができません。一緒に過ごす時間がないのにどうやって躾をしろと?学校では詰め込み式の教育ばかりで人として何が良くて何が悪いかの善悪の基準を教える道徳の時間もどんどん減らされています。貧困や虐待、差別を受け続ける環境の中、どうやって「善悪」を学ぶのでしょうか?本当に犯罪を減らしたいのであれば、批判ではなく「問題が起きた時にどうやって対処すればいいか?」「模範になるような生き方」の番組をもっと製作し流さないのでしょうか?
  

② みんな人が幸せになることにはお金をださないけれど、トラブルに巻き込まれたり不幸になっていく姿を見るのにはお金を出します。人の不幸を見て「こいつよりマシだ。」と安心します。ワイドショーやゴシップ雑誌は人の批判ばかり。あいつが悪い、こいつが悪い。人の不幸は蜜の味。偉業を達成して一時期フィーバーいても「もっと努力しろ」「守り通せ」と追い詰めて、出来なければこきおろす。こんな情報ばっかり目にして、耳にしてどうやって尊敬できるような人を見つけろと?人生で尊敬できる人が一人もいないということはそれはある意味とても不幸なことだと思います。尊敬できる人が誰でもいい、一人でもいればその人をモデルに頑張ることができます。しかし、それすらなければどうやって頑張ったらいいかわかりません。


③ 最後に。私が考える犯罪の最大の原因は「孤独」です。人は「言われたこと」「受けた行為」のみしか知りません。放置・放任、批判・罵倒され続け、自己肯定感や自己存在感をズタボロに破壊されてどうやって人を大切に・自分を大切にできるのでしょうか? 誰も必要としていない、いると邪魔者扱いされる。相談しても「そんなのおまえじゃ無理」「出来っこない」「世間体があるから」「おまえがいるとバカにされて恥ずかしい」などと批判される。このような心無い言葉を浴びせられたり、言わなくても雰囲気で感じ取ってしまったらどのように人を信用すればいいのでしょうか?自分がことあるごとに無能扱い、厄介扱いをされたらどのように生きていけばいいかわからなくなるのではないでしょうか?こんな状態でどうやって「あるのままの自分」や「素の自分」を見つけることができるのでしょうか?

 このような状況が続けば人が怖くなり、最終的には自分を守るために「自分の心を閉ざす」しかなくなるのです。

「自分の存在を否定されるような発言をされ続ける。」→「自分が価値のない人間だと思い込み、人が怖くなる。」→「誰も信用出来ない。」→「誰も助けてくれない。」=「私は価値がない生きる屍」という思考回路、人が信用できなくなってしまって起こす態度や行動の悪循環が始まっていきます。

 犯罪が起きた時にテレビで家族や周囲は「なんで相談してくれなかったの?」と言いますが、相談できない環境だったから、相談しても無視されたり批判されるから、心配されるのが嫌だったから「諦めるしかなかった。」というのが答えだと思います。「相談」は信用しないと出来ません。

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 より良い社会を築くため、社会の統制と秩序を守るためには規則や決まりごと・約束事が必要です。規則があるからこそ、社会や人間関係で秩序と調和を保つことができ、皆同じ条件で生きていくことが出来ます。その規則が法律ですが、そこには感情的な要素は一切交えません。法律で問われることは、社会の秩序を守り調和するための規則を「破ったか?」「破らなかったか?」だけです。

 犯罪は「悪」であり「罪」です。規律を破った、社会の秩序を乱した行為に対してそれと同様の罰を受けます。犯罪=社会全体の調和を乱すことが犯罪だとすれば。

 社会全体の秩序や調和を乱すような心無い「言葉」「行動」「態度」をしている人は隠れた「加害者」であり「犯罪者」なのではないのでしょうか?そして実際に犯罪を犯してしまった人々はこういった人々や環境のために犠牲になった「被害者」なのではないでしょうか?

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 心の痛みを知った上で、その後人から必要とされた人たちはお互いの違いを認め、違いを個性として肯定し共感することができます。しかし心の痛みだけしか知らない人は人のことを批判・否定します。私からすればテレビの報道などで人の批判ばかりするということは、心の痛みを抱えたまま自分の心の傷が癒されていない人々なんだと思います。

 「理解」も大切ですが、それ以上に「愛されている」「安心できる」「必要とされている」という「感情」が十分に満たされれば人は悪いことをしませんし人を否定したり批判しなくなるものだと私は思います。「感情」が十分に満たされていないから人は狂っていくのです。

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 私は運がよかったです。私を救ってくれたのはお客様でした。お客様は私のことを必要としてくれました。お客様の「結喜さんと出会って本当に良かった。」のこの一言で私は本当に救われました。お客様は私と出会って救われたと言いますが、違います。私がお客様に救われているのです。

 お客様が私を必要としてくれている。だから私は頑張れます。私は私を必要としてくれる方がいる限り、まだ頑張れます。そういった意味ではお客様は私の神様です。私を必要としてくれている神様です。本当に、本当にありがとうございます。こんなに至らない私を認めてくれて本当にありがとうございます。

 犯罪を減らす一番の対策法としては、まず自分が困った時に気軽に「教えて」「協力して」、苦しかったら「助けて」と言えるような環境、自己存在価値(自己重要感)や自己肯定感を高めてくれるような言葉かけをしてくれる人々、繋がり、ネットワークを作ることだと思います。

 「感情」は人の言葉で育っていきます。暖かい言葉、労りの言葉、慰めの言葉。「ありがとう。」「偉いね。」「すごいね。」「頑張っているね。」この言葉で勇気や元気が出てきます。一人一人がこのような言葉を関わった人すべてに与えることが出来れば、日本はもっと平和で安全でお互いに理解・尊重できるような豊かで幸せな国になると私は思います。

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