★リンダ・リー (vf) Linda Lee

本名ロザンナ・バルビエリ(Rossana Barbieri) 1953年4月8日ボローニャの西10km、モデナ(Modena,) 州にある小都市ヴィニョーラ(Vignola)生、ダニエル・サンタクルツ・アンサンブル.の女声ヴォーカル、歌手。兄ジオ・バルビエリ(Giò Barbieri)は旅行ジャーナリスト、小説家です。

 

 

活動期間:1974年–1983年、2006年-現在

所属レコード会社:EMI Italiana, Cinevox

所属グループ:ダニエル・サンタクルツ・アンサンブル (Daniel Sentacruz Ensemble=DSE)        

サンレモ音楽祭出場3回:ダニエル・サンタクルツ・アンサンブルのメンバーとして1976年8位、78年9位、リンダ・リーとして80年15位

 

 

  ロザンナは語学を学ぶ学生ながら、十代半ばでモデーナ(Modena)のファッション・ハウス、メゾン・ネリー(La Maison Nelly)でモデルとして働き始めていました。

 

 16才の1969年8月にモデナ郊外のサッスオーロ(Sassuolo)にあるイベント会場ポーカーダンス(Poker Danze)でミス・モデナに選ばれました。

 

 翌70年パルマ郊外のサルソマッジョーレ(Salsomaggiore)で開催されたミス・イタリア・コンテストに参加し、入賞二次称号ミス・ガンビッシマ・イタリア(Miss Gambissima Italia)に選出され、順調にモデルの階段を上りだしました。

 

 71年ミス・エミリア(Miss Emilia)に選ばれ、ミス・インターナショナル・イタリア代表(Miss International)となり、アメリカのロング・ビーチで開催された世界大会に出場しました。こうして輝かしいモデルの経歴を積んでいきました。

 

  ロザンナ・バルビエリのモデルの経歴ははっきりしていますが、歌手としての経歴はわかっていません。ダニエル・サンタクルツ・アンサンブル(以降DSEと略)が74年正式に活動を始めていますので、73年にはロザンナを含むメンバーの選定がされていたと思います。

 

 74年彼女はモデルの経歴を捨て音楽の道を選びます。DSEの女性ヴォーカルとソロ歌手となる事に専念します。

 

 DSEの時代は以下のリンクしている私のブログをご参照ください

サンレモの歌手たち 540 ダニエル・センタクルス・アンサンブル 5

サンレモの歌手たち 569 ダニエル・センタクルス・アンサンブル 6

 

 DSEのロザンナ・バルビエリとして活動したのは74年から78年サンレモ音楽祭出場の頃までの5年足らずでした。76年からリンダ・リーの芸名でソロ歌手として活動を始めます。80年にチロ・ダンミッコの結成したDSEは解散しました。

 

 DSE在籍中の76年リンダ・リー名義で映画「愛の妖精アニー・ベル(La Fine Dell’Innocenza)」のヴィンチェンツォ・テンペラの作った主題歌を歌い成功、日本でもシングル盤が出ました。それ以降DSEの女声ヴォーカルをしながら、ソロ歌手として活動をはじめました。

 

MDF-083 (1976年 Cinevox – Dischi Ricordi) Annie Belle (アニ-・ベル) [Linda Lee/King Alvin Set]

             MDF-083

 

 77年日本では映画「サンゲリア(Zombi)」などで知られるルチオ・フルチ(Lucio Fulci)監督の映画「ルチオ・フルチのザ・サイキック(Sette Note In Nero/The Psychic)」の主題歌“With You”を歌いました。レコード化されなかったようで21世紀になって発売されたサントラCDに収録されています。

 

 同年“アニー・ベル”と同じファビオ・フリッツィ(Fabio Frizzi)、フランコ・ビクシオ(Franco Bixio)、ヴィンチェンツォ・テンペラ(Vincenzo Tempera)の“ゴールデン・トリオ”が作った“Love Was the Magic”を出します。彼女の個性にあった曲ですが、前作と代り映えしないとの誹りは免れません。

 

SC-1095 (1977年 Cinevox – Dischi Ricordi) Love Was the Magic/There's No Matter

SC-1095  3C・006-18304

3C・006-18304 (1977年EMI - EMI Italiana) Toi Et Moi/ Recuerdos [Gianni Minuti & Rossana Dei Sentacruz]

 

 また“Toi Et Moi”をDSEメンバーのジャンニ・ミヌーティ・ムッフォリーニ(Gianni Minuti Muffolini)とロザンナ・デイ・センタクルツ名でデュエットしたシングル盤を出しました。

 

 78年さすがに行き詰まり打開策か、曲は“ゴールデン・トリオ”からバルビエリ(ロザンナ本人か?)とマイヌス(Mainus)にA面はダッミコ(Ciro Dammicco)も参加に変更されています。 

 

SC-1113 (1978年 Cinevox – Dischi Ricordi) Ancora Un Pò/Go Away

               SC-1113

 

 同年79年サンレモ音楽祭出場歌手で紹介したアイックス(AYX)が出演した青春音楽映画「Rock ‘N Roll」のサントラ盤でも1曲“There'S No Matter”を歌っています。この盤のトラックリスト全曲はアイックスの項をご参照ください。

 

MDF-33・125 (1978年 Cinevox – Dischi Ricordi) Rock ‘N Roll (Colonna Sonora Originale Del Film)

CIA-5006 (1978年 Cinevox – Dischi Ricordi) Rock 'N Roll (Colonna Sonora Originale Del Film)

5.There'S No Matter [Linda Lee] 

MDF-33・125  CIA-5006

 

 79年に出したシングルは77年に“Toi Et Moi”でデュエットしたジャンニ・ミヌーティと彼女の共作、それにA面はクリスティアーノ・マルジョリーノ(Cristiano Malgioglio)、B面はワルター・マルティーノ(Walter Martino)、カッパ(Kappa)が加わりディスコ調ポップスの曲で彼女向きの出来上がりとなりました。

 

SC-1139 (1979年 Cinevox – Dischi Ricordi) Ma...Io vi amo!/!3 (Thirteen)

SC-1139  SC-1142

SC-1142 (1980年 Cinevox – Dischi Ricordi) Va' Pensiero (想いは果てなく)/Dico No

 

 80年のサンレモ音楽祭にソロ歌手リンダ・リーとしてピッポ・カルーソ(Pippo Caruso)の作った“想いは果てなく (Va Pensiero)”を歌い入賞しました。さすがにサンレモ音楽祭出場曲でこれまでの彼女の曲のうちで一番の出来上がりでした。

 

 同年また映画の主題曲を歌います。エマーソン・レイク・アンド・パーマーの解散後すぐにキースが手掛けた映画音楽のうちダリオ・アルジェント(Dario Argento)監督の映画「インフェルノ」の挿入歌「メーター・テネプララム」を歌っています。これがチネヴォックスで最後の曲となりました。

 

MDF-33・138 (1980年 Cinevox – Dischi Ricordi) Keith Emerson ‎– Inferno (Original Soundtrack)

13.Mater Tenebrarum (メーター・テネプララム) [Performer :Linda Lee]

MDF-33・138  9073(CBS)

9073(CBS) (1980年 CBS – CBS Dischi) Anna Dai Capelli Rossi (赤毛のアン)/Come Le Piume Dei Pettirossi

 

 80年ロッサナは71年にジェンス(I Gens)でギタリストをしたことのあるアルベルト・タディーニ(Alberto Tadini)とデュエット・チーム、ラガッツィ・ダイ・カペッリ・ロッシ(I Ragazzi Dai Capelli Rossi  )を組み、日本のアニメ「赤毛のアン」イタリア語版の主題歌“赤毛のアン”を歌いました。

 

 一方D.S.Eは80年ジャケット写真に4人しか映っていないシングル盤“Nel Cielo”を出し、グループは解散します。リンダ・リーもソロ・デビューしたチネヴォックスを離れます。

 

 81年D.S.E.の再結成ではジャンニ・ミヌーティ、ロザンナ・バルビエリ、マラ・クエッドゥのトリオで活動を続けました。また彼女はマイナー・レーベルのCGMからシングル盤“È Colpa Della Musica”を出しています。

 

FB-02 (1981年 CGM Records - IMI) È Colpa Della Musica/Buonanotte Modena

FB-02  FB-07

FB-07 (1983年 CGM Records - IMI)) Mamma Mia!/Buonanotte Modena

 

83年の“Mamma Mia!”を最後に引退し、家庭に入りました。そして双子のジャコモとガブリエレの母となります。

 

 21世紀になり映画「ルチオ・フルチのザ・サイキック」の主題歌“With You”がサントラ盤に収録されました。

 

CDDM-062 (2006年9月 Digitmovies ‎– Digitmovies) CD Bixio - Frizzi - Tempera ‎– Sette Note In Nero [Soundtrack 8032628990625]

DGBT-002 (2015年4月 Digitmovies – Beat Records) CD Bixio - Frizzi - Tempera – The Psychic (Sette Note In Nero) [Soundtrack 8032539493505]

2.With You (Titoli) [Vocals – Linda Lee]

CDDM-062  DGBT-002

 

 

ご参考

★ダニエル・センタクルス・アンサンブル (compl) Daniel Sentacruz Ensemble

1974年にチロ・ダッミコ(Ciro Dammicco)にヴィンチェ・テンペラ(Vince Tempera)が協力して卓越したミュージシャンとヴォーカリストで結成した音楽集団。80年に解散、多くのミュージシャンを輩出しました。

 

 

活動期間:1974 年–80年;再結成81年-現在

所属レコード会社: EMI Italiana, (再結成後) Harmony, Pretty Cat's Records

サンレモ音楽祭出場2回:1976年8位、78年9位

 

74年結成時メンバー構成

・チロ・ダッミッコ (Ciro Dammicco) ヴォーカル:元ビゾンティ (I Bisonti)、元ゾーナ・ヴェルディ(Zona Verde)

・マラ・クエッドゥ(Mara Cubeddu) 女声ヴォーカル(在籍1979年まで) : 元フローラル・ファウナ・チェメント(I Flora Fauna Cemento)

・ロザンナ・バルビエリ(Rossana Barbieri) 女声ヴォーカル:別名リンダ·リー(Linda Lee)

・ジャンニ・ミヌーティ・ムッフォリーニ(Gianni Minuti Muffolini) ヴォーカル、ギター:元ビゾンティ、元ゾーナ・ヴェルディ

・ブルーノ・サントーリ(Bruno Santori) キー・ボード (在籍1976年まで):元ラミンゲッティ(I Raminghetti)

・アンジェロ・サントーリ(Angelo Santori) キー・ボード (在籍1974年まで):元ラミンギ(I Raminghi)

・ステッファノ・ダッミッコ (Stefano Dammicco) キー・ボード:チロの弟

・ジャンニ・カラブリア(Gianni Calabria) ドラムス:元ビゾンティ、元ゾーナ・ヴェルディ

・サヴーノ・グリエコ (Savino Grieco) ベース、ヴォーカル

 

 

リンダ・リーの国内盤

VIP- 2459 (1977年3月) アニ-・ベル (ANNIE BELLE)/アニ-・ベル(インスト) (ANNIE BELLE (Inst.)) [リンダ・リ- (LINDA LEE (vf))/ オリジナル・サウンドトラック (ORIGINAL SOUNDTRACK)]

 

VIP- 2459  28MM-0008

 

28MM-0008 (1981年 POLYDOR – ポリドール) インフェルノ/キース・エマーソン

13.メーター・テネプララム (Mater Tenebrarum) [Performer:Linda Lee]     

 

 

 

リンダ・リーは以上です。

★アルベルト・ケリ (vf) Alberto Cheli

1951年11月2日フィレンツェ生、自作自演歌手。1973年結成された音楽集団の中心メンバーの一人。

 

 

 

活動期間:1970年-現在

所属レコード会社:Parlophone (Le Madriのメンバーとして)  RCA Italiana (Schola Cantorumのメンバーとして), CGD, Pipol Record

サンレモ音楽祭出場4回: Schola Cantorumのメンバーとして1978年7位、86年新人の部参加、93年参加:ソリストとして1980年19位

サンレモ音楽祭出品7曲:1980年19位、86年19位、86年新人の部参加、89年新人の部第2位、91年新人の部第3位、93年参加、2003年第2位、

 

 

 アルベルト・ケリの家庭環境や生育過程は不明です。フィレンツェに生まれ、公立音楽学校を終え、ミラノでアルベルト・ケリは、レ・マドリ(Le Madri)というバンドを結成しました。

 

 メンバーはニューヨーク生まれのアメリカ人ギタリストのトニー・シドニー(Tony Sidney)、ベーシスト、ヴォーカルのジャンニ・チェッケリーニ(Gianni Ceccherini)、ドラムスのピエロ・マージ(Piero Masi)、そしてヴォーカル、キーボードは アルベルト・ケリでした。

 

 バンド、マドリはEMIイタリアーナのパーラフォン・レーベルと契約することが出来て、“”でレコード・デビューをしました。

 

3C・006-17717 (1970年 Parlophone ‎– EMI Italiana) Fresco/Mary Flying [Le Madri]

         3C・006-17717

 

 その後、アメリカ人のトニー・シドニーが抜け、チューイン・ガム(I Chewing Gum)のギタリストのフラヴィオ・クッキ(Flavio Cucchi)に交代したのを機にバンド名をマードリ・スペリオーリ(Le Madri Superiori)とグレード・アップしました。

 71年ニュー・トロルス(New Trolls,)デリリウム(Delirium)フォルムラ・トレ(Formula Tre)P.M.F.、ヌオヴァ・イデア(Nuova Idea)、ストーミー・シックス(Stormy Six)やミア・マルティーニ(Mia Martini)なども出場したヴィアレッジョ・ポップ・フェシティヴァル1971(Festival Pop Viareggio 1971)に参加しています。

 

 72年にはローマに移り、RCAイタリアーナと契約するか、その周辺にいたと思われます。彼の名前が最初に出てくるのは73年サンレモ音楽祭にRCAイタリアーナからただ一人出場したアルベルト・フェ-リ (Alberto Feri) の出場曲“毎回思われる(Ogni Volta Che Mi Pare)”のB面曲“Ma Se Non È Amore Cos'È”のライター・クレジットのアルベルト・ケリの名前が登場します。

 

 続いて4月にダリダ(Dalida)がイタリアで出した“あきらめ (Sei Solo Un Uomo In Più (Rien Qu'Un Homme De Plus))”を作曲しています。作詞はマルコ・ルベルティ(Marco Luberti)とパオロ・アメリゴ・カッセッラ(Paolo Amerigo Cassella)でした。

 

 73年RCAイタリアーナ・グループの総帥エンニオ・メリスはある発想のもと、音楽集団スコラ・カントルム(Schola Cantorum)を結成すべくメンバーを選定し始めます。中心メンバーとして若手カンタウトゥーリのアルベルト・ケリも選ばれ10人の音楽集団として出発します。

 

音楽集団スコラ・カントルムの時代の事は私のブログ

サンレモの歌手たち 571 スコラ・カントルム 1

サンレモの歌手たち 572 スコラ・カントルム 2

サンレモの歌手たち 575 スコラ・カントルム 5 をリンクしておりますのでご覧ください。

 

 

 アルベルト・ケリは79年にソロ歌手として独立します。10人で結成されたスコラ・カントルムも6人となり79年シングル盤“Armonia”を出しました。

 

PB-6288 (1979年 RCA Italiana ‎– RCA Italiana) Armonia/La Felicità

Formazione: Aldo Donati - voce; Enrico "Kiko" Fusco - voce; Mimi Gates - voce; Gianna Giovannini - voce; Luisella Mantovani - voce; Annie Robert - voce

PB-6288  ZBDE-7145

ZBDE-7145 (1979年5月 Delta Italiana‎– RCA Italiana) Tata T'Amerò/L'Uomo Nero (con Roberto Viscarelli)

 

 79年5月にロベルト・ヴィシャレッリ(Roberto Viscarelli)とコラボして彼のレコード会社デルタから“Tata T'Amerò”を出しました。この頃からアルド・ドナーティはソロ活動に専念し、79年にスコラ・カントルムが制作した世界のスタンダード曲をカヴァーしたアルバム「Il Mondo In Tasca」に参加してなかったようです。再版のアルバム・ジャケットはメンバー5人の写真が使われています。

 

PL-31454 (1979年 RCA ‎– RCA Italiana) Il Mondo In Tasca

1.Bianca (Midinight In Moscow) (モスクワの夜はふけて)

2.La Bamba (ラ・バンバ)

3.Lili Marlene (リリー・マルレーン)

4.Gioco Per Gioco (禁じられた遊び)

5.La Montanara (山の娘)

6.Tu Che Ne Sai (J'Entends Siffler Le Train) (500マイルも離れて)

7.Amazing Grace (至上の愛)

8.Ta-Hu-Wa-Hu-Wai (Hawayan War Chant) (タフワフワイ)

9.Un'Aquila (El Condor Pasa) (コンドルは飛んで行く)

10.Inno Alla Gioia (喜びのシンフォニー)

    PL-31454  

 

 79年にアルベルト・ケリが独立してソロ歌手となり、その後アルド・ドナーティ(Aldo Donati)も独立し、80年スコラ・カントルムは二人がサンレモ音楽祭にソロ歌手として出場、入賞し解散状態となりました。

 

 ソロ歌手となったアルベルトはCGDと契約し、アルバム「Alberto Cheli - Cavalli Alati」とアルバム・テーマ曲“Cavalli Alati”をシングル・カットしました。圧倒的な声量でのハイ・ピッチ・トーンとファルセットを生かし、ヒット・チャートにランク・インしませんでしたが、そこそこの成果を見ました。

 

CGD-20139 (1979年CGD - CGD) Alberto Cheli - Cavalli Alati

1.Sto Male

2.Cavalli Alati

3.Anna...Ffa...Lbeto

4.Al Bar Delle "Principesse"

5. É Importante

6.Canto, Amo, Sogno

7.Io Non So Se

8.Come Un Fiore Il 20 Marzo

CGD-20139  CGD-10161

CGD-10161 (1979年CGD - CGD) Cavalli Alati/Sto Male

 

 80年サンレモ音楽祭に“時は過ぎゆく(Passerà)”で出場、入賞(実質18位)しました。サンレモ音楽祭に入賞した歌手として、出場曲がアルバム・タイトルとしてつけられたセカンド・アルバム「Alberto Cheli – Passerà」が作られてます。

 

CGD-10250 (1980年CGD - CGD) Passerà (時は過ぎゆく)/Al Bar Delle Principesse

CGD-10250  CGD-20199

CGD-20199 (1980年CGD - CGD) Alberto Cheli – Passerà

1.Passerà (時は過ぎゆく)

2.Sto Male

3.Cavalli Alati

4.Anna...Ffa...Lbeto

5.Al Bar Delle "Principesse"

6.É Importante

7.Canto, Amo, Sogno

8.Come Un Fiore Il 20 Marzo

 

 83年CGDと契約していたアルベルト・ケリはメンバー(詳細不明)を集めてスコラ・カントルムとしてCGDからケリが書いた曲“Festa Grande”で最後のシングル盤“Festa Grande”を作ります。

 

CGD-10488 (1983年5月 CGD ‎– CGD Messaggerie Musicali) Festa Grande/Pensaci Tu

             CGD-10488

 

 その後アルベルトはアルドがドゥリウムを離れた機に、アルベルトはアルドの二人でミミ・ゲイツ(Mimi Gates)、マリーナ・アルカンジェリ(Marina Arcangeli)を含む女性歌手4人とノヴァ・スコラ・カントルム(Nova Schola Cantorum)を結成しました。

 

 再出発のきっかけに古巣RCAイタリアーナから86年サンレモ音楽祭に新人の部に“Azzurra Anima”で出場しましが参加で終わりました。“Azzurra Anima”はアルベルト・ケリとRCAイタリアーナでTVアニメの主題歌にかかわっていたルチオ・マッキャレッラ(Lucio Macchiarella)が作りました。

 

PB-40593 (1986年 RCA Italiana ‎– RCA Italiana) Azzurra Anima/Raggio Di Luna (come Nova Schola Cantorum)

                 PB-40593

 

1986年サンレモ音楽祭出場

    ノヴァ・スコラ・カントルム(Nova Schola Cantorum )メンバー [細字:未確認]

・アルベルト・ケリ(Alberto Cheli)

・アルド・ドナーティ (Aldo Donati)

・ミミ・ゲイツ(Mimi Gates)

・マリーナ・アルカンジェリ(Marina Arcangeli)

・ルイゼッラ・ラッザーニ (Luisella Lazzani)

・ジャンナ・ジョヴァンニーニ(Gianna Giovannini)           

 

 

 またアルベルト・ケリは86年サンレモ音楽祭にもう1曲出品しています。ビッグの部で出場したフラヴィア・フォルトゥナート (Flavia Fortunato)に提供した“2000年の想い(Verso il 2000)”でした。この曲はイェップ(Yep)・レコードのオーナーの一人で作詞家のエリオプ(Eliop)、作詞家のアントネッロ・デ・サンティス(Antonello De Santis)と共に作った曲で、歌手のフラヴィア・フォルトゥナートが所属していたのがピポル・レコードでした。

 

 フラヴィア・フォルトゥナートの縁だと思われますが、86年サンレモ音楽祭に出場後にアルベルト・ケリはソロでリコルディ傘下のマイナー・レーベル、ピポル・レコードで4曲入りのQディスク(ミニ・アルバム)を出しています。

 

PLPQ-00841 (1986年 Pipol Record – Dischi Ricordi) Fa Che La Vita Cominci Adesso

1.Fammi Toccare

2.Mezze Stagioni

3.Il Futuro

4.Quando Un Uomo Ama

PLPQ-00841  CDPR-3121

CDPR-3121 (1994年Promovideo – Dig It) CD Alberto Cheli – Cheli E Le Facce [8 013722 000106]

1.Il Dinosauro

2.Ehy Joe

3.Sulla Strada Del Mare

4.L'Apostolo

5.Come Moby Dick

6.Voglio Andare A Genova

7.A Casa I Gatti Neri

8.Chiara

9. Marco

10. Alba Bell‘Alba

11.Felliniana

 

 94年に出たCD「Cheli E Le Facce」は裏ジャケットの画像を見るとアルベルト・ケリが他に3人のメンバーを集めたバンド編成で作ったアルバムと思われます。バンドの他のメンバー名も分かりません、バンド名がケリ&レ・ファッチェなのでしょう。ファッチェは顔、外観、様相(Faccia)の複数形です。

 

 90年代に、フラヴィア・フォルトゥナートやリタ・フォルテ(Rita Forte)など、特に女性歌手へ楽曲を提供していましたが、2000年以降あまり動向が出てこなくなりました。

 

 

 

アルベルト・ケリの国内盤はありません、アルベルト・ケリ以上です。スコラ・カントルム 7 は1993年サンレモ音楽祭の後に続きます

★アルド・ドナーティ (vm) Aldo Donati

1947年9月2日ローマ生、2014年8月24日ローマ没、自作自演歌手、俳優、テレビ司会者。

 

 

 

活動期間:1975 – 2014

所属レコード会社:Roch Records、RCA Italiana, Cinevox, Durium, Rossodisera Records, Interbeat

サンレモ音楽祭出場4回:Schola Cantorumのメンバーとして1978年7位、86年新人の部参加、93年参加:ソロ歌手として1980年13位

サンレモ音楽祭出品4曲:1980年19位、86年新人の部参加、93年参加、2003年20位、

 

 

 アルド・ドナーティの家庭環境や生育過程は不明です。彼の経歴が判るのは1971年マイナー・レーベルのロッチから“Ti Troverò Lassù”でデビューしたとことからです。このロッチはヌオーヴォ・モンドというローマの小さな会社でCGDメッセンジェーリエ・ムジカーリ(CGD Messaggerie Musicali)に販売委託をしていた会社です。

 

FM-11000 (1971年 Roch Records - Messaggerie Musicali) Ti Troverò Lassù/Fiori Blu

FM-11000   PM-3713

PM-3713 (1973年9月 RCA Italiana - RCA Italiana) Immenso/Si Chiamava Elena

 

 アルド・ドナーティの国内盤を見るとわかりますが、「夢に消えた詩 (Come Un Ragazzino)」と「さいころに生きる男 (L'Uomo Che Si Gioca Il Cielo A Dadi)」の2曲が収録されていますので72年から73年2月にはRCAイタリアーナと契約していたことになります。

 

 彼の正式デビューは9月に“Immenso”を出してからです。アルドは将来性のある存在と認められたようです。

 

 73年RCAイタリアーナ・グループの総帥エンニオ・メリスはある発想のもと、音楽集団スコラ・カントルム(Schola Cantorum)を結成すべくメンバーを選定し始めます。中心メンバーとして若手カンタウトゥーリのアルド・ドナーティも選ばれ10人の音楽集団として出発します。

 

音楽集団スコラ・カントルムの時代の事は私のブログ

サンレモの歌手たち 571 スコラ・カントルム 1

サンレモの歌手たち 572 スコラ・カントルム 2

サンレモの歌手たち 575 スコラ・カントルム 5 をリンクしておりますのでご覧ください。

 

 スコラ・カントルムのメンバーはそれぞれ歌手活動、作詞作曲家活動も並行して続けていたようで、ドナーティも77年“Tut Tut Tut”という曲をシングル盤で出しています。スコラ・カントルムのメンバーとして78年サンレモ音楽祭に“私の恋(Il Mio Amore)”で出場しましたが入賞できませんでした。

 

PB-6058 (1977年 RCA Italiana - RCA Italiana) Tut Tut Tut/Mimì (Ma Non Ci Sei Solo Tu)

PB-6058  PB-6253

PB-6253 (1978年 RCA Italiana - RCA Italiana) Ciumachella De Trastevere (恋するローマのおてんば娘)/Roma Non Fa La Stupida Stasera (ロ-マよ今夜はふざけないで)/Tirollalero (チロラレッロ)

 

 1978年12月18日から上演されるアルマンド・トロヴァヨーリ(Armando Trovajoli,)が音楽を担当しイタリアで古典となったミュージカル・コメディー「ルガンティーノ(RUGANTINO)」の第2版公演に、初演でランド・フィオリーニ(Lando Fiorini.)が演じた進行役・語り部役にドナーティが抜擢され、そのシングル盤が発売されました。

 

 また彼の一生の財産となるローマのクラブ・サッカーチーム、SSラッツォの公式応援歌を歌います。レコードは特別にチネヴォックスで制作されます。アルドは生涯熱烈なSSラッツォのファン、サポーターで通しました。

 

SC-1104 (1978年 Cinevox ‎– Dischi Ricordi) Inno Alla Lazio [Aldo Donati]/[Strumentale]

             SC-1104

 

 10人で結成されたスコラ・カントルムも6人となり79年シングル盤“Armonia”を出しました。

 

PB-6288 (1979年 RCA Italiana ‎– RCA Italiana) Armonia/La Felicità

Formazione: Aldo Donati - voce; Enrico "Kiko" Fusco - voce; Mimi Gates - voce; Gianna Giovannini - voce; Luisella Mantovani - voce; Annie Robert - voce

PB-6288  ZBDE-7145 

ZBDE-7145 (1979年5月 Delta Italiana‎– RCA Italiana) Tata T'Amerò/L'Uomo Nero (con Roberto Viscarelli)

 

 79年5月にロベルト・ヴィシャレッリ(Roberto Viscarelli)とコラボして彼のレコード会社デルタから“Tata T'Amerò”を出しました。この頃からアルド・ドナーティはソロ活動に専念し、79年にスコラ・カントルムが制作した世界のスタンダード曲をカヴァーしたアルバム「Il Mondo In Tasca」には参加してなかったようです。再版のアルバム・ジャケットはメンバー5人の写真が使われています。

 

PL-31454 (1979年 RCA ‎– RCA Italiana) Il Mondo In Tasca

1.Bianca (Midinight In Moscow) (モスクワの夜はふけて)

2.La Bamba (ラ・バンバ)

3.Lili Marlene (リリー・マルレーン)

4.Gioco Per Gioco (禁じられた遊び)

5.La Montanara (山の娘)

6.Tu Che Ne Sai (J'Entends Siffler Le Train) (500マイルも離れて)

7.Amazing Grace (至上の愛)

8.Ta-Hu-Wa-Hu-Wai (Hawayan War Chant) (タフワフワイ)

9.Un'Aquila (El Condor Pasa) (コンドルは飛んで行く)

10.Inno Alla Gioia (喜びのシンフォニー)

  PL-31454

 

 アルドは80年サンレモ音楽祭にソロ歌手として“カンテロー”で初出場(スコラ・カントルム・メンバーを含めると2度目)し、入賞(実質13位)になりました。元々目が弱かったのか、大きなサングラスが彼のトレード・マークになりました。B面の“愛のゆくえ”はミーナ(Mina)が81年のアルバム「Salomè」でカヴァーしました。

 

PB-6380 (1980年 RCA Italiana - RCA Italiana) Canterò Canterò Canterò (カンテロー)/Così... (愛のゆくえ)

              PB-6380

 

 サンレモ音楽祭に入賞した歌手はアルバムが作られていたのですが、世の中が厳しくなったようで、4曲入りのQディスク(ミニ・アルバム)に格下げになったようです。この盤がRCAイタリアーナで最後となり、ソロ歌手としてドゥリウムに移籍をします。

 

PG-33405 (1980年 RCA Italiana - RCA Italiana) Q-Disc Aldo Donati

201606・2 (2016年 Italy & C) CD Aldo Donati

1.Nel Sole, Nel Blue

2.Stelle

3.Il Giorno Che Mi Andrà

4.Venezia A Dicembre

PG-33405 201606・2

 

 80年スコラ・カントルムはアルド・ドナーティとアルベルト・ケリ (Alberto Cheli)がサンレモ音楽祭にソロ歌手として出場、入賞し、その後は解散状態となりました。

 

 81年ドナーティはドゥリウムに移籍して、シングル盤“Cantando”を出しました。80年代以降自作自演歌手として他の歌手に楽曲を提供するのが中心になったようです。

 モゴール(Mogol)作詞、ドナーティが作曲の“Canzoni Stonate (調子はずれの歌)“をジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)が歌いシングル盤として発売されます。

 

Ld・AI-8122 (1981年 Durium – Durium) Cantando/Io Non Cerco La Luna

             Ld・AI-8122

 

 翌82年初のソロ・アルバム「Aldo Donati - Cantando」を出しました。収録曲はRCAイタリアーナで出したサンレモ音楽祭出場曲“カンテロー”とそのB面、Qディスクの4曲、そしてドゥリウムに移籍して出したシングル盤“Cantando”とそのB面、スコラ・カントルム加入後のソロ曲すべてということです。ただしRCAイタリアーナ時代の曲がセフル・カヴァーかそうでないのかは分かりません

 

ms・AI-7742 (1982年 Durium – Durium) Aldo Donati - Cantando

201901・1 (2019年 Italy & C) CD Cantando

1.Cantando

2.Così... (愛のゆくえ)

3.Nel Sole Nel Blu

4.Venezia A Dicembre

5.Canterò Canterò Canterò (カンテロー)

6.Io Non Cerco La Luna

7.Stelle

8.Il Giorno Che Mi Andrà

ms・AI-7742 201901・1

 

 82年ドゥリウムに移籍2枚目のシングル“E Ti Amo”を出し、84年に“E Ti Amo”の入ったQディスクを制作してドゥリウムの契約は終わったようです。

 

Ld・AI-8153 (1982年 Durium – Durium) E Ti Amo/Le Nuvole

Ld・AI-8153 DQ・AI-100・001

DQ・AI-100・001 (1984年 Durium – Durium) Q-Disc Aldo Donati

1.Oasi

2.Cantando

3.Se Te Ne Vai

4.E Ti Amo

 

 一方、83年CGDと契約していたアルベルト・ケリがメンバー(詳細不明)を集めてスコラ・カントルムとしてCGDからケリが書いた曲で最後のシングル盤“Festa Grande”を作ります。

 

CGD-10488 (1983年5月 CGD ‎– CGD Messaggerie Musicali) Festa Grande/Pensaci Tu

CGD-10488  PB-40593

PB-40593 (1986年 RCA Italiana ‎– RCA Italiana) Azzurra Anima/Raggio Di Luna (come Nova Schola Cantorum)

 

 アルドがドゥリウムを離れた頃、アルベルトはアルドとミミ・ゲイツ(Mimi Gates)、マリーナ・アルカンジェリ(Marina Arcangeli)を含む女性歌手4人によるノヴァ・スコラ・カントルム(Nova Schola Cantorum)を結成。古巣RCAイタリアーナから86年サンレモ音楽祭に新人の部に“Azzurra Anima”出場しましが、参加で終わりました。

 

 同年RCAイタリアーナ傘下でブンガロ(Bungaro)などを見出したプロデューサー、レナート・ベンチュリエロ(Renato Venturiero)が設立したロッソディセラからアルバム「....E Mi Metto A Cantare」と同名のシングルを出しました。

 

ZB-40895 (1986年 Rossodisera - RCA Italiana) ...E Mi Metto A Cantare/Verso L'Amore

ZB-40895 ZL-71366

ZL-71366 (1987年 Rossodisera - RCA Italiana) ....E Mi Metto A Cantare

1.Il Segreo

2.Canzoni Stonate

3.Tempo

4.Cadere

4....E Mi Metto A Cantare

5.Venezia A Dicembre

6.Va Via

7.Brividi E Parole

 

 その後アルドはミーナ(Mina)などに楽曲を提供するライター業に専念したようです。

 

 92年最後のアルバムとなる「Donati ‎– ...Fuori Dalla Tana!」をビズ(Blitz)で制作します。

 

BCD-107 (1992年 Blitz - Interbeat) Donati ‎– ...Fuori Dalla Tana!

1.E Correre

2.C'è Sempre Qualcuno

3.Spara Diritto Spara All'Anima

4.Old Man

5.Accendi La Vita

6.Nella Notte

7.Come Dici Tu

8.Sulle Ali

9.Questo Vento Non Si Ferma Più

10.Nel Cuore

           

             BCD-107

 

 2009年脳出血で倒れ、昏睡状態が5年続き14年8月24日亡くなりました。

 

 

 

アルド・ドナーティの国内盤

RCA-5068 (1973.年7月 RCA - ビクター音楽産業.) 30cm LPサンレモ1973 (SAN REMO 1973)

8.夢に消えた詩 (COME UN RAGAZZINO)

13.さいころに生きる男 (L'UOMO CHE SI GIOCA IL CIELO A DADI)

 

            RCA-5068

 

 

アルド・ドナーティは以上です。スコラ・カントルム 7 は1993年サンレモ音楽祭の後に続きます

★ジョルジョ・ジト と ヂ-ゼル (compl) Giorgio Zito e i Diesel

本名ジョルジョ・ベンナート(Giorgio Bennato)1949年10月4日ナポリ生、自作自演歌手、ギタリスト、レコード・プロデューサー。

 ヂ-ゼルのメンバー構成が判る資料がなく、固定メンバーでなくスタジオ・ミュージシャン達のサポート・バンドかもしれません。

 

兄エドアルド・ベンナート (Edoardo Bennato) 1946年7月23日ナポリ生と、

エウジェニオ・ベンナート (Eugenio Bennato) 1948年3月16日ナポリ生は

いずれもイタリアを代表するミュージシャン、歌手です。

 

 

 

活動期間:1975年 – 現在

所属レコード会社:RCA Italiana, Lupus, Polydor, Cheyenne Records

サンレモ音楽祭出場1回:1980年13位,

 

 ジョルジョの父カルロ・ベンナート(Carlo Bennato)はイタリア最大の製鉄会社で現在はイルヴァ(ILVA,)となったイタルサイダー(Italsider,)の事務員、母は主婦のアデーレ・ジト(Adele Zito)で、三人息子の3番目としてナポリで生まれました。

 

 子供たちは幼い頃から音楽に興味を持っていました。戦後のナポリはアメリカ進駐軍の影響でアメリカの流行曲が持てはやされており、母アデーレは子供たちを身近にあるアコーディオン教室に通わせることにしました。

 

 1958年子供達はトリオ・ベンナート(Il Trio Bennato)というバンドを結成します。一番上のエドアルドがギターを弾き、歌を歌います。二番目のエウジェニオはアコーディオンを演奏し、最年少のジョルジョはパーカッション担当でます。

 3人は様々な都市の会場で演奏を始め、59年にはテレビ番組「Il Nostro Piccolo Mondo」のゲストとして呼ばれ、ベナート兄弟にとって初めてのテレビ出演でした。同年7月、後に映画監督になるアルド・グリマルディ(Aldo Grimaldi)のおかげで、三人兄弟は南米クルーズ船で一連のショーを行い、ベネズエラに行くことができました。

 

 65年長男エドアルドはナポリの芸術高校を卒業し、同年のカストロ・カーロに出場しましたが予選敗退。その後ミラノに移り工科大学建築学部に通いながら歌手になるチャンスを探していました。丁度リコルディを辞めたばかりのヴィンチェンツォ・ミコッチ(Vincenzo Micocci)と関係が持て、ミコッチの作ったばかりのパレードから歌手デビューをします。

 

 一方次男のエウジェニオは66年ナポリでカルロ・ダンジョ(Carlo D'Angiò)、ロベルト・デ・シモーネ(Roberto De Simone)、ジョヴァンニ・マウリエッロ(Giovanni Mauriello)、パトリツィオ・トランペッティ(Patrizio Trampetti)のメンバーでヌォーヴァ・コンパーニャ・ディ・カント・ポポラーレ(La Nuova Compagnia di Canto Popolare=NCCP)を結成します。67年から本格的に活動を始め、71年に初めてのアルバムを出すことが出来ました。

 

 母アデーレは三男も音楽の道に進むことを望んでいました。彼自身表舞台に立つのではなく、裏方の仕事を始めます。兄エドアルドのコンサートでサウンド・エンジニアの仕事をしていたようです。

 

 75年になりB.バンドの名でRCAイタリアーナからロック歌手としてデビューしました。名義はバンド名になっていますが、実質はジョルジョ一人でスタジオ・ミュージシャンがサポートしているようです。B.バンドの「B」はベンナートのBでしょう。

 

TPBO-1156 (1975 年RCA Italiana – RCA Italiana) G's Rock/Coming In My Mind (come B. Band)

TPBO-1156 PB-6026

PB-6026 (1977年 RCA Italiana – RCA Italiana) It Was Nice/Che Te Ne Fai (come B. Band)

 

 RCAイタリアーナから出した英語のタイトルがついた曲はジョルジョ自身の作でカヴァー曲ではありません。芳しい成果は出ず、フランコ・カリファーノ(Franco Califano)たちが設立したレコード会社ルーパス(La Lupus)に移籍します。その際に芸名を変えますが、『三人目のベンナート』と言われたくないので、母方の姓ジト(Zito)を使ったジョルジョ・ジトとヂ-ゼル (Giorgio Zito e i Diesel)を名乗ります。

 

 唯一のサンレモ音楽祭出場に“でも...行くんだ”で出場、入賞(実質14位)して、ファースト・アルバム「Un Posto All'Inferno」が制作されました。

 

LUN-4905 (1980年 Lupus – Dischi Ricordi) Ma Vai Vai (でも... 行くんだ)/Regina Della Notte

LUN-4905 LULP-14902

LULP-14902 (1981年 Lupus – Dischi Ricordi) Giorgio Zito & Diesel ‎– Un Posto All'Inferno

1.Regina Della Notte

2.Ma Vai, Vai! (でも... 行くんだ)

3.È Giusto O No

4.Quando Mai

5.L'Universo Ci Guarda

6.Dagli Uno Schiaffo

7.Roxanne

8.Maggie

9.Vieni Con Noi

10.Giulia

11.Non Lo So

 

  ジョルジョの音楽もロックでしたが、イタリアのロックはビートニック・バンドの欧米国のコピーから始まり、次第に独自のイタリアン・ロック、プログレ・ロックからパンク、アフター・パンクと変化していきましたが、彼の音楽はビートルズの流れを汲んだオーソドックスなものでした。

 

 81年にシングル盤“Com'è Possibile”が出ていたようですが、現物が確認できません。契約の関係でサンプル盤の制作をして、一般市販盤が発売されていない場合かも知れません。

 

LUN- 4922 (1981年 Lupus – Dischi Ricordi) Com'è Possibile/È Inutile

LUN- 4922 LULP-14904

LULP-14904 (1982年 Lupus – Dischi Ricordi) Giorgio Zito & Diesel ‎– Avanti Un Altro

1.Avanti Un Altro

2.Com'È Possibile

3.Levati Davanti

4.Uomo Solo

5.Ultima Stella

6.Vieni Qua

7.Jekyll

8.Minosse

9.È Inutile

10.Un'Idea Della Mente

 

 82年セカンド・アルバム「Avanti Un Altro」が発売されます。謎のシングル盤曲“Com'è Possibile”と”È Inutile“も収録されています。

 

 翌83年ポリドールからシングル盤“Chi La Fa L'Aspetti”を出しました。またナポリ出身で元ショウメン(The Showmen)、その後のナポリ・チェントラーレ(NapoliCentrale)ジェームズ・セネーゼ(JamesSenese)やトゥリオ・デ・ピスコーポ(Tullio De Piscopo)とTV番組「Napoli Prima E Dopo」で共演しました。

 

810-580・7 (1983年 Polydor – Polygram Dischi) Chi La Fa L'Aspetti/Non So Se Tu Ci Stai (come Zito)

               810-580・7

 

 85年ベンナート三兄弟は自分たちのレコード会社、シャイアン・レコード(Cheyenne Records)を故郷のナポリで興しました。元々歌手活動より裏方のプロデューサーやレコーディング・エンジニアに向いており、作曲活動に専念したジョルジョだったのでレコード会社の仕事を20年以上も続けます。とは言えコンピレーションなどには時々新曲を入れていたようです。

 

 88年ナポリ生まれの女優で歌手のピエトラ・モンテコリヴィーノ(Pietra Montecorvino.)を兄エウジェニオと共作した“Una Città Che Vola”でシャイアン・レコードからデビューさせ、カノロ(Enzo Canoro)には91年アルバム「Canoro  ‎– Come Noi」(ディストリビューションはヴァージン・ディスキ)、95年にはアルバム「Canoro  ‎– Light (e... Diesel)」(ディストリビューションはEMIイタリアーナ)をプロデュースしています。「Light (e... Diesel)」に収録された2曲“Maggie”、“Stella Del Futuro”をジョルジョ・ベンナートも歌っています。

 

 99年プライヴェートですが、娘アデレ(Adele)が誕生しています。

 

 2007年、25年ぶりにアルバムを出します。97年にナポリで結成されたバンドのデモニッラ(Demonilla)とのコラボレーションですが、ジョルジョはレコード会社オーナーの一人としてタイトルは『Demonilla & Giorgio Zito』と表記は控えめにしています。

 

CYR-020 (2007年 Cheyenne Records – ) CD Demonilla & Giorgio Zito - Evoluzione (con i Demonilla) [8033481240186]

1.Avanti Un Altro

2.Baby Jane

3.È Inutile

4.Troppe Volte

5.Funny How Love Can Be (ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー)

6.Quel Che Ti Ho Dato

7.Evoluzione

8.Non Lo So

9.Vieni Qua

10.Uomo Solo

11.Mille

12.Non Dirmi Mai Il Tuo Cognome

13.Luna Antica

CYR-020  CYR-042

CYR-042 (2015年 Cheyenne Records – Lucky Planets) CD Demonilla & Giorgio Zito - In Attesa Di Giudizio (con i Demonilla)

1.Intro

2.La Mia Follia

3.Non Ho Pace

4.Quando Parte la Discussione

5.Che Puoi Dirmi

6.Gli Occhi Che Inseguono Il Futuro

7.Mi Piaci

8.È Giusto O No?

9.In Attesa di Giudizio

10.Se Ogni Volta

11.Il Patto

12.Un'idea Della Mente

13.Un Posto Per Sognare

14.L’Universo Ci Guarda

15.Outro

 

 15年ジョルジョは再度デモニッラとアルバム「Demonilla & Giorgio Zito - In Attesa Di Giudizio」を制作しました。デモニッラはメンバー交代をしていますが、現在も活動を続けています。

 

 17年画期的な出来事が起こりました。ベンナート三兄弟の“Domani”という曲がウェブ配信で公開されました。公式にはトリオ・ベンナート以来58年ぶりでした。仕掛人は曲を作ったジーノ・マグルーノ(Gino Magurno)です。彼は『少年たちの子供時代への回帰』の歌ですが、子供たちに『夢は叶う、明日は何でも起こり、夢を実現』するというメッセージを伝えたかったとしています。

 

(2017年 Cheyenne Records – Lucky Planets) Domani (con Edoardo ed Eugenio Bennato)

           CYR-046

CYR-046 (2019年 Cheyenne Records – Lucky Planets) 2CD Giorgio Zito Racconta

1-1.Colonel Bogey (クワイ河マーチ)

1-2.What A Wonderful World (このすばらしき世界)

1-3.Ho Bisogno Di Soldi

1-4.Funny How Love Can Be (ファニー・ハウ・ラヴ・キャン・ビー)

1-5.Regina Della Notte

1-6.Che America…

1-7.Maggie

1-8.Ultima Stella

1-9.Mille

1-10.L’Universo Ci Guarda

1-11.Come Un’Ombra

1-12.C’Era Una Stella

1-13.Non Lo So

1-14.Adesso O Mai Più

2-1.Casetta In Canadà (カナダの小さな小屋)

2-2.In Attesa Di Giudizio

2-3.Camion

2-4.Gli Occhi Che Inseguono Il Futuro

2-5.Un’Idea Della Mente

2-6.Non Dirmi Mai Il Tuo Cognome

2-7.Se Ogni Volta…

2-8.Giulia

2-9.Uomo Solo

2-10.Quel Che Ti Ho Dato (Tell Me)

2-11.Stella Del Futuro

2-12.Quando Parte La Discussione

2-13.Domani

 

 ジョルジョは19年“.Domani”が入った2枚組アンソロジーを出しました。

 

 

ジョルジョ・ジト と ヂ-ゼルの国内盤はありません、ジョルジョ・ジト と ヂ-ゼルは以上です。

★フランチェスコ・マーニ (vm) Francesco Magni

1949年6月22日ミラノ郊外北10kmにある小さな町ブリオスコ (Briosco)生、フォーク系自作自演歌手。

 

 

 

活動期間:1977年-現在

所属レコード会社:Ariston Records

サンレモ音楽祭出場1回:1980年12位,

公式サイトhttp://www.francescomagni.com/

 

 

 繊維織物製品の取引を商売としていたフランチェスコ・マーニの音楽のキャリアは1970年代から始まります。彼の初期の作曲の “La Grinta Poetica”はナンニ・スヴァンパ(Nanni Svampa)※が77年ドゥリウムから出したアルバム「Al Dì D'Incoeu」に収められました。

 

 彼はモーニ・オヴェディアとグルプッポ・フォーク・インタナツィオナーレ(Moni Ovadia e il suo Gruppo Fork Internazionale)と共演しました。モーニ・オヴェッディアはタレント・スカウもしており、マーニをアリストン・レコードに紹介し、78年オヴェディアがプロデューサーとなりアルバム「Il Paese Dei Bugiardi」を制作しました。これがフランチェスコ・マーニのレコード・デビューでした。

 

 このファースト・アルバム「Il Paese Dei Bugiardi」およびセカンド・アルバム「Cocò」は“ナンセンス”の限界と意地悪なユーモアが織り込まれた環境保護的、社会的背景に彩られた現代のおとぎ話として描かれています。

 

 これらのアルバムにはアレンジ、管楽器でマリオ・アルカリ(Mario Arcari)やチェロ、ベースのピエロ・マレージ(Piero Milesi)などの新星(イヴァノ・フォッサティ(Ivano Fossati)やファブリツィオ・デ・アンドレ(Fabrizio De Andre‘)の制作にも参加した)や、中でも優れたフランコ・パラヴィチーニ(Franco Parravicini)、ハーディ・ガーディ演奏のジェラルド・カーディカーレ(Gerardo Cardinale)、ハープのヴィンチェンツォ・ジテッロ(Vincenzo Zitello)、バグパイプのロベルト・マッツァ(Roberto Mazza)達でした。

 

AR・LP-12344 (1978:年12月 Ariston – Dischi Ricordi) Francesco Magni ‎– Il Paese Dei Bugiardi

1.Il Paese Dei Bugiardi

2.Pin Pirolin

3.Che Pirla Papà

4.Matrimoni D'Amor

5.La Mia Terra

6.La Favola Del Corvo

7.Giuanin Tulin

8.Un Chilo Di Merda

9.I Fong

10.Canzone Americana

            AR・LP-12344

 

 80年2作目がサンレモ音楽祭出場曲“Voglio L'Erba Voglio”のシングル盤でした。音楽祭開催3週間前の1月17日、アリストン劇場に出場する30歌手を40歌手に絞り込んだ歌手から選考する最終選考会が行われました。その時に新人の部で一番得票したのが、フランチェスコ・マーニでした。玄人好みの歌手かもしれません。

 

 “Voglio L'Erba Vogli”はRAIの事前検閲にかかり、不適当な歌詞を変更して歌うことが条件づけられていましたが、本番では検閲前の歌詞で歌いました。彼はそのことを忘れていたとの弁解でしたが、確信犯のようにも思えます。この曲は批評家賞を受賞しました。

 

AR-00879 (1980年 Ariston – Dischi Ricordi) Voglio L'Erba Voglio/Jabel Murra

AR-00879 AR・LP-12367

AR・LP-12367 (1980:年 Ariston – Dischi Ricordi) Francesco Magni ‎– Cocò

1.Cocò

2.Gattoruga

3.Mariano Station

4.El Me Paes

5.Voglio L'Erba Voglio

6.Tristessa

7.La Lumaca

8.Jabel Murra

9.Marianna

 

 セカンド・アルバム「Cocò」にはサンレモ音楽祭入賞曲“Voglio L'Erba Voglio”も収録され、ヴォーカルでマティア・バザール(Matia Bazar)の・アントネッラ・ルッジェロ (Antonella Ruggiero)アルベルト・フォルティス(Alberto Fortis)が参加しています。この頃フランチェスコは小学校で音楽の基礎を教えていました。

 

 81年彼の最もシュールで魅力的な曲“Canzone D'Amore”/“Dracula”のシングル盤を出しました。これがアリストンで最後のレコードです。

 

AR-00914 (1981年5月 Ariston – Dischi Ricordi) Canzone D'Amore/Dracula

              AR-00914

 

 アリストン最後のシングル曲はサード・アルバム「Magnetico tic」に収録されているとのこと、アレンジはアルベルト・ラディウス(Alberto Radius)であること以外、詳細は分かりません。

 

(1983年 Martinelli production) Francesco Magni ‎– Magnetico tic [arr. Radius]

           CKR-4504・2

CKR-4504・2 (1995:年 RTI Music ‎– Dischi Ricordi) CD Francesco Magni  ‎– Amami Di Meno Amati Di Più

1.Sala D'Attesa

2.Amami Di Meno Amati Di Più

3.Quando L'Amore Crea

4.Quark

5.C'È Non C'È

6.Tappeti Magici

7.L'Amaca

8.Lo Scoglio

9.Orangotango

10.Quiviarrivaque

 

 95年マティア・バザールのプロデューサーでアントネラ・ルッジェロのご主人でもあるロベルト・コロンボ(RobertoColombo)がアレンジとキーボードを担当したアルバム「Amami Di Meno Amati Di Più」を12年ぶりに発表しました。

 

 彼の空白期間についてWikiなどウェブ上の資料を探しても『旅行の期間』とか『その後ブリアンツァの古い農家の修復のための旅行、反射運動と手作業の期間に続きます』とあり、これらの説明では踏み込んだ理解が出来ていません。音楽の事よりそういう環境保護的行動が優先されたのだと思います。

 

 もう少し前から始まったのだと思いますが、フランチェスコ・マーニはナーダ・ヨーガ(Nada Yoga)※に関心を持ち、インドの音楽に近づきます。彼はインドのシルディ・ババ(Shirdi Baba)の寺院で歌い、ダニエレ・カルダリーニ(Daniele Caldarini)とロベルト・コロンボのスタジオでCDアルバム「Sai Mama」を作り、ハイ・タイドから出しました。

 

TIde-9146・2 (1996年 High Tide ‎–) CD Francesco Magni ‎– Sai Mama

1.Terra, Aria, Acqua, Fuoco

2.Nara Om

3.Sai Mama

4.Sai Baba

5.Quando L'Amo

6.Mano Nella Mano

7.Om Sai Ram

8.Ogni Quando, Ogni Dove

9.Ninnarayana

TIde-9146・2               

(1999年) CD Francesco Magni  ‎– Sai Mother (English version of Sai Mama.)

1.Dam - Dam

2.So We Can Play

3.Sai Baba

4.If It Were

5.Sai Mother

6.Hari Narayana

7.Nara Om

8.Om Sai Ram

9.Any Time Any Where

10.Ninnarayana

 

 3年後の99年、「Sai Mama」の英語盤CDアルバム「Sai Mother」を作りました。この頃になると発売した盤のレーベル表示、カタログ番号が明示されなくなります。自主製作のプライベート盤に近いものではないでしょうか?

 

 ナーダ・ヨーガとのかかわりがどれ程続いたか分かりませんが、20世紀から21世紀に代わった頃、旧友フランコ・パラヴィチーニのギターと三つの若い息吹、トゥリッリ・バンド(La Trilli Band)とのコラボレーションで新たなCDを制作します。

 

 アルバム「Scigula」は粗野な古いバラードと解放された狂気で構成された、ミラノ北部からコモの間に位置するブリアンザ地方の音色に作り上げられました。

 ロンバルディア州ヴィルメカーテ(Vimercate)でノスター・ストーリーテラー賞(Il Premio Noster Cantastorie)を、オレノ(Oreno)の金の蓄音機賞、さらに収録曲“Lambrada”はブラジルの環境保護運動家シコ・メンデス(Chico Mendes)の没後2002年から制定されたシコ・メンデス賞(Il Premio Chico Mendes)も受賞しています。

 

(2004年Aretè - Brianze) CD Francesco Magni ‎– Scigula

1.La Gainna Del Pollee

2.Scigula

3.La Mia Terra

4.El Spiritell Content

5.Matrimoni D'Amor

6.Ruerza Minga I Ball

.El Me Paes

8.Giuanin Tulin

9.El Paes di Bosiard

10.La Tegnoeula

11.La Rosa E L'Ucelin

12.Lambrada

                             

(2008年2月Aretè - Brianze) CD Francesco Magni ‎– Balada Del Balabiott

1.Ciapa La Ciapa

2.Don Abundi

3.Renzo El Passa L’Adda

4.Ul Barchiroo

5.Fra’ Cristofur

6.Lirom Liram

7.Va’ Cum’El Tira

8.Dona Lumbarda

9.Marianna Del Lach

10.Elemènt

11.Balada Del Balabiott

 

 2008年、前作アルバム「Scigula」の足跡をたどりながら、ロンバルディア地方の民謡の世界へもう一つの美しく刺激的アプローチをしたアルバム「Balada Del Balabiott」を作りました。4年後に出したアルバム「Renzo e Luzia」に含まれる“Renzo Passa L'Adda”が3曲目に収められています。参加ミュージシャンに旧友のマリオ・アルカリ、フランコ・パラヴィチーニの他にサックスのクラウディオ・パスコリ(Claudio Pascoli)もいます。

 

 12年マージは色々な題材で制作意欲を見せ、19世紀の作家アレッサンドロ・マンゾーニ(Alessandro Manzoni)の歴史小説「いいなづけ(I Promessi Sposi)」を題材としたコンセプト・アルバム「Renzo E Luzia」を作りました。

 

9788896751114 (2012年 Menaresta) CD Francesco Magni  ‎–: Renzo E Luzia

1.Renzo E Luzia

2.Don Abundi

3.Luzia

4.Fra' Cristofur

5.Ul Barchiroo

6.Renzo Passa L'Adda

7.I Lanzichenecchi

9788896751114           

(2019年) CD: Maramao... Non Era Morto (prodotto dall'autore)

1.Dona Tristèe

2.Ses Tortej

3.Io Sono Te

4.Che Pirla Papà

5.Capitale Di Fumo

6.Gira La Roeuda

7.Bambulè Bum Bum

8.Volare Volando

9.Maramao

 

 19年最新のアルバム「Maramao... Non Era Morto」を出しています。数少ないロンバルディア地方の方言を使った古い民謡を掘り起す音楽の『環境保護』のため精力的なコンサートを続けています。

 

 

ご参考

※ナンニ・スヴァンパ (vm) Nanni Svampa

1938年2月28日ミラノ生、2017年8月26日ミラノ北北西20km湖畔の小都市ヴァレーゼ(Varese)没、歌手、作家、俳優、音楽喜劇集団グーフィ(I Gufi)の創設者。

 70年から77年にかけて発売されたロンバルディア地方の民謡の数少ない大アンソロジーを制作した功績が称えられている。

Milanese - Antologia della canzone lombarda

1. Antiche ballate e storie d'amore (1970)

2. Il Risorgimento, i mestieri e l'officina (1970)

3. La mala e l'osteria (1970)​

4. Le canzoni della Madonina (1970)​

5. Antiche ballate del contado (1973)​

6. W l'osteria (1973)

7. La nuova canzone milanese (1973)​

8. Il cabaret (1973)​

9. Le la va de sora (1977)​

10. I donn a lavorà e numm a soldà (1977)

11. Al dì d'incœu (1977)​

12. Cà de ringhera e veggia osteria (1977)

 

 

ナーダ・ヨーガ(Nada Yoga)

 ナーダ・ヨーガは古代インドの哲学的構造であり、同時に医学やヨーガの形式でもある。この構造の理論的・実践的要素の基礎は「全ての宇宙とそこに在る人間を含む全てのものは、ナーダと呼ばれる音の振動から成り立つ」という前提の上にある。この概念は宇宙を形作る物質や粒子よりも音の・・・・・  (日本語版ウィキペディアより;詳しくはリンク先をご参照)

 

 

フランチェスコ・マーニの国内盤はありません、フランチェスコ・マーニは以上です。

★デチベル (compl) Decibel

1977年ミラノでパンク・ロック・バンドとして結成され、時代とともにバンドの音楽性を変えながら、ソロ歌手として脱退したエンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri)が2016年に復帰し、現在まで活動を続けています。

 

 

 

活動期間:1977年-現在

所属レコード会社:Spaghetti(RCA Italiana) Top Studio, Sony Music, Anyway Music

サンレモ音楽祭出場2回:1980年11位, 2018年16位

公式サイトhttp://www.decibelmusic.com/

 

 

現在メンバー構成(太字は1980年サンレモ音楽祭出場メンバー

・エンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri) ヴォーカル(在籍1977年~1980年、2016年~現在) 1957年6月5日ミラノ生。

・フルヴィオ・ムツィオ(Fulvio Muzio) ギター、コーラス、鍵盤楽器 (在籍1978年~現在) 1960年3月1日ミラノ生。

・シルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)鍵盤楽器、コーラス (在籍1978年~現在) 1960年6月30日ミラノ生。

 

1979年構成メンバー(太字は1980年サンレモ音楽祭出場メンバー)

・エンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri) ヴォーカル(在籍1977年~1980年、2016年~現在)

・フルヴィオ・ムツィオ(Fulvio Muzio) ギター、コーラス、鍵盤楽器 (在籍1978年~現在)

・シルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)鍵盤楽器、コーラス (在籍1978年~現在)

・ミノ・リボーニ(Mino Riboni)コーラス、ベース(在籍1978年~1985年) 1961年11月14日ミラノ生。

・トミー・ミナッツィ()ドラムス(在籍1978年~79年)

 

 

 1979年11月からシェル・シャピロ(Shel Shapiro)のプロデュースで新メンバーによるアルバム制作に入ります。サンレモ出場曲“コンテッサ”(シングル盤は4万枚の売上)も含まれています。新加入のドラムス、トミー・ミナッツィはハード・ロック・バンド、ヴァナディウム(Vanadium)に移籍しいたようですが、ヴァナディウムのメンバー構成には彼の名前は見られませんでした。

 

 と言うことでデチベルは4人編成のバンドで動き出し、欠員となったドラムスはアルバム吹込み時にはP.F.M.にも在籍経験があるウァルター・カッローニ(Walter Calloni)がサポートしています。3ヶ月かけて制作し、サンレモ音楽祭出場曲“コンテッサ”が先行発売され、その後アルバム「Vivo Da Re」とアルバム・タイトル曲“Vivo Da Re”がシングル・カットされました。

 

ZBSR- 7192 (1980年 Spaghetti – Sony Music Entertainment Italy) Decibel/Vivo Da Re [Cantagiro 1980]

ZBSR- 7192  ZPLSR-34093

ZPLSR-34093 (1980年 Spaghetti – RCA Italiana) Decibel ‎– Vivo Da Re

ORL-8716 (1984年 Orizzonte – Dischi Ricordi) Decibel (※)

MPCD- 273 (1993年 Spaghetti – BMG Ricordi) CD Decibel ‎– Vivo Da Re [801315002734]

74321-74647・2 (2000年 Spaghetti – BMG Ricordi) CD Decibel ‎– Vivo Da Re [0 74321 74647 2 1]

1※2.Il Mio Show

2※3.Supermarket

3※4.Pernod

4※5.Ho In Mente Te

5※6.Sepolto Vivo

6※7.Vivo Da Re

7※1.Contessa (コンテッサ)

8.A Disagio

9.Teenager

10.Tanti Auguri

11.Peggio Per Te

12.Decibel

   

ORL-8716            MPCD- 273                    74321-74647・2

 

 シングル・カットされた“Vivo Da Re”でデチベルはカンタジーロとフェスティヴァルバールに出場しています。秋にパッケージ・ツアーに参加しましたが、このツアーはあまり成功しませんでした。エンリコ・ルッジェリの分析はファンは十代が多く、、夜のコンサートより休日午後のコンサートの方が向いていたのではないかと考えました。

 

 このコンサート・ツアー中に大変な事が起きました。デシベルは明らかにこの事件の被害者でした。スパゲッティ・レコードの設立者にロークス(The Rokes)のシェル・シャピロと作詞家でプロデューサーのアレッサンドロ・コロンビーニ(Alessandro Colombini)、プロデューサーのシヴィオ・クリッパ(Silvio Crippa)3人に起きた内紛でした。

 

 この内紛の結末はスパゲッティ・レコードの経営権はアレッサンドロ・コロンビーニが取り、他の2人は出ていくことになります。シェル・シャピロは彼らのプロデューサーであり、シヴィオ・クリッパはデチベルのメンバーの面倒を見ていましたが、コロンビーニとは特に関係を持っていませんでした。

 

 エンリコ・ルッジェリはシェル・シャピロのプロデュースとシヴィオ・クリッパのマネージメントを受けたいので、スパゲッティ・レコードから出たい意向でした。残る3人はルッジェリの考えはわかるがレコード会社との契約が残っており、破棄すると莫大な違約金を請求されるので、そのリスクは負えないという意見でした。

 

 結論はエンリコ・ルッジェリはソロ歌手として独立し、デチベルを脱退、シェル・シャピロとシヴィオ・クリッパと行動を共にすること。残りの3人はデチベルとしてスパゲッティ・レコードとの契約を続けていくことになりました。バンドの分裂です。普通バンド・メンバーの音楽性の違いやメンバー同士の感情のもつれで分裂することは通常ですが、レコード会社の内紛でバンドが分裂することは非常に珍しいことです。(バンドのメンバーにとって悲劇です。)

 

 2016年にエンリコ・ルッジェリがデチベルに戻り、旧メンバー3人で再結成されましたが、彼らは当時の事はもう思い出したくないと語っています。

 

再出発メンバー

・フルヴィオ・ムツィオ(Fulvio Muzio) ギター、コーラス、鍵盤楽器 (在籍1978年~現在)

・シルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)鍵盤楽器、コーラス (在籍1978年~現在)

・ミノ・リボーニ(Mino Riboni)コーラス、ベース(在籍1978年~1985年)

 

 3人のバンドはシルヴィオがメイン・ヴォーカルを受け持ち、ドラムスはエッラデ・バンディーニ(Ellade Bandini)がサポートする体制で、マウロ・パオルッツィ(Mauro Paoluzzi)とアレッサンドロ・コロンビーニがプロデュースして新しいアルバムの制作に入りました。

 

ZPLSR-34169 (1982年 Spaghetti – RCA Italiana) Decibel ‎– Novecento

1.Novecento

2.Tutti Contro Tutti

3.Valzer Bianco Radioattivo

4.Stregoneria

5.Calde Sere Di Milano

6.Islamabad

7.Uomini In Coda

8.Novecento (Strumentale)

                   ZPLSR-34169 

 

 82年3人のデチベルの作ったアルバム「Novecento」がリリースされました。ポスト・パンクのニュー・ウェイヴからアート・ロックの時期を迎えたアルバムでした。評価がエンリコ・ルッジェリの支持者とバンドとしてのデチベル支持者とは明確に分かれた作品となります。

 ルッジェリ派の評価は、『エンリコのいないデチベルを責めるのは酷だが、構成的な観点からするとひ弱である』、デチベル派は『ロマンチックな退廃的な雰囲気で間違いなくよく構築され、アルバムは慎重に聞かれるに値する』というものでした。

 

 またアルバム・ジャケットの弾丸が真空管を打ち抜くデザインは数々の賞を受賞しました。

 

 スパゲッティ・レコードのオーナー3人は法廷闘争を始め、会社はマルチメディア制作に重点を置きます。レコード制作は85年まで続けますが、経営不振で活動を停止しました。

 

 エンリコ・ルッジェリはフランス・バークレイのイタリア現地法人S.I.F.でソロ歌手として活動を始めました。サンレモ音楽祭はソロ歌手として84年出場して以来、デチベルのメンバーとして出場も含め、現時点で11回を記録しています。87年にはジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)、ウンベルト・トッツィ(Umberto Tozzi)とのトリオで“もっと、もっと(Si Può Dare Di Più)”、93年にはソロで“Mistero” を歌い、2度目の優勝をしています。エンリコ・ルッジェリについては84年サンレモ音楽祭の後に話を続けていきます。

 

 フルヴィオ・ムツィオとシルヴィオ・カペッチャはバンド活動をしていたため滞っていた大学での学業を再開し、ムツィオはミラノ大学医学部で、カペッチャはボッコーニ大学で経済学マーケティングの学位を取得して研究を終えました。

 

 二人はミノ・リボーニと再びバンドを始めたいと願っていました。85年にリボーニはデチベルを脱退したことになっていますが、80年代中頃から末の間、彼らはミノ・リボーニのグループに歌手のマウリーロ・メンツィンガー(Maurilio Menzinger)、ベーシストのアンドレア・ミラネーゼ(Andrea Milanesi)も参加したライヴにピノ・マッサーラ(Pino Massara)、シェル・シャピロ、ビアジォ・アントナッチ(Biagio Antonacci,)などの友人たちが顔をだしていたようです。

 

 また北部にある一部のクラブへデチベルの名前を使わず出演を続けていたといわれています。

 

 これらの時期は彼らのテクノ時代にあたります。しかし91年にフルヴィオ・ムツィオがアメリカのカンザス大学病院勤務でイタリアを離れるということになり、彼らの活動は休止となります。

 

 

 

デチベルの国内盤はありません、デチベル 3 は2018年サンレモ音楽祭の後に、エンリコ・ルッジェリ 3は1984年サンレモ音楽祭の後に続きます

★デチベル (compl) Decibel

1977年ミラノでパンク・ロック・バンドとして結成され、時代とともにバンドの音楽性を変えながら、ソロ歌手として脱退したエンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri)が2016年に復帰し、現在まで活動を続けています。

 

 

 

活動期間:1977年-現在

所属レコード会社:Spaghetti(RCA Italiana) Top Studio, Sony Music, Anyway Music

サンレモ音楽祭出場2回:1980年11位, 2018年16位

公式サイトhttp://www.decibelmusic.com/

 

 

現在メンバー構成(太字は1980年サンレモ音楽祭出場メンバー)

・エンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri) ヴォーカル(在籍1977年~1980年、2016年~現在) 1957年6月5日ミラノ生。

・フルヴィオ・ムツィオ(Fulvio Muzio) ギター、コーラス、鍵盤楽器 (在籍1978年~現在) 1960年3月1日ミラノ生。

・シルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)鍵盤楽器、コーラス (在籍1978年~現在) 1960年6月30日ミラノ生。

 

 

1977年結成時メンバー構成(太字は1980年サンレモ音楽祭出場メンバー)

・エンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri) ヴォーカル。

・ピノ・マンチーニ(Pino Mancini)ギター (在籍1977年~1978年)

・エッリ・ロンギン(Erri Longhin)ベース (在籍1977年~1978年)

・ロベルト・トゥラッティ(Roberto Turatti)ドラムス (在籍1977年~1978年)

 

 

 

 

 デチベルのリーダー、エンリコ・ルッジェリはじめメンバーの家庭環境や生育期のことはわかっていません。デチベルやエンリコ・ルッジェリの公式サイトで自らの事が書かれているのは高校時代からです。彼らの拠点は自分達の生まれ育ったミラノ旧市街の南東に位置するポリタ・ロマーナ(Porta Romana)地区から始まります。

 

 エンリコは高校進学のために2年間辛い受験中学生生活の後、1911年ミラノのブルジョアジー子弟が通うために開校された私立高校、ジョヴァンニ・ベルケット上流高等学校(Il Lceo Classico Giovanni Berchet)に72年入学しました。15才のエンリコと同じように入試勉強を勝ち抜いて入学してきたフルヴィオ・ムツィオが同じクラスにいました。彼らの頭の中はほとんど音楽でいっぱいでした。

 

 エンリコはジョサファット(Josafat)と言うバンドを結成しているローリングストーンズ派のロッカーで、フルビオはビートルズ系のティップ・ゴッズ(Tip Gods)と言うバンドに所属していました。二人は両方のバンドで演奏していた共有のクラス・メートのカルメロ・ロンバルド(Carmelo Lombardo)がありました。

 

 74年エンリコのバンド、ジョサファットに近くにある科学系高校のアインシュタイン科学高等学校(Il Liceo Scientifico Einstein)に通うシルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)が加わりました。こうして2016年に再結成したデチベルのメンバーが顔を合わせるとこになったのです。

 エンリコはシルヴィオが参加する頃から芸名とペン・ネームにシャンパーニュ・モロトフ(Champagne Molotov)を使い始めました。

 

 76年カペッチャとルッジェリはギターのピノ・マンチーニ(Pino Mancini)、ドラムのロベルト・トゥラッティ(Roberto Turatti)、ベースのエッリ・ロンギン(Erri Longhin)からなるヘビー・メタル・バンド、トリフォリオ(Trifoglio)に加わり、エンリコはシャンパーニュー・モトロフと名乗ります。一方フルヴィオ・ムツィオは80年サンレモ音楽祭出場メンバーとなるミノ・リボーニ(Mino Riboni)とマルチェロ・カタラーノ(Marcello Catalano)と共にプログレッシブ・バンド、ヴォルティーチェ(Il Vortice)を結成しました

 

 77年パンク・ロックの流行でヘビー・メタル・バンドのトリフォリオはルッジェロがシャンパーニュー・モトロフとしてリーダーとするパンク・バンド、デチベルに生まれ変わります。この変更でシルヴィオ・カペッチャは一時的にバンドを離脱しました。メンバー構成は「1977年結成時メンバー構成」をご参照を。ルッジェリはミラノ中央駅南東部の下町ブエノス・アイレス地区の劇場街“ピッコロ・ブロードウェイ(Piccola Broadway a Milano)”にあるディスコでパンク・ロック・コンサートを開催すると発表し、「10月4日デシベルスとミラノでのパンク・コンサート」のリーフレットを配りまわりました。

 

 当日会場側は使用を許しませんでした。何百のパンク・ロッカーが集まり、パンク反対のデモ隊と衝突が起きて警官隊の出動もありました。その後ラジオのインタビューを受けて中止の件を答えた次の日から、色々な脅威と匿名の電話を受けました。

 

 これらの行動がRCAイタリアーナ傘下のレコード会社スパゲッティ((Spaghetti Records))の目に留まり、契約することが出来ました。

 

 この会社は77年にロークス(The Rokes)のシェル・シャピロ(Shel Shapiro)と作詞家でプロデューサーのアレッサンドロ・コロンビーニ(Alessandro Colombini)、プロデューサーのシヴィオ・クリッパ(Silvio Crippa)が興し、RCAイタリアーナに販売権をゆだねています。この会社は後々デチベルの運命に大きな影を落とします。

 

 イタリア最初の本格的パンク・コンサートは、その年の12月23日にミラノとトリノの中間に有る町サンティア(Santhià)のスポーツ・クラブで開かれたニューヨーク・パンク・ロックのハートブレイカーズ(Heartbreakers)・コンサートでした。デチベルはオープニング・バンドとして出演しました。

 

 イタリアのパンクは78年から79年の間に最も盛り上がりを見せました。デチベルはアルバム「パンク(Punk)」でレコード・デビューを果たします。

 

ZPLSR-34030 (1978年 Spaghetti – RCA Italiana) Punk

1.Figli Di...

2.Paparock

3.Lsd Flash

4.Superstar

5.Il Leader

6.New York

7.Col Dito...Col Dito...

8.Il Lavaggio Del Cervello

          ZPLSR-34030

 

 コンサートの方では78年5月ミラノの北北西30kmにある小都市ヴァレーゼ(Varese)にあるアマダ劇場(Teatro Tenda)で開催したイギリスのXYCのコンサートに出演、最も重要で最後のパンク・コンサートは10月16日ミラノのアダム&アンツ(Adam and the Ants)をプロモートし、コンサートにも出演した事でした。しかしデビュー・アルバムは数百枚しか売れず、評論家からの賞賛もなくパンク・ロンク・バンドのデチベルの戦いは終わりました。アルバムはその後マニア・アイテムとで入手困難なレコードとなり、安くても100ユーロ以上の値段が付きます。

 

 「パンク」の失敗で、元トリフォリオの三人の熱意はさめ、他の道を歩みますが、エンリコの音楽に対する熱意は損ないませんでした。彼が最初にしたことは、シルヴィオ・カペッチャに連絡を取り、彼にバンドへ戻るように頼むことでした。その後、彼らは一緒に新しいバンド・メンバーを構成し、音楽の方向性を考え始めました。

 

 エンリコは旧友フルヴィオ・ムツィオを思い出し、デチベルに加わることをお願いします。さらに彼らは15才の少年トミー・ミナッツィ(Tommy Minazzi)をドラムスとして、ベースはフルヴィオが組んでいたバンド、ヴォルティーチェ(Il Vortice)のミノ・リボーニ(Mino Riboni)を呼ぶことにしました。

 

 新生デチベルは79年1月24日にスパゲッティ・レコードと新しい契約を結びました。

 

1979年構成メンバー(太字は1980年サンレモ音楽祭出場メンバー)

・エンリコ・ルッジェリ(Enrico Ruggeri) ヴォーカル(在籍1977年~1980年、2016年~現在) 1957年6月5日ミラノ生。

・フルヴィオ・ムツィオ(Fulvio Muzio) ギター、コーラス、鍵盤楽器 (在籍1978年~現在) 1960年3月1日ミラノ生。

・シルヴィオ・カペッチャ(Silvio Capeccia)鍵盤楽器、コーラス (在籍1978年~現在) 1960年6月30日ミラノ生。

・ミノ・リボーニ(Mino Riboni)コーラス、ベース(在籍1978年~1985年) 1961年11月14日ミラノ生。

・トミー・ミナッツィ(Tommy Minazzi)ドラムス(在籍1978年~79年)

 

 この新メンバーでシングル盤を吹き込みました。

 

ZBSR-7143 (1979年 Spaghetti – RCA Italiana) Indigestione Disko/Mano Armata

ZBSR-7143  ZBSR-7182

ZBSR- 7182 (1980年 Spaghetti – RCA Italiana) Contessa (コンテッサ)/Teenager

 

 エンリコはデチベルをニュー・ウェイヴ・バンドとして再生し、サンレモ音楽祭の舞台に立つことを目標としました。彼らはクランプス・レコードで既に実績のあるロック・バンド、(Gli Skiantos)と出場権を争っていました。最終的に初出場でパンク・バンドという障害(もう彼らはパンクでなかったのですが)を乗り越え出場権を得て、しかも入賞(実質11位)し、80年年間ヒットランク56位の大ヒットとなる大成功を収めました。

 

 しかしデチベルはサンレモの成功と引き換えにパンク・ロッカーたちから『裏切り者』として非難されます。

 

 

デチベルの国内盤はありません、デチベル 2は次回に続きます

★ボビー・ソロ (vm) Bobby Solo

本名ロベルト サッティ、1945年3月18日ローマ生、自作自演歌手。

1980年代後半から90年代初めに、ロザンナ・フラテルロ(ROSANNA FRATELLO)、ボビー・ソロ(BOBY SOLO)とリトル・トニー(LITTLE TONY)の三人でロボット(RO.BO.T.)というユニットを組み、活動する。

 

               MD・F-026

 

所属レコード会社:Dischi Ricordi, CGD, EMI Italiana, Five Record, Pull, Sifare Edizioni Musicali

サンレモ音楽祭出場12回:1964年選考対象外、65年優勝、66年参加、67年参加、69年優勝、70年6位、72年参加、80年10位、81年入賞、82年入賞、84年12位、2003年16位(リトル・トニーとデュエット)

 

 

 

 イタリア本国ではほとんどレコードが出ていませんでしたが、日本の国内盤は多くのオムニバス盤(コンピ盤)が出ており、その整理をする回の要素を呈しています。少々のお許しをください。

 

 EMIイタリアーナで3枚目のアルバムは、移籍第1弾をデューティー・フリー名義で出したのと同様に、ボビーが大ファンのエルヴィス・プレスリーの曲のノン・ストップ・メドレー、ディスコ調仕立てでした。彼にとって得意中の得意の曲を揃えました。

 

3C・064-18390 (1979年 EMI - EMI Italiana) Bobby Solo  ‎– Rock'n'Roll

Rock Pie: Medley

1a.Rip It Up (リップ・イット・アップ)

1b.Ready Teddy (レディ・テディ)   

1c.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)   

1d.Rip It Up (リップ・イット・アップ)   

1e.A Big Hunk Of Love (恋の大穴)   

1f.Hard Headed Woman (冷たいおんな)   

1g.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)

1h. Tutti Frutti (トゥッティ・フルッティ)

1i.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)   

1j.Hard Headed Woman (冷たいおんな)   

1k.A Big Hunk Of Love (恋の大穴)   

1l.Rip It Up (リップ・イット・アップ)   

1m.Ready Teddy (レディ・テディ)   

1n.Jailhouse Rock (監獄ロック)

1o.Hound Dog (ハウンド・ドッグ)   

1p.Long Tall Sally (のっぽのサリー)   

1q.Babe Babe   

1r.Guitar Boogie (ギター・ブギ) 

1s.My Darling   

1t.Put Your Hand In The Hand (サインはピース)

1u.Don't Be Cruel (冷たくしないで)   

1v.Lucille (ルシア)

Crossongs: Medley

2a.Suspicion (サスピション)   

2b.Are You Lonesome Tonight (今夜はひとりかい?)   

2c.It's Now Or Never (イッツ・ナウ・オア・ネヴァー)   

2d.Don't Be Cruel (冷たくしないで)   

2e.Teddy Bear (テディ・ベアー)   

2f.Stuck On You (本名はお前だ)   

2g.All Shook Up (恋にしびれて)   

2h.Good Luck Charm (グッド・ラック・チャーム)   

2i.I Gotta Know (アイ・ガッタ・ノウ)   

2j.Love Me Tender (ラヴ・ミー・テンダー)   

2k.Crying In The Chapel (涙のチャペル)    

2l.Return To Sender (心のとどかぬラブレター)

2m. Surrender (サレンダー (サンタ・ルチア [英] (Santa Lucia))   

2n.Can't Help Fallin' In Love (好きにならずにいられない(愛の喜び(Plaisir D'Amour))

2o.Fame And Fortune (恋にいのちを)   

2p.Duty Free Rock

3C・064-18390 3C・006-063038

3C・006-063038 (1979年EMI - EMI Italiana) Arrivederci Roma (アリヴェデルチ・ローマ)/Love Is Burning

 

 さらにディスコ調仕立ての“アリヴェデルチ・ローマ”をシングル盤で出しました。彼自身も復活の予感を肌で感じていたと思います。

 

 この勢いで80年サンレモ音楽祭に“ジェロシア“で出場しました。8年ぶりのサンレモ音楽祭の舞台でした。この年の話題は60年代絶対的トップ・スター、ジャンニ・モランディ(Gianni Morandi)とそれを追って登場してきたシンデレラ・ボーイのボビー・ソロが復活するかという話題でした。

 

3C・006-18471 (1980年EMI - EMI Italiana) Gelosia(ジェロシア)/Mia Cara

           3C・006-18471

 

 ボビー・ソロの“ジェロシア”は入賞20曲中真ん中の実質10位、ジャンニ・モランディの“マリウ(Mariù)”は表彰の第三位に入りませんでしたが、入賞実質4位で大成功なのですが、サンレモ音楽祭の怖いところはその後のヒット状況です。

 

 ボビー・ソロは80年年間ヒットランク43位となり、大ヒットと言える成績でしたが、モランディは年間ヒットランク100どころか週間ランキングにもランク・インもしない大惨敗に終わりました。

 

MD・F-026 (1980年CLS - Messaggerie Musicali) Tu/ Se Dice Que... ※ジャケット写真は顔写真画像をご参照

 

 サンレモ音楽祭後CLSから突如シングル盤“Tu”が発売されます。CLSはデット・マリアーノ(Detto Mariano)が設立したレコード会社、76年にシングル盤“Dolce”を出しましたが、その時にお蔵入りとなった曲を売り出したのだと思われます。

 

 彼の全盛期にいたリコルディ(Ricordi)の日本販売権が70年から79年までポリドールが持っていました10年ぶりにキングへ戻ってきました。この期間両社から大量のコンピレーションが発売され、その多くにボビー・ソロの曲も収録されました。

 

 

ボビー・ソロの国内盤(1977年~80年)

GXC-  25~6 (1977年10月. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP懐かしのゴールデン・ヒット・ポップス (GOLDEN HIT POPS BEST 28)

2-12.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

GXC-  25~6  MWX-9951~3

 

MWX-9951^3 (1977年12月1日 RICORDI -ポリドール.) 30cm 3LP ゴ-ルデン・カンツォーネ・ベスト・コレクション (GOLD CANZONE BEST COLLECTION)

1-2.涙のさだめ (ZINGARA)

1-6.ロマンティコ・ブル-ス (ROMANTICO BLUES)

2-7.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

2-10.恋のジプシー (IL CUORE E' UNO ZINGARO)

3-1.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

 

JP-2086 (197?年 POLYDOR - 日本ディスクライブラリー(ポリドール制作).) 30cmLP想い出のポピュラー大全集 わが胸にもう一度【愛の讃歌/ほほにかかる涙】 (ONE MORE TIME AROUND)

7.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

14.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

JP-2086 JA- 202

 

JA- 202 (197?年 K-TEL(POLYDOR) - シンタック(製造ポリド-ル).) 30cmLP 20ダイナミックヒット (20 DYNAMIC HITS)

18.ほゝにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

 

MI-8019 (197?年 RICORDI -ポリドール.) 30cmLP ほほにかかる涙/カンツォーネ (KMOOD MUSIC BEST COLLECTION 9:CANZONE/UNA LACRIMA SUL VISO)

7.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

8.少女 (CANTA RAGAZZINA)

9.涙のさだめ (ZINGARA)

10.想いはるかに (I MIEI PENSIERI)

11.恋のジプシー (IL CUORE E' UNO ZINGARO)

12.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

MI-8019 NDL- 901・9

 

NDL- 901・9 (197?年 RICORDI - ポリドール.) 30cmLP 世界の音楽ベスト・コレクション 或る恋の物語 (ポピュラー~ジャズ)ほほにかかる涙/カンツォーネ (KMOOD MUSIC BEST COLLECTION 9:CANZONE/UNA LACRIMA SUL VISO)

1.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

2.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

3.涙のさだめ (ZINGARA)

 

GXC-9027~8 (1978年10月5日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP 最新決定盤/カンツォーネ (CANZONE GOLD SUPERDISC)

1-8.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

 

GXC-9027~8 SKW-127~8

 

SKW-127~8 (1979年1月. KING - キング) 30cm 2LP サン・レモ音楽祭ヒッツ<日本語>全集〔下〕 (SANREMO FESTIVAL IN JAPANESE)

1-12. 少女[日] (CANTA RAGAZZINA [J])

 

GXF-  81~90 (1979年2月5日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 10LP Box サン・レモ音楽祭大全集 (FESTIVAL DI SAN REMO)

4-11.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

4-15.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

6-7.少女 (CANTA RAGAZZINA)

7-2.涙のさだめ (ZINGARA)

 

GXF-  81~90  GXC- 102

 

GXC- 102 (1979年5月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm LPほほにかかる涙/ボビー・ソロ (UNA LACRIMA SUL VISO/BOBBY SOLO)

1.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

2.少女 (CANTA RAGAZZINA)

3.モアー (TI GUARDERO' NEL CUORE)

4.愛を誓う (QUESTA VOLTA)

5.想い出の夢 (NON C'E' PIU' NIENTE DA FARE)

6.魅惑のワルツ (FASCINATION)

7.涙のさだめ (ZINGARA)

8.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

9.涙のチャペル [伊] (LA CASA DEL SIGNORE)

10.ガッパリア (GUAPPARIA)

11.ロマンティコ・ブルース (ROMANTICO BLUES)

12.恋のジプシー (IL CUORE E' UNO ZINGARO)

13.想い出の少女 (BAMBINA MIA)

14.さよなら恋人 [日] (L'ULTIMO GOODBYE [J])

 

GXC- 137~8 (1979年7月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP カンツォーネ・デラックス (CANZONE DOUBLE DELUXE)

1-3.涙のさだめ (ZINGARA)

1-8.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

 

GXC- 137~8 GXC- 139~40

 

GXC- 139~40 (1979年7月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP サン・レモ音楽祭のすべて (SAN REMO BEST HITS)

1-4.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

2-3.涙のさだめ (ZINGARA)

 

GXC- 141~2 (1979年7月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP サン・レモ優勝のすべて (I VINCITORI DI SAN REMO)

1-11.涙のさだめ (ZINGARA)

2-1.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

GXC- 141~2 GXM-9105

 

GXM-9105 (1979年10月5日. SEVEN SEAS - キング) 30cmLP 最新決定盤!ボビー・ソロ/ゴールド・スーパー・ディスク (I VINCITORI DI SAN REMO)

1.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

2.愛を誓う (QUESTA VOLTA)

3.涙のさだめ (ZINGARA)

4.モアー (TI GUARDERO' NEL CUORE)

5.魅惑のワルツ (FASCINATION)

6.涙のチャペル [伊] (LA CASA DEL SIGNORE)

7.少女 (CANTA RAGAZZINA)

8.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

9.恋のジプシー (IL CUORE E' UNO ZINGARO)

10.ロマンティコ・ブルース (ROMANTICO BLUES)

11.嘆き (RIMPIANTO)

12.想い出の少女 [伊] (BAMBINA MIA)

13.ムーン・リバー (MOON RIVER)

14.帰り来ぬ青春[伊] (IERI SI')

15.想い出の夢 (NON C'E' PIU' NIENTE DA FARE)

16.さよなら恋人 [日] (L'ULTIMO GOODBYE [J])

 

GXC-9123~4 (1979年7月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP 最新決定盤!カンツォーネ (CANZONE)

1-2.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

1-12.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

GXC-9123~4 K16P- 9023~4

 

K16P- 9023~4 (1980年10月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LP 最新決定盤!カンツォーネ (CANZONE)

1-4.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

1-8.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

 

 

ボビー・ソロ10は1981年サンレモ音楽祭の後に続きます

★パオロ・リヴィエラ (vm) Paolo Riviera

本名リッカルド・アリエッティ(Riccardo Aglietti)1952年4月3日フィレンツェ南東郊外の町フィリーヌ・ヴァルダモ(Figline Valdamo)生、自作自演歌手。

 

 

 

活動期間:197? – 現在

所属レコード会社:Yep Record, SIF

サンレモ音楽祭出場1回:1980年9位

 

 

 リッカルド・アリエッティは長年地元のピアノ・バーで歌手パオロ・リヴィエラとして歌っておりました。80年代になるとペンネームでエリオプ(Eliop)名で曲を書くようになる74年に設立されたイェップ(Yep)・レコードのプロデューサーで共同経営者でもあるエリオ・パスカーレ・パルンボ(Elio Pasquale Palumbo)に見いだされました。

 

 彼は79年後半に彼のレコード会社によって選ばれ、80年サンレモ音楽祭へ“白馬”という曲を持って出場し、9位入賞しました。

 

YEP-00726 (1980年 Yep Record ‎ – Dischi Ricordi) Cavallo Bianco (白馬)/Pianeta Anima

YEP-00726  YEPL-004424

YEPL-004424 (1980年 Yep Record ‎ – Dischi Ricordi) Paolo Riviera ‎– Cavallo Bianco

1 Cavallo Bianco (白馬)

2.Concerto Per Un Amore

3.Il Mago Ed Il Poeta

4.Passo Passo Va

5.La Gente Non Lo Sa

6.Specchio

7.Pianeta Anima

8.Un Sogno A Metà

 

 年間ヒットランク100には入りませんでしたが、新人、初出場ながら週間ランキングで最高位39位(在位15週)の実績を残し、唯一のアルバム「Paolo Riviera ‎– Cavallo Bianco」を制作しました。

 

 セカンド・シングルはアルバム収録曲から2曲をカッティングしました。ジャケット写真はどう見ても全盛期の佐藤蛾次郎としか思えませんが!

 

YEP-00735 (1980年 Yep Record ‎ – Dischi Ricordi) La Gente Non Lo Sa/Concerto Per Un Amore

YEP-00735  5390-745

5390-745 (1982年 Yep Record – PolyGram) Senza Me Come Stai/Io E Te

 

 82年イェップのディストリビューション権はリコルディからポリグラムに移り、新録音の“Senza Me Come Stai”を出し、多分イェップとの契約が終了したと思われますが、同年フランス・バークレイのイタリア法人であるSIFからシングル盤“Marinaio Negro Di Miami”を出したのを最後に、レコード歌手を辞め、地元に帰ってしまいます。

 

SIF・NP-10026 (1982年 SIF – Dischi Ricordi) Marinaio Negro Di Miami/E Allora Vai

SIF・NP-10026          

(2017年6月) Paolo Riviera Ciao America [B073LPV13Y]

1.La macchina del tempo

2.Ciao America

3.Compare sul mare

4.Lei la rosa la vita

5.La logica della ragione

6.Nell'altra metà della vita

7.Protezione totale

8.Fra il dire e il fare

9.Festa di laurea

10.Epicurea

11.Specchio

12.Porta un bacione a Firenze

13.Ella la rosa la Vida

 

 30年以上の時は流れて2017年6月パオロ・リヴィエラはアルバム「Paolo Riviera Ciao America」を世に出します。CDの現物を見つけ出せないので、Web上だけの公開かもしれませんが、彼は音楽から離れることなく、地元のピアノ・バーで歌い続けていたのでしょう。

 

 

 

パオロ・リヴィエラの国内盤はありません、パオロ・リヴィエラは以上です。

 

 

 

★ボビー・ソロ (vm) Bobby Solo

本名ロベルト サッティ、1945年3月18日ローマ生、自作自演歌手。

1980年代後半から90年代初めに、ロザンナ・フラテルロ(ROSANNA FRATELLO)、ボビー・ソロ(BOBY SOLO)とリトル・トニー(LITTLE TONY)の三人でロボット(RO.BO.T.)というユニットを組み、活動する。

 

           3C・054-18361

 

所属レコード会社:Dischi Ricordi, CGD, EMI Italiana, Five Record, Pull, Sifare Edizioni Musicali

サンレモ音楽祭出場12回:1964年選考対象外、65年優勝、66年参加、67年参加、69年優勝、70年6位、72年参加、80年10位、81年入賞、82年入賞、84年12位、2003年16位(リトル・トニーとデュエット)

 

 

 前回のボビー・ソロ(2017年1月28日)に入れるべきアルバム1枚が抜けていたので、これを最初に紹介いたします。どうも彼本来のヴォーカル物でなかったため、ボビー・ソロのディスコグラフィーから除外されている場合もあるようです。私も今回書くまで気が付きませんでした。

 

 1972年に出たギタリスト、ルチアーノ・チッカリョーリ(Luciano Ciccaglioni)とのコラボ・アルバム「One Way To California」です。チッカリョーリは66年ころからボビー・ソロのバックを務めたり、リトル・トニーはじめ多くの歌手のギターを演奏、レコーディングにかかわったアルバムは75以上に及びます。

 このアルバムのYou-Tube映像は2曲ありますが、2曲とも演奏のみディスコグス(Discogs)のクレジットも二人の名前が「Music By」として載っていますが、歌詞のクレジットはありません。どうやらギターのインスト盤のように思えます。

 

IL-7 (1972年 Iller - Edizioni Musicali Iller) Roberto Satti e  Luciano Ciccaglioni  ‎– One Way To California

NFC-3022 (1988年 Fonit Cetra ‎– Nuova Fonit Cetra) Roberto Satti E  Luciano Ciccaglioni,  Francesco Santelli  ‎– Country 1 - One Way To California

1.One Way To California

2.Love Affair In St. Francisco

3.Simonin' (1.a Versione)

4.Simonin' (2.a Vers. Strumentale)

5.Driving Home

6.There Was A Time

7.East Coast Dreamin'

8.Mino's Theme

9.Dreamin' On

10.Stars Fell On California

11.Lonely Return

12.Few Miles To Los Angeles

13.Upon The Sky

IL-7  NFC-3022

 

 ボビー・ソロは1972年サンレモ音楽祭に“嘆き(Rimpianto)”で出場しましたが、入賞出来ず、長いトンネルに入ってしまいました。70年代中ごろには今まで人気のあったカンツォーネ歌手達の人気が一斉になくなり、フォーク・ロック系歌手やプログレ・バンドの時代が続きました。

 

 彼はデビュー以来のリコルディを離れ、ほぼ無契約状態が続いていましたが、78年やっとメジャーのEMIイタリアーナと契約が出来ました。まずボビー・ソロの名前を隠してデューティー・フリー(Duty Free)の仮名で外国ロック・ン・ロールのメドレーアルバム「Duty Free」を作りました。

 

3C・064-18315 (1978年 EMI - EMI Italiana) Duty Free (prima stampa con meno tracce del successivo Rock'n'Roll - sul disco non appare il nome di Bobby)

Crossongs (Medley)

1a.Intro

1b.Suspicion (サスピション)

1c.Are You Lonesome Tonight (今夜はひとりかい?)

1d.It's Now Or Never (イッツ・ナウ・オア・ネヴァー)

1e.Don't Be Cruel (冷たくしないで)

1f.Teddy Bear (テディ・ベアー)

1g.Stuck On You (本名はお前だ)

1h.All Shook Up (恋にしびれて)

1i.Good Luck Charm (グッド・ラック・チャーム)

1j. I Gotta Know (アイ・ガッタ・ノウ)

1k.Love Me Tender (ラヴ・ミー・テンダー)

1l.Crying In The Chapel (涙のチャペル)

1m.Return To Sender (心のとどかぬラブレター)

1n.Surrender (サレンダー (サンタ・ルチア [英] (Santa Lucia))

1o.Can't Help Fallin' In Love (好きにならずにいられない(愛の喜び(Plaisir D'Amour))

1p.Fame And Fortune (恋にいのちを)

1q.My Way (マイ・ウェイ)

2Babe Babe

Rock Pie (Medley)

3a.Rip It Up (リップ・イット・アップ)

3b.Ready Teddy (レディ・テディ)

3c.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)

3d.Rip It Up (リップ・イット・アップ)

3e.A Big Hunk Of Love (恋の大穴)

3f.Hard Headed Woman (冷たいおんな)

3g.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)

3h.Tutti Frutti (トゥッティ・フルッティ)

3i.Blues Suede Shoes (ブルー・スェード・シューズ)

3j.Hard Headed Woman (冷たいおんな)

3k.A Big Hunk Of Love (恋の大穴)

3l.Rip It Up (リップ・イット・アップ)

3m.Ready Teddy (レディ・テディ)

3n.Jail House Rock (監獄ロック)

3o.Hound Dog (ハウンド・ドッグ)

3p.Long Tall Sally (のっぽのサリー)

4.My Darling

5.Duty Free Rock

3C・064-18315 3C・006-18338

3C・006-18338 (1978年5月EMI - EMI Italiana) Una lacrima sul viso (ほほにかかる涙) / Family Life

 

 続いて75年CGDと契約できた時は過去のヒット曲をセルフ・カヴァーすることを拒みましたが、彼も苦労を味わったのかEMIイタリアーナではディスコ調の“ほほにかかる涙”を吹込み、シングル盤とアルバム「Una Lacrima Sul Viso (New Wave Disco)」を出しました。

 

3C・054-18361 (1978年 EMI - EMI Italiana) Una Lacrima Sul Viso (New Wave Disco) ※ジャケット写真は顔写真画像をご参照

3C・064-18361 (1979年 EMI - EMI Italiana) Una lacrima sul viso (?)

1.Una lacrima sul viso (ほほにかかる涙) (New Wave Disco)

2.Family Life

3.Down My Spine

4.For Pleasure

5.Road To Memphis

6.Una lacrima sul viso (ほほにかかる涙) (Italian Version)

 

 

ボビー・ソロの国内盤(1976年)

HIT-2233 (1976年2月 . SEVEN SEAS - キング) 想い出の少女 [伊]/[英] (BAMBINA MIA/DON'T SAY GOODBYE)

 

HIT-2233 MW-2176

 

MW-2176 (1976 年6月 RICORDI -ポリドール.) 30cm LPカンツォーネ・ヒット大全集Vol.1 (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.1)

7.ほほにかかる涙 (UNA LACRIMA SUL VISO)

8.すてきなクリスティーナ (CRISTINA)

9.ぼくを信じて (CREDI A ME)

 

GXF-  31~5 (1976年6月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 5LP Box カンツォーネの歴史 (LA STORIA DI CANZONE ITALIANA)

4-18.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

GXF-  31~5  MW-2177

 

MW-2177 (1976 年7月 RICORDI -ポリドール.) 30cm LPカンツォーネ・ヒット大全集Vol.Ⅱ (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.Ⅱ)

7.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

MW-2178 (1976 年8月 RICORDI -ポリドール.) 30cm LPカンツォーネ・ヒット大全集Vol.Ⅲ (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.Ⅲ)

4.少女 (CANTA RAGAZZINA)

5.想い出の夢 (NON C'E' PIU' NIENTE DA FARE)

11.昼の夢 (SIESTA)

 

MW-2178  MW-2179

 

MW-2179 (1976 年9月 RICORDI -ポリドール.) 30cm LPカンツォーネ・ヒット大全集Vol.Ⅳ (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.Ⅳ)

8.涙のさだめ (ZINGARA)

12.ジーン [伊] (JEAN [I])

 

GXG-  15~6 (1976年9月21日. SEVEN SEAS - キング) 30cm 2LPサン・レモ音楽祭ヒット曲集 (SAN REMO BEST HITS)

1-9.君に涙とほほえみを (SE PIANGI SE RIDI)

 

GXG-  15~6  MW-2180

 

MW-2180 (1976 年10月 RICORDI -ポリドール.) 30cm LPカンツォーネ・ヒット大全集Vol.Ⅴ (HISTORY OF GOLDEN CANZONE Vol.Ⅴ)

1.ロマンティコ・ブル-ス (ROMANTICO BLUES)

4.恋のジプシー (IL CUORE E' UNO ZINGARO)

 

 

ボビー・ソロ9は次回に続きます

★リロイ・ゴメス (vm=fr) Leroy Gomez

1950年7月8日米国マサチューセッツ州ウェアラム(Wareham)生。自作自演歌手、サキソフォン奏者。家系はアフリカ西端太平洋上にある旧ポルトガル領カーボ・ベルデ(Cabo Verde)出身ですが、二十代で欧州に渡り、フランス(帰化は不明)に定住しています。

 

 

 

活動期間:1965年 – 現在

所属レコード会社:Philips, Casabranca Telefunken, EastWest, Julisa, Just Music, Five Star Records, Stop And Go

サンレモ音楽祭出場1回:1980年8位

 

 

 リロイ・ゴメスは米国マサチューセッツ州でカーボ・ベルデ系黒人の家系に生まれました。

 

 カーボ・ベルデはアフリカ西端375㎞の大西洋上にある旧ポルトガル領の島国で、19世紀以降米国への移民が盛んになります。1924年移民法以降もポルトガル人として移民し、『黒いポルトガル人』とも言われ、ポルトガル本国の白人移民、旧来からのアフリカ系アメリカ人の間で複雑な人種問題も起きていました。

 

 このような環境下でリロイは歌とサックスの演奏を学び、14才で自分のバンドを始め、その後カーボ・ベルデ系黒人兄弟のバンド、タバレス(The Tavares)のバック・バンドに同郷の吉見もあり、サックス奏者として採用されました。

 

 タバレスは50年代末に結成され長い間下積みの後、70年代にディスコ・ミュージック全盛の時代に入り、キャピトルから“愛のディスコティック(It Only Takes A Minute)”など大ヒットを出して、R&B系のディスコ・ミュージックの本流を担いました。

 

 リロイがタバレスに所属していた期間は明確に分かりませんが、タバレスの北米・欧州ツアーに同行し、フランスが気に入りそのままパリに住み着き、スタジオ・ミュージシャンをしていました。

 

 そしてエルトン・ジョン(Elton John)のアルバム「黄昏のレンガ路(Goodbye Yellow Brick Road)」にサックス奏者として参加したとされています。エルトン・ジョンのアルバム・リリースは73年なので、そうすると彼が所属していた頃のタバレスは大ブレークする前の時代だったことになります。

 

 リロイはパリでスタジオ・・ミュージシャンをしながら歌手になる機会を探していました。エルトン・ジョンのアルバム制作に関わったのが良かったのか、音楽出版社が作ったレーベルで短命に終わったLes Trois Mousquetairesから芸名をリー・ロイ(Lee Roy)として“Sweet Jennifer”で歌手デビューします。ジャケット写真をみるとまだヒゲもはやさず、大きなアフロ・ヘアもしていません。

 

128-022 (1974年 Les Trois Mousquetaires ‎– Barclay) Sweet Jennifer/It's Not Your Style [come Lee Roy]

128-022  46-602

46-602 (1974年 Sonopresse ‎– Pathé Marconi EMI,France) Woman/R'N'Roll Graffiti 1950 [come Lee Roy]

 

 ”Sweet Jennifer“を出したLes Trois Mousquetairesは74年中に活動を停止したようで、その為、2枚目のシングルと思われる“Woman“をSonopresseから出したようです。

 

 翌75年日本でも国内盤契約があったAZから“Here We Go Round”を出しました。タイトルだけではわかりませんが、日本で映画音楽“禁じられた遊び”として知られているスペインのトラディショナル曲“ロマンス”を英語でディスコ調にアレンジしたものです。もし日本で発売されていたら、“ディスコ・禁じられた遊び”のタイトルを付けられたことでしょう。これはマイナー・ヒットし、イタリアのジョーカー(SAAR)からも発売されました。

 

SG-523 (1975年 Disc'Az – Discodis) Here We Go Round/This Time A Stay [come Lee Roy]

M-7184 (1975年 Joker ‎– SAAR) Here We Go Round/This Time A Stay [come Lee Roy]

SG-523  M-7184

 

 という状況でタバレスが表舞台に引き上げたディスコ・ミュージックは、リロイ・ゴメスにも大きなチャンスを与えました。

 

 ディスコ・ミュージックに参入するため小さなレーベル、フォーヴ・プーマ(Fauves Puma)を立ち上げたニコラス・スコースキー(Nicolas Skorsky)とジャン・マヌエル・ド・スカラノ(Jean Manuel de Scarano)は“Here We Go Round”で小さな成功を収めたリー・ロイに目を付けました。

 

 リー・ロイを本名のリロイ・ゴメスに戻してメイン・ヴォーカルに据え、後に彼の妻となる通称テキーラ(Tequila)と言うアルジェリア出身の女性ダンサー、アキラ・ブーシャレブ(Akila Bouchareb)達がサポートに入れ、ニコラスとジャン・マヌエルは自らも参加しサンタ・エスメラルダ(Santa Esmeralda)というディスコ・ミュージック・プロジェクトを結成します。

 

 50年代の終わり頃からフランスでロス・マチュカンボス(Los Machucanbos)、ロス・カルチャキス(Los Calchakis)、ロス・チャコス(Los Chacos)などのラテン・グループが活躍し、80年代にはジプシー・キングス(Gipsy Kings)がヒットを出しているように、フランスは異文化、エキゾチックな曲に関心が高い国でした。

 アメリカのブラック・ミュージックの“悲しき願い”にスパニッシュ・ギターを前面に出したディスコ・ミュージックは特に目新しく、ヨーロッパばかりか世界中で大ヒットしました。

 

6172-028 (1977年 Philips ‎– Phonogram France) Don't Let Me Be Misunderstood + Esmeralda Suite (悲しき願い)/You're My Everything (ユー・アー・マイ・エヴリシング) [Santa Esmeralda Starring Leroy Gomez]

6042-325 (1977年 Philips ‎– Phonogram Italia) Don't Let Me Be Misunderstood + Esmeralda Suite (悲しき願い)/You're My Everything (ユー・アー・マイ・エヴリシング) [Santa Esmeralda Starring Leroy Gomez]

SFL- 2250 (1978年 2月5日 Philips ‎– 日本フォノグラム) Don't Let Me Be Misunderstood + Esmeralda Suite (悲しき願い)/You're My Everything (ユー・アー・マイ・エヴリシング) [Santa Esmeralda]

      

6172-028                          6042-325                        SFL- 2250

 

9101-149 (1977年 Philips ‎– Phonogram France) Santa Esmeralda Starring  Leroy Gomez  ‎– Don't Let Me Be Misunderstood (悲しき願い)

9120-236 (1977年 Philips ‎– Phonogram Italia) Santa Esmeralda Starring  Leroy Gomez  ‎– Don't Let Me Be Misunderstood (悲しき願い)

RJ-7350 (1977年 Philips ‎– 日本フォノグラム) Santa Esmeralda  ‎– Don't Let Me Be Misunderstood (悲しき願い/サンタ・エスメラルダ)

1. Don't Let Me Be Misunderstood + Esmeralda Suite

 a. Don't Let Me Be Misunderstood (悲しき願い)

 b.Esmeralda Suite (エスメラルダ・スイート)

2.Gloria (グロリア)

3.You're My Everything (ユー・アー・マイ・エヴリシング)

4.Black Pot (ブラック・ポット)

    

9101-149                         9120-236                         RJ-7350

 

 一説によるとギャラでもめたらしく、ゴメスは1作でサンタ・エスメラルダを辞めてソロに戻ります。ドイツのテレフンケンでアルバム「Number One Man」を発売しました。

 

6-23421・AO (1978年 Telefunken – Teldec, West Germany) Leroy Gomez ‎– Number One Man

1.Jaywalk

2.Number One Man

3.Passion

4.Down In St.Tropez

5.Parisound

6.Thumping

           6-23421・AO

 

 フランスに戻りフィリップスからアルバム「ジプシー・ウーマン」とタイトル曲“ジプシー・ウーマン”をシングル・カットし大成功を収めました。

 

6172-820 (1978年 Philips ‎– Phonogram France) Gypsy Woman (ジプシー・ウーマン)/ Foolin' You (フーリン・ユー)

6025-208 (1978年 Philips ‎– Phonogram Italia) Gypsy Woman (ジプシー・ウーマン)/ Foolin' You (フーリン・ユー)

VIP- 2683 (1979年 1月 Casablanca ‎– ビクター音楽産業) Gypsy Woman (ジプシー・ウーマン)/Spanish Harlem (スパニッシュ・ハーレム)

    

6172-820                         6025-208                         VIP- 2683

 

910-190 (1978年 Philips ‎– Phonogram France) Leroy Gomez ‎– Gypsy Woman

6323-064 (1978年 Philips ‎– Phonogram Italia) Leroy Gomez ‎– Gypsy Woman

VIP- 6584 (1978年 Casablanca ‎– ビクター音楽産業) Leroy Gomez ‎– Gypsy Woman (ジプシー・ウーマン/リロイ・ゴメス)

1.Medley (メドレー)

 a.Gypsy Woman (ジプシー・ウーマン)

 b.Gipsy Love (ジプシー・ラブ)

2.Let Me Change Your Mind (チェンジ・ユア・マインド)

3.Spanish Harlem (スパニッシュ・ハーレム)

4.Mama Told Me (ママ・トールド・ミー)

5.Foolin' You (フーリン・ユー)

    

910-190                           6323-064                        VIP- 6584

 

 79年アルバム「Get Up Boogie」を出しましたが、前作を超えることはなかったようです。

 

9101-236 (1979年 Philips ‎– Phonogram France) Leroy Gomez ‎– Get Up Boogie

6323-079 (1979年 Philips ‎– Phonogram Italia) Leroy Gomez ‎– Get Up Boogie

1.Little Girl

2.Get Up Boogie

3.I Got It Bad

4.High On The Moon

5.Give Me The Simple Truth

6.Lonely Night

7.Music Makes My Life

9101-236  6323-079

 

6025-249 (1980年 Philips ‎– Phonogram Italia) Tu Mi Manchi Dentro (君のいない日々)/ (Will You) Love Me 'Till Tomorrow

             6025-249

 

 これらの成功をもって80年サンレモ音楽祭に出場し、8位入賞をしました。しかしこの頃からディスコ・ミュージックに翳りが見えだしました。

 

 一線からリロイの名は消えますが、95年にマキシ・シングルで“Wonderful World“を出します。

 

0630-10839・0 (1995年 EastWest - Warner Music, Germany‎) 12”Maxi Leroy Gomez ‎– Wonderful World

0630-10840・2 (1995年 EastWest - Warner Music, Germany‎) CDs Leroy Gomez ‎– Wonderful World

1.Wonderful World (Extended Version)

2. Wonderful World (Techno Universe Mix)

3.Wonderful World (House World Mix)

4.Wonderful World (Hardbeat Mix)

0630-10839・0  0630-10840・2

 

 90年代以降“悲しき願い”を財産に音楽活動を続けます。

 

3038442 (1998年 Julisa ‎– Carrere,France) Don't Let Me Be Misunderstood (悲しき願い) (Radio Edit)/ (Club Edit)

             3038442

 

507956・2 (2002年 Just Music ‎– Sony Music Entertainment Italy) CD Santa Esmeralda, Leroy Gomez  ‎– Lay Down My Love [5 099750 795620]

1.Bed Of Love

2.Hasta Luego

3.Lay Down My Love

4.Deja Voodoo

5.I Heard It Through The Grapevine (Latin Version)

6.Love Is Out To Get You

7.Now I Know

8.Oh My Lady

9.I Heard It Through The Grapevine

10. Bed Of Love (Radio Version)

507956・2  MS-2032

MS-2032 (2004年 Five Star Records, Netherlands) CDs ed Of Love (Radio Version/(Extended Radio Version)

 

 21世紀には自分のレーベルも興し、彼独自の音楽活動を続けています。

 

GO-254254・2 (2010年2月 Stop And Go ‎– S.A.I.F.A.M.) CDs Leroy Gomez  ‎– Everybody In Love

1.Everybody In Love (Sergio Mauri vs Karim & Dj Dami)

2.Everybody In Love (Frankie Gada Rmx)

3.Everybody In Love (Stefano Mattara Rmx)

4.Everybody In Love (Andrea Paci Rmx)

5.Everybody In Love (Ricky Rocco Original Mix)

GO-254254 (2010年2月 Stop And Go ‎– S.A.I.F.A.M‎) 12”Maxi Leroy Gomez  ‎– Everybody In Love

1.Everybody In Love (Sergio Mauri Vs. Karim Razak & Dj Demi)

2.Everybody In Love (Simon De Jano Original Version)

3.Everybody In Love (Frakie Gada Rmx)

4.Everybody In Love (Andre Paci Rmx)

GO-254254・2  GO-254254

 

 

リロイ・ゴメスのイタリア関係の国内盤はありません、リロイ・ゴメスは以上です。