加藤典洋『テクストから遠く離れて』 | 文学どうでしょう

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テクストから遠く離れて/加藤 典洋

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加藤典洋『テクストから遠く離れて』(講談社)を読みました。

もちろんぼくは直接は知りませんが、ニュー・アカデミズムという1つの流れがありました。日本における1980年頃の思想的なブームのことです。

浅田彰が代表的な存在になると思いますが、その流れの元になっているのがフランスが中心になったポストモダニズムです。

ポストモダニズムを代表的する人物を『テクストから遠く離れて』に引き寄せてあげれば、ジャック・デリダとミシェル・フーコーであり、ポストモダニズムに影響を与えた存在としてロラン・バルトとジャック・ラカンがいます。

ニュー・アカデミズムに関しては、加藤典洋の『僕が批評家になったわけ』辺りで少し触れられていましたので、興味のある方は読んでみてください。

僕が批評家になったわけ (ことばのために)/加藤 典洋

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ポストモダニズムに関しては、東 浩紀『動物化するポストモダン』が読みやすくていいと思います。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)/東 浩紀

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ニュー・アカデミズムにせよ、ポストモダニズムにせよ、また人物名にせよ、全然聞き慣れない言葉で難しいよ~という方が大半だろうと思います。それが普通なので大丈夫です。

実際、ぼくも名前は知っていますが、ほとんど読んでません。ロラン・バルトは多少読んでますけども、ミシェル・フーコーやジャック・デリダになると完全にお手上げです。

門前の小僧習わぬ経を読むというやつで、知らぬ間に聞き覚えた言葉を偉そうに書いているだけなんですよ。全然大したことはないです。

ただ、こうした思想的なもので文学を読み解こうとする流れがあるので、それはちょっと気になりませんか? 一体どういう方法なのか。

ニュー・アカデミズムが扱っていたこと、またニュー・アカデミズムの元になったポストモダニズムがやろうとしたことを文学理論的に強引にまとめると、物事を記号的に読み取る、あるいは構造として読み取るということになります。

中でも重要になってくるのが、ソシュールの言語学で、テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か』の記事で少し触れているので、参考にしてみてください。あとはその内『一般言語学講義』を扱う予定ではいます。

分かりづらいと思うので、もうちょっと噛み砕いて説明しますね。ポストモダニズム以前に、小説がどういう風に読まれてきたかと言うと、「作者のメッセージ」として読まれてきたわけです。

登場人物はすべて作者の思い通りに動いているわけで、文芸批評としては、作者が言いたいことを読み取り、解釈することが主流になります。

ポストモダニズムは、その「作者」と「作品」の繋がりにメスを入れたんです。「作品」を「作者」と切り離して読むことができるのではないかと。それが「テクスト論」です。書かれた「作品」を「作品」として読むんですね。

これは非常に面白い読み方で、作者の意思に左右されずに小説を分析し、批評できるわけです。

ここまでは大丈夫でしょうか。「作者」と「作品」を結びつけた読み方を、批判する形で生まれたのが「テクスト論」です。「作品」を「作品」としてのみ扱う読み方。これがポストモダン批評としての読み方になります。ここがスタートラインです。

『テクストから遠く離れて』がどういう本かというと、この「テクスト論」を批判して、新たな批評理論を確立しようと試みた本です。

「テクスト論」を否定して、「作者」と「作品」を再び結びつけようとしているのではなく、また新たな地平を切り開こうとしています。

「テクスト論」を批判して乗り越えるために、「テクスト論」の説明から始めてくれていますから、文学理論に興味のある方はかなり勉強になると思います。読みやすく、分かりやすい本です。難解さはさほどありません。

何冊か事前に読んでおかなければならない小説があって、それだけちょっと大変かもしれませんが、興味を持った方は準備を整えて、ぜひ読んでみてください。

「テクスト論」に関しては、こちらの記事でも少し触れているので参考にしてみてください。こちら→エクリチュール・テクスト

さてさて、この辺りから本の内容に入っていきます。

全部で3章あります。「Ⅰ.「作者の死」と『取り替え子』」「Ⅱ.『海辺のカフカ』と「換喩的な世界」」「Ⅲ.『仮面の告白』と「実定性としての作者」」の3章。

「Ⅰ.「作者の死」と『取り替え子』」では、ロラン・バルトの「テクスト論」を中心に、「テクスト論」のメリット、デメリットがこんな風に書かれています。

 まず、旧来の作者還元主義的な文学批評の考え方が間違っているのは、そこでの「作者ー作品」の連関が、書く行為の本来持つ不透明性を無視し、直接的に、透明に、また、読む行為の創造性に目を向けることなく、その言表行為の外部で、実体的に、考えられていたからだった。テクスト論は、これを否定する。それはよい。しかし、テクスト論は、旧来の考え方をナイーブに、直接的、かつ内部実体的に否定してしまう。それは、作品をどのような意味でも「作者」との連関でとらえることを、自ら禁じる。どんな場合にも、「作者」との連関に言及し、そこから読みを説明することは誤りだとするテクスト論の教条主義が、ここから生まれてくる。(50ページ)


「書く」という行為には、作者ですら統御できないなにかがあり、また「読む」という行為にもなんらかの意味があるとするのが「テクスト論」のいい部分ではあるけれど、いつでもどんな時でも「作者」と結びつけないというのは、どうなんだろうというわけです。

そこで加藤典洋が提示しているのが、「作者の像」を読むという方法です。「作者の像」は「作者」と同じようで違っていて、テクストだけを読んで浮かび上がるものです。

この「作者の像」を読みに加えることによって、「テクスト論」ではできなかった、「作品Aはある作品Bよりも優れている」(74ページ)という体感的な読みを可能にします。

具体的な説明には、大江健三郎の『取り替え子』が使われていますので、読んでおいた方がよいです。

「Ⅱ.『海辺のカフカ』と「換喩的な世界」」は、まずソシュールの「形式化」の整理から始まります。ここは結構面白いです。

「形式化」というのは、まあ言語を記号や構造で分析するという感じでとらえておいてください。

そこに関連して、「すべてのクレタ人は嘘つきだと一人のクレタ人がいった」(79ページ)というエピメニデスのパラドックスを竹田青嗣の『言語的思考へーー脱構築と現象学』の論を下敷きにして解き明かしています。

簡単に言えば、「現実言語」と「一般言語表象」は異なるということです。つまり、誰かによって語られる言葉というのは、「言語コンテクスト」といって、語られる状況というのがあるというわけです。

カップル同士がいちゃついていて、女の子が彼氏に「も~、バカァ」と笑いながら言ったとします。これは語られる状況である「言語コンテクスト」を無視して、「一般言語表象」として読めば、彼氏を罵倒する言葉なわけですが、「現実言語」としては違いますよね。

つまり、「好き」とか「嫌い」とか言葉が意味しているものと、状況として発せられる言葉が意味しているものは異なるわけです。

エピメニデスのパラドックスは、「意味の決定不可能性」がある、つまり語られている状況がないからこそパラドックスに陥っているのだと、そういうわけです。

そこから、加藤典洋は、「現実言語」と「一般言語表象」の二分法ではなく、「虚構言語」というものを新たに提示しています。

「読者」は自然と「作者の像」から意味を受け取っていて、そこに「虚構言語」が成立しているというわけです。

ここで面白いのが、言語というのは「ない」ものを表現できるということ。「リンゴがない」とは書けますよね。ところが「リンゴがない」というのをイラストでは描けないんです。

「リンゴがない」ことをイラストで描くと、「なにもない」絵になってしまう。「ない」ものを表現できることに、言語の特徴があります。

「ないこと」が存在しうる「虚構言語」が文学作品には成立しているんです。こんな風に書かれています。

 作者は、文学作品にあっては、「書かない」ことによっても彼の思いを作品に”書き込む”。また、登場人物に語らせないことによっても作品にその登場人物の思いを”語らせる”。しかし、なぜ読み手が、その書かれていない言葉、語られていないコトバを、読みとることができるのかと言えば、その読解に、作者ー作品ー読者の言語連関が生きており、ここでも、作品読解が、「作者の像」をともなう信憑の形で、成立しているからである。(139ページ)


「作者の像」を想定し、「虚構言語」で意味を理解しつつ、読者は小説を読んでいくことになります。ここである種の小説は換喩的な読み方を必要とするということになります。

ジャック・ラカンの換喩(メトニミー)という概念を提示して解説がされているんですが、換喩の説明はやや分かりづらく(正確に言うと、ぼくの思っていたメトニミーと若干違うということです)、精神分析の技法と小説の読み方とを重ね合わせているわけですが、それも結構理解しづらいです。

ジャック・ラカンの精神分析における換喩はよいとして、文学作品の文章のどれが換喩的であって、どれが換喩的でないのか、そこの部分はわりとざっくりというか、抽象的に扱われている気がします。

それでも一応まとめてみるとですね、村上春樹の小説のように、直接的になにが書かれているか分からないような小説があります。それは換喩的な小説であって、書かれていない部分を読者は「虚構言語」を理解しつつ読み取ります。

その読み取り方に正しいとか間違ったものというのはなくて、すべては想像にすぎないけれど、それでいいんだということになります。そこに文学としての面白さがあると。

具体的な説明には、村上春樹の『海辺のカフカ』が使われているので、読んでおいた方がよいです。

「Ⅲ.『仮面の告白』と「実定性としての作者」」は、ミシェル・フーコーが示した〈作者の死〉を乗り越える形で、三島由紀夫の『仮面の告白』を読み解いています。

ミシェル・フーコーが言う〈作者の死〉については、こんな風にまとめられています。

もし、シェイクスピアが、その名でこれまで発表された全作品を書いたのではなく、それを書いたのは、別人だと判明した場合ーー一時シェイクスピア=ベーコン説があったがそのような場合を念頭においてもらいたいーー、シェイクスピアという作者名の指示内容は同じだろうか。その場合は、先と同じ人物であるところのシェイクスピアが、実は『ハムレット』も『リア王』も『ベニスの商人』も書かなかったとはならず、『ハムレット』も『リア王』も『ベニスの商人』も書かなかったのであれば、このシェイクスピアという名前でわれわれに知られていた人物は、シェイクスピアの作品の作者ではなかった、つまり「シェイクスピア」ではなかった、となる。(204ページ)


これはとても面白くて、ぼくらの知っている「シェイクスピア」は、本当に生きていた実在のシェイクスピアかどうかはどうでもいいということを示しています。『源氏物語』の作者は「紫式部」であって、実在した紫式部かどうかは問題ではないんです。

このフーコーの〈作者の死〉に対して、三島由紀夫の『仮面の告白』は、それでは読み取れないものがあるんだ、ということになります。ここはもう詳しく書かないので、興味のある方は本編で読んでみてください。

具体的な説明には、三島由紀夫の『仮面の告白』が使われているので、読んでおいた方がよいです。

以上、3章からなる本です。作中では他の作品の言及もあるので、読んでおいたほうがいいものをあげておきます。

・阿部和重『ニッポニアニッポン』
・高橋源一郎『日本文学盛衰史』
・カミュ『異邦人
・アガサ・クリスティー『アクロイド殺し
・水村美苗『続明暗』
・ルネ・クレマン監督『太陽がいっぱい』

特に『アクロイド殺し』と『太陽がいっぱい』は思いっきりネタバレしてます。

基本的にはとても面白い本です。文学理論に詳しくない人でも、ゼロから読んでいけます。それぞれ取り上げられている小説を読んでおくことが必須となりますが、それさえクリアしていれば、わりと楽しく読めて、勉強になります。興味を持った方はぜひ読んでみてください。

ぼくが思っていることを少し書いて終わります。

ロラン・バルト、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコーによる〈作者の死〉をまた違った観点でとらえようとしているのがこの『テクストから遠く離れて』なわけで、それはよく分かります。

でもぼくは思うんですが、ぼくらにとっては、とっくの昔に「作者」って死んでしまってませんか?

ぼくらっていうのはすごく抽象的な言い方で申し訳ないんですが、ある世代からはもうそういう感覚だろうと思います。

ぼくは志賀直哉の「城の崎にて」を国語の教科書で習った時に、驚いたのを覚えています。なにに驚いたかって、「作者」が小説の中の主人公と同じ経験をしているということに対してです。

ぼくにとって小説というのは純然たるフィクションであり、現実を写したリアリズムのものではなかったことが、その驚きから分かります。

村上春樹の描く〈僕〉を村上春樹のことだと思う人はもういないだろうと思います。作者の経験なり、考えなりが含まれているにせよ、フィクションはフィクションです。

隣を見ればマンガがあり、また映画があり、ゲームがあるわけです。フィクションがフィクションとしてすでに成立している世界。

現在の小説が立脚点にしているのは、現実の「作者」ではなくて、フィクションとしてのキャラクターであり、フィクションとしての世界です。

マンガ、映画、ゲーム、そして小説というジャンルが違うものを同じように語ることができるのか、それとも違ったものとして別々に語らなければならないのか、この辺りが難しいところです。

少なくとも、夏目漱石や芥川龍之介を伝記的に読み解き、また「作者」の精神分析が「作品」の分析になっていたのと同じようなスタンスで、現代の小説家を語ることはもうできないだろうと思います。

それだけ「作者」と「作品」はある意味においては乖離しているんです。つまり〈作者の死〉をどうこう議論する前に、もうそのこと自体がぼくらにとっては問題ですらないのではと。

サブカルチャーというのは、基本的には、批評的言説を必要としないものなのではないかと思います。つまり、マンガ、映画、ゲームというのは、読めば分かる、観れば分かる、プレイすれば分かる、ものなわけです。

誰も解釈に不安がったりはしません。もちろん小説も読めば分かる、になりつつあるわけで、批評的言説を必要とするものが純文学とされるのでしょうけれど、それも求められなくなりつつあります。

批評的言説が有効に機能するものだけを、文学と限定して読んでいくべきなのか、それともサブカルチャーにまで通用する新しい批評理論を構築していくべきなのかは、時代の流れが決めることなのかもしれません。

読めば分かる、ではなくて、読んでも分からないなにかがある時、そのなにかを埋めるのが研究であり批評です。研究は、作者の伝記的事項などから実証的(事実を積み上げていく感じです)に埋めていきます。

そして批評のスタンスが知りたい時、とても勉強になるのがこの『テクストから遠く離れて』です。興味がある方はぜひ読んでみてください。

そして出来ればロラン・バルト、ジャック・デリダ、ミシェル・フーコー辺りを実際に読んでみるとよいと思いますよ。難しいですけどね。