★ザ・ロークス (compl) The Rokes
イギリス生まれでイタリア育ちの「ビートニック」バンド、イタリア版GSでエキペ84と人気の頂点を競った。60年代のポップス・バンド。

メンバー
・シェル・シャピロ、ヴォーカル、ギター、ベース。
本名ノーマン・デヴィッド・シャピロ (Norman David Shapiro)1943年8月16日イギリス・ロンドン生、歌手、音楽家、音楽プロデューサーと俳優。イタリアの市民権を取得。
・ボビー、本名ロバート・ポズナー (Robert Posner)ベース。
1945年2月8日イギリス・ロンドン生。
・ジョニー、本名レイ・チャールトン (Ray Charlton)ギター。
1945年12月3日イギリス・ロンドン生。
・マイク、本名マイク・シェプストン(Mike Shepstone)ドラムス。.
1944年10月14日イギリス・ロンドン生。
1960年シェル・シャピロは英国でシェル・カーソン・コンボ(Shel Carson Combo)と言うバンドを結成しました。ギター、ヴォーカルの彼とベースのポズナー、シェプストンがドラムス、そしてロークスのメンバーには名前のないヴィック・ブリッグス(Vic Briggs)がギターで参加していました。
60年秋、彼らはツアーで西ドイツのハンブルグに、その後英国に戻り、次はコリン・ヒックス(Colin Hicks)と共にイタリアに行きます。コリンはイギリスの人気ロック・ン・ローラーのトミー・スティール(Tommy Steele)の弟で歌手でした。ある資料ではバンド名はコリン・ヒックス&キャビン・ボーイズ(Colin Hicks & The Cabin Boys)となっています。(私の過去ブログ「サンレモの歌手たち 95 リッキー・ジャンコ、 オードリー 」のリッキー・ジャッコの項)
ヴィックは国から離れたくなかったので、ジョニーに交代となりました。ジョニーはジーン・ヴィンセントがアメリカで税務トラブルになり、ヨーロッパに一時「亡命」していた時のバックバンド“ザ・ブルー・キャップス(The Blue Caps)”に2年間在籍していた経験を買われました。これでロークスとなるメンバーが揃いました。
彼らはツアーの際、映画「ヨーロッパの夜(Europa di notte)」の中で“Giddyup a Ding Dong,”を歌い、ちょっとした成功感を味わいます。しかし事態は思ってもみない方向に進みだしました。
トリノのコンサートで主役コリン・ヒックスが急病で声が出なくなりました。しかし、ショーはちゅうしされず、彼らだけで演奏するように頼まれました。この窮地を救ったのがイタリアの古参ロック・ン・ローラー、リッキー・ジャンコ(Ricky Gianco)だったようです。ブルースとロック・ン・ロールのレパートリーを演奏し、コンサートはかなりの成功でした。
イタリアのマネージャーはバック・バンドの彼らをコリンから切離し、イタリアに留めました。彼らはバンド名も変えることにしました。ザ・ロークスの名前はジョニー・カールトンの発案のようです。
ローマのアンブラ・ヨヴィネッリ劇場に出演した時のことです。リタ・パヴォーネ(Rita Pavone)の育ての親でもあり、その後彼女と結婚した歌手でプロデューサーのテディー・レーノ(Teddy Reno)が彼らを見出し、パヴォーネのバック・バンドの仕事を与え、新生RCAイタリアーナの新人開発レーベルARCと契約させました。リバック・バンドの仕事をしながら機会を待っていました。
63年テディー・レーノのお陰で彼の主催する「アリッチャの名もなき者の音楽祭(FESTIVAL DEGLI SCONOSCIUTi DI ARICCIA)」で“Un'anima pura”を歌うことが出来ました。この曲はマリーノ・バレットJr.(Don Marino Barreto Jr.)がオリジナルの“愛の魂(Un'anima tra le mani)”のことです。(私の過去ブログ「サンレモの歌手たち 54 ロッコ・モンターナ、 ブルーナ・レッリ、ジャン・コステロ」の“愛の魂”をご参照)
デビュー当時の「サザン」のように、歌は独特の英語訛で若者に好評を得ます。64年漸くARCからデビューが出来ました。ビル・ヘイリーのカヴァー曲“シェイク・ラトル・アンド・ロール”でした。2枚目はアリッチャの音楽祭で歌った“愛の魂”で小ヒットになっています。
本格的なヒットが出るようになったのは65年で3枚目がジャッキー・デ・シャノンが作り英国のサーチャーズのヒット曲“ウォーク・イン・ザ・ルーム(When You Walk in the Room)”のイタリア語カヴァー“C'è una strana espressione nei tuoi occhi”が年間ランキング63位の大ヒットとなりました。
AN-4013 (1964年 ARC – RCA Italiana) “Shake rattle and roll(シェイク・ラトル・アンド・ロール)”/“Quando eri con me”
AN-4013
AN-4046


AN-4046 (1965年 ARC – RCA Italiana) “C'è una strana espressione nei tuoi occhi(ウォーク・イン・ザ・ルーム)”/“Ci vedremo domani(明日も愛して)”
66、67年は彼らの年となりました。同11位“冷たい世界(Che colpa abbiamo noi)”、97位“Grazie a te”で、“冷たい世界”は裏表逆転で国内盤がでました。と言うのも“泣いておくれ”が日本のGSテンプターズがカヴァーしたのです。
AN-4081 (1966年 ARC – RCA Italiana) 冷たい世界 (Che colpa abbiamo noi)/泣いておくれ (Piangi con me)
AN-4081
FS- 1029


FS- 1029 (1967年10月25日 PHILIPS - 日本ビクター) 忘れ得ぬ君 (WASURE-ENU KIMI)/今日を生きよう (LET'S LIVE FOR TODAY - PIANGI CON' ME)
66年の実績で67年サンレモ音楽祭に“君を失う時”で初出場、初入賞、年間ヒット32位の大ヒットになります。同33位に“Ricordo quando ero bambino”、“Cercate di abbracciare tutto il mondo come noi”が66位、88位“Eccola di nuovo”と絶好調です。
そんな彼らですがサンレモ音楽祭は恐ろしい所。連続出場の68年“バルトロメオの想い出(Le opere di Bartolomeo)”が参加曲どまり、年間ランク89位、もう1曲ランク・インした“Lascia l'ultimo ballo per me”も81位。
翌69年はRCA期待の新人ナーダ(Nada)と組んだ“なんて寒い (Ma che freddo fa)”は5位入賞を果たしました。しかしセールス的にはナーダの一人勝ち、69年年間ランクには入れず、70年ロークスは解散しました。
ロークスの国内盤
SS-1734 (1967年3月1日 VICTOR - 日本ビクター) 君を失う時 (BISOGNA SAPER PERDERE) ザ・ロックス (THE ROKES, (compl))/ルチオ・ダッラ (LUCIO DALLA (vm))
SS-1734
SS-1732


SS-1732 (19674月VICTOR - 日本ビクター) 泣いておくれ (PIANGI CON' ME)/冷たい世界 (CHE COLPA ABBIAMO NOI)
SS-1886 (1969年6月5日 RCA - 日本ビクター) なんて寒い (MA CHE FREDDO FA) ナーダ (NADA (vf))/ザ・ロークス (THE ROKES, (compl))
SS-1886
VFD-8951~5


VFD-8951~5 (2001年RCA - ビクター・ファミリー・クラブ) 5CD Boxイタリアン・ポップス・コレクション (ITALIAN POPS COLLECTION) 特販物
5-16. ラスト・ダンスは私に [伊] (LASCIA L'ULTIMO BALLO PER ME - SAVE THE LAST DANCE FOR ME [I])