志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』 | 文学どうでしょう

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小僧の神様・城の崎にて (新潮文庫)/志賀 直哉

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志賀直哉『小僧の神様・城の崎にて』(新潮文庫)を読みました。

日本文学の作品を読んでいると、時に文学史と重ね合わさなければ、面白さが分からない作品があります。

「なんだかぼくには面白さがよく分からないけど、有名な作品ということは、当時としては斬新ななにかがあったんだろうな」と、その作品が発表された当時のことを考えた上で、ある意味、無理矢理面白さを見つける感じです。

自然主義や私小説の作品が特にそうですし、夏目漱石や森鷗外の作品でも、現在の小説とは少し違った意識を持って読まなければならない感じがありますよね。襟を正すというか、ちょっと意識を集中させるというか。

ところが志賀直哉の短編というのは、現在の小説を読むように普通に読んで、普通に面白いのではないかと思うんですね。

恋人の手料理を食べて「普通においしい」と言ったら、「普通ってなんなの」と怒られるそうですが、文豪に対して、「普通に面白い」というのは、時代を越えた面白さがあるということですから、最大の褒め言葉になるのではないかと思います。

この短編集には、作られた物語の感じの短編と、志賀直哉の実生活を反映させたような短編の2種類が収録されています。私小説的なものも個人的には好きですが、作られた物語の方の方がより面白いかもしれません。

特に「小僧の神様」「赤西蠣太」は非常にいいですね。短編集の収録順とは異なりますが、この2作品を先に紹介したいと思います。

「小僧の神様」

「仙吉は神田のある秤屋の店に奉公している」(132ページ)という書き出しで始まります。お店の番頭さんたちがお寿司の話をしているんですね。仙吉はそれを聞いて、お寿司を食べたくて仕方ないんですが、なにしろ高いので、まだなかなか行けるような身分ではありません。

物語は2つの視点から描かれます。もう1つは若い貴族院議員のAの視点。Aは議員仲間から屋台のうまい寿司屋を聞いたので、行ってみたんです。何人かお客さんが立ってるので、ちょっと躊躇して人の後ろに立っていると、13、4歳の小僧がそわそわした感じでやって来ます。

小僧は寿司を食べようとするんですが、店主に「一つ六銭だよ」(136ページ)と言われて寿司を台の上に戻して帰っていきます。お金が足りなかったんですね。Aは寿司屋を紹介してくれた議員仲間に「何だか可哀想だった。どうかしてやりたいような気がしたよ」(137ページ)と言います。

ある時、Aが自分の幼稚園の子供のための体重計を買いに行くと、そこでは仙吉が働いていました。「仙吉はAを知らなかった。然しAの方は仙吉を認めた」(138ページ)んです。そう、寿司屋で会った小僧は仙吉だったんですね。Aは仙吉に寿司を食べさせてやりたいと思い・・・。

とまあそんなお話です。Aは堂々とご馳走するようなタイプではないんです。なので、さりげなく食べさせてあげたいと思うわけですが、そこにユーモアが生まれてきます。人情話というか、今読んでも心があったかくなる作品で、しかもあったかくなるだけではなく、どこか突き抜けた面白さがあります。

「赤西蠣太」

片岡千恵蔵主演で映画にもなっていて、その映画の印象が強いということもありますが、とにかくぼくのお気に入りの作品です。これはいいですよ。

「赤西蠣太」は時代ものです。伊達騒動の裏側が描かれているので、伊達騒動の知識があった方がいいですが、まあなくても大丈夫です。というか、正直ぼくもおぼろげな知識しかないですけども。

物語の主人公は赤西蠣太という、醜男で訛りがある田舎侍です。34、5歳。とことん真面目な性格で、お菓子と将棋が好き。ある時、妙な噂が流れます。切腹未遂をしたというんですね。実は、腸捻転になったのを、自分で腹を切って腸のねじれを治してしまったんです。

寡黙で不器用そうに見えながら、そうした豪胆な所もある蠣太。やがて蠣太はある密書を届けることになります。ところが、それが藩に露見してはいけませんから、旅に出る理由を作ることにしました。

小江という美しい腰元に艶書(ラブレター)を出すんです。どうせ受け入れられるわけはないので、失恋して居たたまれないのを理由に旅に出ようというわけですね。

ところが、小江から来た返事は、人とはどこか違う蠣太に前から尊敬の念を持っていたこと、そして「私は貴方からお手紙を頂いて本統に初めて自分の求めていたものがはっきり致しました。私は今幸福を感じております」(81ページ)というものでした。うまくいってしまったんです。

うまくいってしまってはダメですから、蠣太は困ってしまって・・・。

とまあそんなお話です。物語のバックボーンとしては伊達騒動があるわけですが、描かれるのは事件そのものではなく、その裏側です。それが個性のある主人公、どこかユーモラスな展開で進んでいくのがとても面白い短編です。

「小僧の神様」「赤西蠣太」は、作られた物語としての面白さ、ユーモラスさがある短編でした。それ以外の短編では、とにかく志賀直哉の文体が光ります。

志賀直哉の文体というのは、かなり特徴的です。川端康成や堀辰雄の文章を思い浮かべてもらうとよいですが、日本語の文章の美しさというのは、普通はやわらかさを持つんです。

食べ物で考えてもらうと分かりますけども、やわらかいものというのは、同時に噛み切れなさがありますよね。一方で、かたいものというのは、リズミカルに噛み砕くことができます。

志賀直哉の文体は、硬質さと同時に噛みごたえのよさがあるというか、読んでいてとても痛快な文体なんです。無駄のない文章という言葉がありますが、無駄のない文章というのは時に退屈なものです。

ところがそれが志賀直哉になると、短く端正な文体でありながら、色気というかユーモラスさというか、匂いのあるような文章になっています。

もう一点注目すべきなのは、その文章が書かれるにいたった志賀直哉の目です。「城の崎にて」「濠端の住まい」などの短編で特にそうですが、ある出来事と出会い、それについて思ったことを文章にするわけですよね。その「思ったこと」に志賀直哉ならではの態度、思考法が見えるんです。

どこか冷徹なような、達観したような。そうした志賀直哉の目、独特の文体をぜひ楽しんでください。

作品のあらすじ


『小僧の神様・城の崎にて』には、「佐々木の場合」「城の崎にて」「好人物の夫婦」「赤西蠣太」「十一月三日午後の事」「流行感冒」「小僧の神様」「雪の日」「焚火」「真鶴」「雨蛙」「転生」「濠端の住まい」「冬の往来」「瑣事」「山科の記憶」「痴情」「晩秋」の18編が収録されています。

各短編に少しずつ触れて終わります。

「佐々木の場合」

書生をしている〈僕〉はお嬢さんのお守りと関係を持つようになります。〈僕〉より3つ位歳下で16歳の富は、終始他人に対してびくびくして、〈僕〉に怒られています。ある時、逢引の最中にお嬢さんの身にあることが起こって・・・。

「城の崎にて」

怪我の療養に温泉に行った〈自分〉。怪我が悪化すると致命傷になる恐れがあり、必然的に死について考えをめぐらします。ある朝、玄関の屋根で一匹の蜂が死んでいるのを見つけます。

「他の蜂が皆巣へ入ってしまった日暮、冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見る事は淋しかった。然し、それは如何にも静かだった」(30ページ)と思う〈自分〉。やがて、道ばたでイモリを見つけて・・・。

「好人物の夫婦」

旅行に行きたいという夫に対して、「貴方がそんな事をしないとはっきり云って下されば少し位淋しくてもこの間から旅行はしたがっていらしたんだから我慢してお留守しているんですけど」(42ページ)という妻。旦那さんの浮気を疑っているんですね。

妻が留守中に、女中の滝がどうやら妊娠しているらしいことが分かります。夫は妻に疑われるかもしれないと思いますが・・・。

「十一月三日午後の事」

〈自分〉は鴨を買いに行きます。途中で兵隊たちに出会います。〈自分〉は鴨の無邪気な顔を見て、殺すのが嫌になってそのまま持ち帰ることにして・・・。

「流行感冒」

赤ん坊を亡くしてから、次の子供を過保護なくらいに注意深く育てている〈私〉。嘘をついて遊びに行ったりする石という女中の言動が気に食いません。やがて病気が流行し始め、子供にうつったら大変だと考える〈私〉ですが・・・。

「雪の日」

我孫子の雪が見たいと言っていたK君が泊まりに来ます。ちょうど粉雪が降り始めます。友達の家に行き、何人かで話をします。雪の降る我孫子の日常風景を描いた短編。

「焚火」

向こう岸に焚火が見えます。

「焚火をしてますわ」と妻がいった。小鳥島の裏へ入ろうとする向う岸にそれが見える。静かな水に映って二つに見えていた。(164ページ)


画家のSさん、宿の主のKさんと、こちらも焚火をすることにします。みんなでとりとめのない話をして・・・。焚火の終わりがとりわけ印象に残る短編。

「真鶴」

父親からお金をもらい、自分と弟の下駄を買いに行きます。しかし、ふと水平帽がほしくなって、お金を全部使ってそれを買ってしまって・・・。

「雨蛙」

賛次郎は妻のせきと一緒に、劇作家のSと小説家のGの講演を聞きに行く予定でしたが、祖母が病気になってしまったので、せきを一人で行かせます。帰って来たせきにどうだったか尋ねると・・・。

「転生」

気の利かない奥さんに頭を悩ます夫。2人は生まれ変わったらおしどりになることを約束します。ところが奥さんはなにに生まれ変わるのか忘れてしまいます。迷った挙句、間違ってキツネに生まれ変わってしまって・・・。

「濠端の住まい」

山陰の松江に暮らしていた時のこと。ある夜、小説を読んでいると、隣の鶏小屋がなにやら騒がしいんです。次の日、近所の人に聞いてみると、猫がやって来て鶏を一羽とっていったというんですね。猫を捕まえるための罠をしかけますが・・・。

「冬の往来」

20歳の〈僕〉は姉の結婚披露宴で、子供を2人連れた薫さんと出会います。薫さんに惹かれていく〈僕〉ですが、ある時、「薫さんという方は、お前さんなんぞが考えている、只それだけの方じゃあ、ありませんよ」(234ページ)と姉に言われます。

どうやら、恋愛のために旦那さんと家を捨てたことがあるらしいんですね。薫さんを想い続ける〈僕〉ですが、薫さんは・・・。

「瑣事」

京都まで金を取りに行くと言って、家を出た彼。実はお清という女に会いに行くんです。

この短編ではお清がどういう境遇の女性かはよく分かりませんが、別の短編(「痴情」)から、茶屋の仲居だということが分かります。ちょっと素人じゃない感じです。

奈良から京都まで行ってみれば、お清はどうやら奈良に行っているらしいんですね。奈良に戻った彼は、お清がいるらしい辺りに行くと、お清が客と一緒に歩いている所を目撃します。お清の印象はいつもと違っていて・・・。

「山科の記憶」

家に帰ると妻の様子がおかしいんです。浮気がバレたんですね。彼と妻は言い争いをします。

「お前の知った事ではないのだ。お前とは何も関係の無い事だ」と云った。
「何故? 一番関係のある事でしょう? 何故関係がないの?」
「知らずにいれば関係のない事だ。そういう者があったからって、お前に対する気持は少しも変りはしない」彼は自分のいう事が勝手である事は分かっていた。然し既にその女を愛している自身としては妻に対する愛情に変化のない事を喜ぶより仕方がなかった。
「そんなわけはない。そんなわけは決してありません。今まで一つだったものが二つに分れるんですもの。そっちへ行く気だけが、減るわけです」
「気持の上の事は数学とは別だ」
「いいえ、そんな筈、ないと思う」
 妻はヒステリックになり、彼の手の甲をピシリピシリ打った。(261ページ)


はたして2人が出した結論とは?

「痴情」

夫の浮気で家庭がごたごたして、精神的に衰弱していることもあって、妻は風邪がなかなか治りません。夫は用事にかこつけて、東京に行きます。やがて、妻から手紙が来て・・・。

「晩秋」

彼はようやく小説を書き上げます。タイトルは「瑣事」。完成を喜ぶ妻に彼はこう言います。

「今度の小説はお前には不愉快な材料だからね」
 郁子は一寸暗い顔をした。然し思い返したように、
「いいわ」と云った。「もう何も彼も済んで了ったんだから・・・・・・」
「見ない方がいいよ」
「見ない事よ。気持を悪くするだけ損ですもの。見ない事よ」と繰返して云った。(291ページ)


夫の浮気を描いた短編「瑣事」の背景と、その小説が呼び起こした、かすかな波紋を描いた短編。

「瑣事」「山科の記憶」「痴情」「晩秋」は、夫の浮気を軸にした一連の作品となっています。直接的なぶつかりあいが描かれているという点で、「山科の記憶」がとりわけ印象に残りました。

あらすじではあえてあまり触れていませんが、「雨蛙」は相当心えぐられるような短編です。理由を問いかけても明確な答えがかえってこない不気味さがあります。これはちょっと不思議な短編で、登場人物の心理に共感できないだけに、どこか変な余韻の残る小説です。

あとはやはり「焚火」ですね。いつか機会があれば詳しく考えてみたいテーマですが、芥川龍之介と谷崎潤一郎の間に小説の筋をめぐっての論争があります。そこで触れられていたのが「焚火」でした。

一つだけ言えるのは、「焚火」はとても鮮やかな印象を残す作品だということです。特に焚火の終わりの描写に注目してもらいたいんですが、まさに情景が浮かんでくるような小説なんです。極めて強いイメージの喚起力を持った作品だと思います。

志賀直哉に興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。現在でも通用する面白さを持った作家です。短編集なので、手に取りやすいかと思います。

明日は、正宗白鳥『何処へ・入江のほとり』を紹介する予定です。