HOTEI 40th Anniversary Double Fantasy Tour 

BLACK or WHITE Hometown GIGS

 

2021年10月23日、BLACKに行ってきました。

Gメッセはせっかくオープンしたのに群馬県の大規模ワクチン接種会場になっていた為、延期になっていたLIVE。

ようやくLIVE会場として日の目を見ることとなりました。

 

コロナ感染対策もしっかりされていて、客席同士も1つ置きに配置され、声援を上げることも禁止、その代わり皆んな拍手でコールアンドレスポンスの代わりとしていたので、LIVE

終盤には手のひらが痛いけれど、ようやくLIVEに参加できたことに目頭が熱くなりました。

このまま次のブースター接種が始まり、飲み薬や国内ワクチンが開発されて、あの頃は大変だったよねと飲み会をしたいものだ。

 

感染者数が群馬県も一桁になった今、ようやく少し光が見えてきたそんな状況です。

 

布袋さんとメンバー、LIVEスタッフに感謝。

 

 

 

 

 

 

 

今日はレインボーブリッジの日だそうです。

 

僕の友人が建設当時、三井建設で現場監督の一人でした。

 

正式名称:東京港連絡橋

1987年(昭和62年)着工

1993年(平成5年)竣工

同年、8月26日開通

 

設計当時は、豪華客船クイーン・エリザベス2の通過を考慮して橋桁高さ52mあるそうですが、羽田空港が近くにあり高さ規制があったため、余裕持った設計ができなかったそうです。完成後にクイーン・エリザベス2がくぐったことは一度もなかったそうです。

 

最近は豪華客船の大型化が進み、水面より高さ60m〜70mに達するものもあり、世界有数の大型客船はここをくぐれないそうです。もっとも、これらを想定して橋桁を高くしたら登っていくR部分の車道があと数回転余分に必要でしょうし、橋脚も伸びてコストが莫大に増えたでしょう。

その判断も設計においては大変だったろうと思います。

 

また、あれだけの構造物となると、現場監督の人数も僕の友人含め相当いるのでしょう。地図に載る仕事、素晴らしいと思います。

 

Wikiで検索すると、設計者は川崎重工業だそうです。

チームによる設計ということで、それこそ構造設計や設備設計、部材設計者はたくさんいるのだと思いますが、マスターデザイナーとして誰がデザインしたか個人名を出せるなら出した方が良いと思いますが。

 

日本は建築家やデザイナー、知識労働者に対する評価が低いと常々感じています(超有名人は別でしょうが)。職能としての建築家が未だ確立していない(と感じる)。ややもすると個人の好みで好き勝手に作られてしまうという見方をされる。新国立競技場設計者選定時のザハ・ハディドや選定委員の安藤先生に対するバッシングの時は見てられなかった。朝のワイドショーで建築について無知なコメンテーターが言いたい放題だったからな。

 

 

レインボーブリッジ、見たことある?

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↓映画の舞台で一番印象に残っているのはこれかな。

 

 

 
 

僕の音楽道とギター紹介

〜ゼマイティス編

 

僕が建築を進路としたのは中学生の時。同時に、大学に行ったらバンドを組みたいと思い、それには中学時代音楽の成績が2から3を彷徨っていた僕は、高校に入学して楽譜を覚えるために吹奏楽部に入部しました。

吹奏楽部では一通りパート練習を見せてもらったり吹かせて頂いたりした中で、クラリネットを吹いたら「君!素質あるね!」ということでクラリネットが担当になったのですが、その後一番当時人気がないパートだったため、無理やり担当させられたという感じがスタートでした。

パート毎に教室に集まって練習するのですが、自分のパートだけでは曲の全体像が掴めない中、全体練習で曲が徐々に仕上がってく中で自分の役割を理解して、仕上げていく楽しさ、コンテストなどで発表する時の緊張感、曲のキメの部分でバッチリあった時の恍惚感、演奏が終わった後の達成感などを高校時代の僕は経験しました。

 

その後、大学生となりバンドを組み(以前ブログに書きました)、親に卒業記念で買ってもらったヤマハのサックス(当時25万円位)が一人暮らしのアパートでは練習できず、近くの海の公園で練習もしましたが中古で売ってしまい(当時4分の1の値段にしかならなかった)、ギターを初めて購入しました。それが18才の時。

購入したギターはCHARVELのJACKSONヘッドのギター。

それを大学時代はバンドや曲作りで使っていました。

 

その後、社会人となり、日常の建築設計の仕事でクレーム対応などで心が折れそうになることがある中、特に大変な案件を解決した際に自分へのご褒美として購入したのがこのゼマイティスのギターです。新品で約60万円しました。

 

それがこの↓ギターです。

2013年購入でした。今から7年前。
 
工具入れは皮製
 
工具もオリジナル
 
ギターケース
他にも20万から30万円台のギブソンやフェンダー等を所有していますが、圧倒的に違うのは(僕が僕のゼマイティスを弾いての感想です。)、チューニングの安定度です。
他のギターはチューニングすると中央値で多少ブレるのですが、僕のゼマイティスは中央でピタッととまります。
また、ネックが細いのでとても弾きやすいです。
 
以下、ゼマイティスホームページからの抜粋であることをお断りいたしますが、本音でギター好きの人だったら1本は持っていると自慢のできる一生物の良いギターです。
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2015年 ゼマイティス60周年

1955年から始まったゼマイティスは2015年で60周年を迎えます。
この節目の年に我々はより多くのプレイヤーにゼマイティスのもつ、独創性、美しさ、所有することの喜びを感じてもらうべく新たにランナップを見直し、さらにグレードを増やしました。全てのグレードにおいて、ゼマイティスならではの個性的なコンセプトやサウンドを持たせ、コストや工程時間に惑わされることなく製作し、最上級の品質を誇ります。

 

↓これはあくまで一例です。

 

 

 

 

我々は、トニーが作り上げたゼマイティス・ギターとその魂を後世に残すという大きな使命を遂行するというギターメーカーとして最高の目標を得ることになりました。 長いギター製作の経験を持った我々クラフトマン達は、トニーから受け継いだオリジナルのテンプレートや図面、メモ、顧客との通信などが残された情報を収集し、トニーが製作した技術を学び、偉大なギタリスト達から世界最高のギターとして絶賛されたゼマイティス・ギターに少しでも近づこうとする壮大チャレンジであり挑戦でした。 さらに、トニーの製作したメタル・フロントのエングレイビング(彫金)を担当した、ダニー・オブライエンが我々のプロジェクトに共感し協力してくれることになり、彼が持つ芸術性と彫金技術によって、さらに価値のあるギターとして新生ゼマイティス・ギターは誕生しました。

 

 

繊細な彫金をボディトップのパネルに施したメタル・フロント、輝きに満ちたパール・フロント、精巧なインレイなど、トニー・ゼマイティスが作り出したギターは、どれも斬新な多くのアイディアに溢れ、最も注目を集めたギタービルダーである。それはまさにロックンロールの歴史に刻んだイギリスの栄光である。イギリスの多くのギターメーカーは小規模であり、世界的に注目されたギターメーカーは稀であった。しかし、トニー・ゼマイティスは類まれな才能とアイディアで多くのギタリストに注目されることとなる。

Jimi Hendrix – Paul McCartney – Marc Bolan – Ronnie Wood – Dave Gilmour – Rich Robinson – Eric Clapton – Donovan – Gilby Clarke – Keith Richards – Tetsu – Peter Green – George Harrison – Greg Lake – James Honeyman-Scott – Ronnie Lane – Mike Oldfield – Bob Dylan 

ギター製作は彼一人の手によって全て行われ、年に数本しか製作されない本当のカスタム・メイドである。また、彼は自分のギターを一度たりとも宣伝することはなかった。アンタナス・カシミア・ゼマイティス。通称“トニー”は、1935年にロンドンで生まれた。幼少のときから彼は物作りに興味を示し、飛行機の模型や自転車まで設計し、製作していた。成長したトニーは家具職人としての道を歩み始める。このことが、後にギター製作を行う上での木工技術、設計、装飾を実現するための礎となったことは言うまでもない。

 

 

Tony Zemaitis

1950年、彼自身ギターの演奏に興味を持ち始めたが、その当時ギターを手に入れることは非常に難しく、最初は友人のクラシックギターを借りて弾いていたが、やがて自分で製作することを思いたった。これこそ記念すべきゼマイティス・ギターの第一号の誕生である。さらに、彼は友人のためにもギター製作を開始し、材料代程度の安い価格で売り、その費用でまた次のギターを作るというプロセスを繰り返していた。まさにゼマイティス・ギターの黎明期である。彼のギター製作に対する深い興味とクリエイティブなアイディアが、その後ギター史を塗りかえようとは、この時誰も想像できなかった。

兵役を終えたトニーのギター製作への飽くなき探求はさらに深まることとなった。サウンドホールの形、スケールの違い、弦の構成など、プロトタイプ作りを通して経験と技術はさらに向上していくこととなった。また、彼はロンドンのブルース、フォークミュージックシーンにおいて、注目を浴びる存在となっていた。トニーのギターはこうした場所でファンの知ることとなり、ゼマイティス・ギターの評判も徐々に知名度を増してきた。当時ミュージックシーンで活躍していたデイヴィ・グラハム、ロング・ジョン・ボールドリィ、スペンサー・デイヴィスなどは、ゼマイティス・ギターの演奏性やサウンドに対して高い評価をしており、トニーに注文をするようになった。1965年にトニーは、ギター製作家として本格的に歩み始めることになる。

Tony Zemaitis

トニーの初期のギター製作は主にアコースティックギターであった。特に12弦ギターを得意としており、後にエリック・クラプトンのゼマイティス12弦ギター通称「イバン・ザ・テリブル」(後年、オークションで3000万円の価格がつき話題となった。)は有名である。その後60年代のミュージックシーンに対応してエレキギターの製作を始めることとなる。いくつかのプロトタイプはジョージ・ハリソンのコレクションとして現存している。それはトニーが製作したエレキギターの中でも有名なギターである。

トニーは、常に改良と新たなアイディアにチャレンジしていた。そのひとつがメタル・フロント・ギターである。当初彼はエレキギターのハムノイズを減らすためにシールド性の高いメタル・フロントを考案した。メタル・フロントの第一号はグラウンドホッグのトニー・マクフィーのために製作され、そのローノイズの効果は実証された。そしてそれは単にノイズ対策ばかりでなく、1本1本に施された美しい彫金のデザインも手伝って、当時のロックアーティスト達の話題となり、ゼマイティス・ギターのトレードマークとなっていくのである。

 

1980年代に入るとトニー・ゼマイティスの製作したギターの品質、スタイル、演奏性、サウンドは、すでに世界最高峰のギターとして揺ぎ無いものとなっていた。ギター・コレクター達は、ヴィンテージのゼマイティスを探しはじめ、その価格は上昇していった。しかし、トニーのギター製作に対する姿勢はなんら変わることはなく、彼一人でそれまでと同じように年数本のギター製作を続けていた。しかし、彼は有名なミュージシャンや一部のコレクターばかりでなく、純粋にギターを愛するプレーヤーにも手が届くスチューデント・モデルも製作していた。

Tony Zemaitis

どんなレベルの顧客であろうと彼の作るギターは演奏性に優れ、素晴らしいサウンドを約束していた。彼は常に最高の木材と3ピース・ネック、耐久性に優れたセットネックの構造と最高のサウンドにこだわりながらギター製作を続けていた。

それは、品質、クラフトマンシップ、アイディアそして世界中のゼマイティスファンからの暖かい声援から生まれたものである。

2002年8月17日 トニー・ゼマイティス逝く。

 

 

↓2020年最新モデル

 

METAL FRONT

NAMM2020 MODEL

MFG22 BK Gloss Black

Open Price

ゼマイティスより、メタル・フロント・モデルMFG22 BKが登場しました。
MFG22 BKは、ボディー前面が彫金の装飾が入ったアルミ合金のプレートで覆われたゼマイティスならではのデザイン性の高いモデルです。
ボディーとネックは共に上質なアフリカン・マホガニー、バインディング付きで、フィンガーボードはエボニーを採用しています。635mmのスケールを採用し、多くの方に好まれるミディアム・ジャンボ・フレットで、22フレット仕様になっています。
ピックアップは、ゼマイティス・オリジナルのドラゴン・クラシック・ハムバッカーを2基搭載し、各ピックアップ・ヴォリューム・コントロール、各ピックアップ・トーン・コントロール、3ウェイ・ピックアップ・セレクター・スイッチを備えています。
内部の配線材もこだわり、最も優れた音質になるものを選定して使用しています。
また、ヴォリュームを絞った際にもフル・ヴォリュームと変わらないトーンを実現するトレブル・ブリード・サーキットも導入しています。
チューナーは、信頼性の高いゴトー製を使用し、チューニングの安定性を確保しています。
ピックアップ・リングは従来のフラットな形状からアップデートし、弦の角度にあわせてアングルを付けています。
また、角にアールを付けることで、プレイ・スタイルによっては起こっていた弦の引っ掛かりを解消する形状になっている点もプレイヤー視点でのデザインとなっています。

 

 

 

 

 
 

BOØWYのこと

 

1987年7月31日と8月7日の2回だけ、BOØWYが当時確かリリースした全曲をLIVEで演奏するということで4時間にも及ぶLIVEが決行されることになった。7月31日は神戸ワールド記念ホール、8月7日は横浜文化体育館。

 

当時、僕は横浜の大学1年生。大学に入学し、軽音楽サークルの新歓LIVEで前後の席に偶然座った奴らとバンドを組み、軽音楽サークルには入らず、僕が曲を作ってその場にいたボーカルの奴が詩を書くということで11月に初めてLIVEをやることになった。オリジナルはまだ形になっていなかったので、コピーをやることになったが、それが当時大人気だったBOØWY。僕の故郷のヒーローです。(今僕は東京にいますが)

 

で、BOØWYのLIVEがその年の8月7日。当然チケットは取れず、僕はなんとかならないか真剣に悩んだ。

 

どうしたと思います?

 

イベントスタッフのバイトを見つけ、バンドのベースの奴と応募。アイドルのコンサートスタッフなどとともに、ありました、CASE OF BOØWYのコンサートスタッフ!

 

当然それを志願し、ベースの奴と2人、前日の仕込みから入り、ステージの組み立て、照明搬入、機材運びなどやりました。でLIVE当日、会場に入れる人のグループと会場外での警備スタッフのグループで別れることになりましたが、「前日から手伝ってくれた人は中に入っていいぞ」ということになり、ベースの奴と静かにガッツポーズ。今思えばものすごい行動力だと我ながら感心してしまう。

 

BOØWYメンバーのリハーサル風景を見た記憶が無いので、そこは今となっては定かではありませんが、最前列の前でロープを持ってしゃがんで警備する係。LIVEが始まる緊張感の中、僕がギターをやっていたので布袋の前、ベースの奴が松井の前に陣取り(何故そんな配置ができたのか今もって謎)、LIVE開演。イメージダウンが始まり後ろに布袋が出てきた!デカイ!

今となってはカミングアウトしますが、そのベースの友達とこれが見られれば(というか同じ空間で同じ時間が共有できるなら)バイトは首になってもいい。と思っていたので最前列のさらに前で僕らはチラチラステージを見て大興奮していた。それを見たコンサートスタッフの方が何度もケツを蹴りに来るのだけどお構い無し。それでもチラチラ程度だったので許してくれたのかな。そのまま続けることができた。

 

LIVEの途中で休憩時間があり、ベースの奴と「俺、布袋の前だからさ、松井の方しか見えないや。」ベースの奴も「俺も松井の前だから布袋しか見えないや。」と当たり前のことで大盛り上がり、アホだよね、そりゃそうだ。

で、この休憩時間に場所をチェンジしてそのチラ見でLIVE終了。

 

会場の片付け中、ステージに上がりました。布袋と松井の機材に興味深々でしたが、ステージで拾った松井の黒いピックが無茶苦茶ビリビリに切れていました。僕は落ちていた布袋のまだ使われていないピックを拾ってきました。

 

この後、BOØWYは解散してしまいます。

 

1988年4月4日5日のLAST GIGS 東京ドームは、電話ではチケットが取れず、東京ドームのチケット売り場での販売を前日から並び(確か冬でした。中にはコタツを持ってきた強者もいました。)、翌日無事購入することができました。当日確か、バクチクみたいに髪の毛を逆だてていた黒装束のバンドの人たちがいたけど彼らはどうしたかな?

 

5日の東京ドームは外野席だったこともあり、ステージは遥か彼方。会場がデカくて当時はまだ東京ドームもできたばかりだったので、映像と音が数秒ずれることで少し違和感のあるものでしたが、地元のヒーローが解散する場面には立ち会うことができました。

 

今コロナでLIVEもなかなか演れない状況が続いています。音楽がユーチューブなどで手軽に楽しめる時代。配信で購入ができ、CDが売れない時代ですが、僕は応援しているアーティストの作品は今でもCDで買いたい。何故この曲順なのかを考えたり、ブックレットで聞き取れない歌詞を見たりしたいからです。1曲ずつだと、どこか継ぎ接ぎでその作品の全体像が掴めないからです。

 

僕が初めてレコードを親に買ってもらったのが「泳げ、たい焼きくん」(年がバレる)

 

初めてCDを買って聞いたのがBOØWYのJUST A HERO。

1曲目のベースの「ダーン」ときた瞬間のワクワクが今も鮮明に蘇ってくる。これが配信で1曲づづの購入だったら1枚のアルバムの世界観もよく伝わらないのだろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランス旅行で僕が行った建築の解説をシリーズで行います。写真は全て2002年当時に僕自身が撮影したものです。現在は変わっているところがあると思いますが、ご容赦ください。

 

グランダルシュ 

正式名称:la Grande Arche de la Fraternite

(友愛の大アーチ)

設計者:ヨハン・オットー・フォン・スプレッケルセン

竣工年:1989年

見所:パリ近郊のラ・デファンスにある超高層ビル。パリの歴史軸上にある。日本では新凱旋門とも称される。

上記歴史軸とは、カルーゼル凱旋門とエトワール凱旋門の2つの凱旋門が形成する直線(パリの歴史軸)の延長線上に存在する。日本では「パリの第3の凱旋門」または「新凱旋門」と呼ばれる。

この辺りの解説はWikiに詳しく載っているのでここであまり書いても意味が無いですよね。ブログではどちらかというと個人の感想などの方がいいのかな。

 

 

私はこれほど長い都市軸は他では見たことがない。屋上からその都市軸を中心に景観を楽しめます。

 

側面と内部は全面ガラス張りになっています。

 

 

大階段

 

 

ちょっとお邪魔してしまいました。

 

屋上はこんな感じです。

 

光がいい感じでした。

 

軸線の向こうにエトワール凱旋門(日本人がいういわゆる凱旋門はエトワール凱旋門のこと)

 

 

デザインは異なりますが、2本のツインタワーが上部で連結されているところは日本の大阪にある梅田スカイビル(設計者:原広司+アトリエ・ファイ建築研究所+竹中工務店)に似ています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フランス旅行で僕が行った建築の解説をシリーズで行います。写真は全て2002年当時に僕自身が撮影したものです。現在は変わっているところがあると思いますが、ご容赦ください。

 

ポンピドゥー・センター 〜パリ〜

Centre Pompidou

設計者:レンゾ・ピアノ、リチャード・ロジャース

竣工年:1977年

立地:パリで最も活気のあるマレ地区

見所:近現代美術作品の展示

ヨーロッパ最大の近現代美術コレクションが揃っている。

(パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、マルク・シャガール、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、アンディ・ウォーホール等)

 

ノートル・ダムから徒歩10分、パリの中心に位置する建物であり、最も美しいパリの眺めを望めるスポットの一つ。

エッフェル塔、モンマルトル、ガルニエ宮、ノートルダム大聖堂など美しいパリが一望できる。

 

 

 

↓詳しくはココ

www.centrepompidou.fr/fr/infos/jpn/node _84919

 

 

 

偶然、建築家ジャン・ヌーベル展が開催されていた。

 

 

 

配管ダクトは本来隠すものですが、1977年時点ですでにそれをデザインの一部とした斬新さ。ましてやこの歴史と伝統のパリの街で。

 

チューブ状の通路

 

外観の特徴でもあるエスカレーター

街の景色が上下移動により変化して見えるのが楽しい。

コルビュジェの建築にも通じるところ。

 

サイン計画

 

建築をやっているとこういうところを撮影してしまいます。

 

パリを一望できます。左に見えるのがエッフェル塔

 

空港みたいに広いホール

 

2002年1月7日、偶然ジャン・ヌーベル展をやっていました。この当時ですでにCG等多用したハイテク建築展という感じでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

第7日目

1月8日(写真は全て私自身の撮影)

 

10:00に宿泊したパリのホテルを後にして、バスで空港に向かい、空路にて帰国しました。機中泊で翌日の1月9日9時10分成田に到着して解散となりました。

建築ツアーを終えて思うことは、何せ言葉の通じない海外視察ということもあり、旅行するあなたの状況に応じて、以下の2つのパターンが考えられます。

 

❶効率よく複数の建築を見て回りたい方。→私が参加した今回の建築旅行ツアーがおすすめ。

 

(メリット)

・スケジュールをあまり気にすることなく、旅行社の添乗員さんに、ただ付いていけば良い。旅の記録のまとめや車窓を安心して楽しめる。

・交通機関の時刻表などを調べる必要がなく、違う駅に着いてしまったり、行ってみたら休みだったなどということがない。

(デメリット)

・自分の都合で動けない。例えば今回の旅では、ユニテ・ダビタシオンをもっとじっくり見て、ラ・トゥーレット修道院は時間短縮するなど、その様な現地に行ってみての調整が効かない。その分、多くを効率よく回れるわけですが。

 

❷建築学科の学生さんなどで時間をある程度まとまって取れる方は、ツアーではなく自由にスケジューリングするのがおすすめ。

(メリット)

・みたい場所に時間の多くをかけられる。

・じっくりみてスケッチなどができる。ツアーだと、スケッチなどしていたら置いていかれてしまう。

・「スケッチをすること=その分対象物をよく見ること」なので、建築のディテールなど自分の身になる。

・駅からの道中をわざと歩ってみたり、現地の方とのコミュニケーションをとったり、電車で迷ってしまったり、それがまた良かったりする。

(デメリット)

・効率は良くない(何を持って効率というのか、そもそも効率を求めるのかは人それぞれですが。)

・旅行期間も長くなりそれなりにお金もかかる。

 

社会人になると色々と制約も増えるので、建築学生であれば❷がおすすめですが、現在はコロナで海外にも出られないので今の大学生がかわいそうです。私もそうでしたが建築を志す人にとっては、建築を見るということは栄養をもらうことと同じなので欠かせないものです。今でしたら国内にも素晴らしい建築がたくさんあるので、それらをみて自国の文化的な素養を養って(意外に海外に出た人で日本の文化を語れない人が多いと聞く)、コロナが落ち着いてから海外に飛び出してはどうでしょうか。

 

ちなみに私が今回参加したのは、株式会社トラベルプラン。

添乗員さんが男性でしたが何回も来ているだけあって建築にも詳しく良い旅でした。

 

カップマルタンの休暇小屋。コルビュジェが見ていた景色。

 

 

建築と音楽全然関係ありませんが、
 
肉屋さんのコロッケが久しぶりに食べたくなり、肉屋さんにいきました。
 
スーパーじゃなく、こういう肉屋さんのコロッケが美味しいのです。
 
 
地元の肉屋さん

 

 

 

 

 

 

 

肉屋さんのショーケースに猫がいました。
 

 

 

招き猫
 

 

 

ぬいぐるみかと思ったら生きてました。
 
 
続きまして
 

 

 

 

ウチの猫。警戒心無し。  

 

エアコンの効いたリビングにて。
 
 
↓美味しいリスト。
                 
 

第6日目

1月7日(写真は全て私自身の撮影)

 

この日は、パリにて終日自由視察でした。

行きたい人はバスで案内ということになり、それに参加して以下の建物を見て回りました。(前日のサヴォワ邸の後に巡ったものも含まれます。何せ2002年の旅なので)

 

*オルセー美術館

 

*フランス国立図書館

 

*ノートルダム大聖堂

 

*エッフェル塔

 

*新凱旋門

 

*ラ・ロッシュ・ジャンヌレ邸(設計:ル・コルビュジェ)

*スイス学生会館(設計:ル・コルビュジェ)

 

 

*救世軍難民院(設計:ル・コルビュジェ)

 

写真無し。バスの中から見ました。

*アラブ世界研究所(ジャン・ヌーベル)

 

*ポンピドゥー・センター(設計:リチャード・ロジャース、レンゾ・ピアノ)

たまたまジャン・ヌーベル展が開催されてましたので、チケットを購入して、さくっと見て回りました。(フランス語読めないし)

 

*ルーブル美術館

 

*ルーブル・ピラミッド(ガラスのピラミッド)

パリのルーブル美術館の中庭であるナポレオン広場に設置されています。ルーブル美術館のメイン・エントランスとして使用されています。(設計:イオ・ミン・ペイ)

*エトワール凱旋門

 

 

*シャンゼリゼ通り

 

*シャンゼリゼ通りにある異様に高速回転の観覧車

思わず笑ってしまうほど高速回転の観覧車。試しに乗ってみた。

 

 

 

 

 

 

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第5日目

1月6日(写真は全て私自身の撮影)

 

ベルフォールから列車にてパリのリヨン駅へ向かいます。

9:15発の予定でしたが、時刻になっても発車せず、確か1時間位待たされた記憶があります。さすが海外だと思いました。今思えば写真の様に霧が深かったのでその影響かもしれません。

 

国鉄が停車するこのGare de Belfort駅(アールデコ調の駅舎は1934年竣工)、私がこの旅をしたのは2002年。現在の様なTGVではなかったな。

 

Gare de Belfort駅 2002年当時

 

初日のニースから5日目のベルフォールまでお世話になったバス。

 

この当時、やけに街中この看板だらけだったので撮影しました。

 

リヨン駅に着いてからまたバスでポワッシーへ移動。この通りはサヴォワ邸がある公園の入り口。

 

サヴォワ邸へ向かう前に建つ看守小屋。

 

ここで作品解説

 

作品名:サヴォワ邸(1929−31)

コルビュジェ45歳のときの作品。

歴史ある石の建築が多いヨーロッパで、さぞかし当時は驚かれたのだろう。

 

元は保険業者の一家のために建てられた週末住宅。

なんの制約もない広大な敷地に「空中に浮かぶ箱」の様な家を完成させた。

第二次世界大戦中は粗略に扱われ(1940年6月ナチス・ドイツがパリに侵攻した際は、サヴォワ夫妻はこの家を離れ、戦争中は飼料の倉庫として使われたそうである。)、その20年後には高校を作るために取り壊されそうになるが、世界的な反対運動が起こり、コルビュジェの死の前年にあたる1964年に当時の文化相アンドレ・マルローによって歴史的記念建造物に認定され、保存されることになったから、今こうして後世の私達が見ることができる。

 

(ドミノシステム)

1914年の段階ですでにコルビュジェは「ドミノシステム」と呼ばれる、規格化された部品を使って住宅の大量生産を目的とした手法を発表している。(「建築をめざして」ル・コルビュジェ著)

 

現代の(特に日本の)、高度にシステム化された工業化住宅を見たら彼は何と評価するだろうか。

 

(近代建築の五原則)

・ピロティ

・ルーフガーデン

・自由なプラン

・水平連続窓

・自由なファサード

この五原則を踏まえた上で現代建築を見て回るのも面白い。

 

 

 

宇宙船の様な外観。

 

 

 

 

 

 

近代建築の五原則。ピロティ。

車寄せからエントランスへ

 

階段室

水平連続窓

居間からテラスを見る

キッチン

食器棚

キッチン流しと大きな窓

鮮やかな青で塗られた壁面。窓は端に寄せると壁面の光が当たり美しい。

ホール

スロープ。

2階から階段見下ろし

階段室からスロープ「建築的散策路(プロムナード)」と言われる視点の高さを連続的に移動させる装置を中央に持ち込むことによって各階の空間が繋がってゆく。

テラスから屋上へと続くスロープ

 

この視察の後、パリで1泊します。

パンは飽きたのでパリのラーメン屋さんを探してラーメンを食べました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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