正宗白鳥『何処へ・入江のほとり』 | 文学どうでしょう

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何処へ・入江のほとり (講談社文芸文庫)/正宗 白鳥

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正宗白鳥『何処へ・入江のほとり』(講談社文芸文庫)を読みました。

「どんな作家が好きなの?」というのは、わりとよく話題になりますよね。好きな作家の話を聞くのは結構面白いものです。趣味趣向がはっきり出るので、同じ作家が好きだと、一気に距離が縮まります。もちろん、逆に趣味の違いから口論になることもありますけども・・・。

ぼくは好きな作家を聞くのは好きなんですが、かといって「どんな作家が好きなの?」と質問されるといつもちょっと困ってしまいます。誰の名前をあげるのがその場では適切なのか。

別に適切さなんて考えずに思っていることを言えばいいんですけども、「え、誰?」と言われるのが一番怖いんですよ。大抵「え、誰?」と言われます。

ぼくが大学時代に卒論で扱ったのは横光利一という作家ですが、現在ではほとんど知名度がないんですよ。いやまああえてメジャーな所を避けて、そういう作家を選んだ部分はありますけどね。

ノーベル文学賞作家ぐらいは知っているだろうと思って、「川端康成と同じ新感覚派の作家なんだよ」と付け加えるようにしてますが、最近では「え、カワバタヤスナリ・・・?」ときょとんとされることも増えて来ました。

正宗白鳥というのは、ぼくの好きな作家です。会話では「え、誰?」となること請け合いなので、あまり口にしませんが、理解されなくても別段困らない文章などでは、好きな作家としてあげることが多いです。

正宗白鳥の魅力というのは、文体でもストーリーでもなく、登場人物のニヒリズム(虚無主義)にあります。ニヒリズム(虚無主義)という語は、わりと多義的に使われますが、正宗白鳥の場合は、「何事に対しても批判的で、その中心には空虚感のある態度」として描かれます。

つまり、普通の人が感じるようには感じないし、普通の人が望むようなことを望まないんです。充実感ではなく、空虚感を中心に生活がまわっている感じと言えばよいでしょうか。

たとえば、「何処へ」という短編の主人公の健次は、友人の箕浦に「妻君でも情婦でも拵え玉えな」(94ページ)と言います。自分は女の愛を必要しないが、君には必要だろうというんです。

「君は故意に不真面目なことを云う。悪い癖だ。」と、箕浦は少し顔を赤らめ、「婦人に対しても、恋愛に関しても、もっと真面目に深い意味を見なくちゃならんよ。」
「そうかねえ。」と健次は冷やかに云って「併し僕自身がそう信ずれば仕方がない、人間は寄生虫、女は肉の塊、昔から聖人がそう云ってる。」
「まさかそんな聖人もあるまい、君は己れを欺いて趣味や情熱を蔑視してるんだ。」と、空を仰いで、「見玉え、空は冴えて、月も鮮やかに出かかってる、虫でも秋の気を感じて鳴いてる。」(95ページ)


「人間は寄生虫、女は肉の塊」とはなんともすごい言い草じゃありませんか。ただ、ぼくはこうした健次の考え方に共感して面白さを感じているわけではありません。

ニヒリズム(虚無主義)には元々そういう側面があると思いますが、独自の思想というよりも、なにか元々あったものを否定していく感じなんですね。「愛」を否定し、「芸術」を否定し、「みんなが当たり前と思っているもの」を否定します。

なんでもかんでも否定すればいいというわけではありませんが、誰かの言ったことをそのまま真似したり、周りにただ流されるよりは、一度じっくり自分の頭で考えた方がよいことは確かですよね。

ぼくは二葉亭四迷や夏目漱石も好きなんですが、そこには共通するものがあるような気がします。要するに「個」とか「自我」が問題となるわけですが、長いものに巻かれないことによってそれは浮かび上がってきます。

なあなあな感じで集団に溶け込めばいいものを、自意識などのせいで集団から孤立してしまうんですね。そこにジレンマなり悩みなりが生じてきます。

正宗白鳥の描く人物は、そうした集団に溶け込まないというだけではなく、考え方の中心に空虚感がありますから、感情に振り回されず、すべてをばっさり捨てていけるんですね。そうした態度の取り方というのは、老荘思想を思わせるどこかすっきりした清々しさがあります。

そうしたニヒリズム(虚無主義)のスタンスが、ぼくにとっては読んでいてとても心地いいというか、一番面白味を感じる部分です。ぜひ注目してみてください。

作品のあらすじ


では、各編を少しずつ紹介しましょう。

『何処へ・入江のほとり』には、「塵埃」「何処へ」「微光」「入江のほとり」「今年の春」「今年の初夏」「今年の秋」「リー兄さん」の8編が収録されています。

「塵埃」

もうすぐ26歳になる〈予〉は新聞の編集局で校正をしています。「こんな下らない仕事を男子が勤めていて溜まるものか」(8ページ)と内心腹立たしく思いながら。

編集局では中年男たちがやがやと話したりしていますが、〈予〉はそういう人々を半ば軽蔑した目で見ています。自分は周りの人とは違うと思ってるんですね。一生こんなところの塵埃(じんあい。ちりやほこりのこと)を吸って生きるくらいなら、死んだ方がましだと。

〈予〉は、30数年この社に勤めている小野君と飲みに行きます。小野君は〈予〉から見ると、どこかぼんやりしていて、夢も希望もないような暮らしなんですね。2人の対話はとても興味深いものです。

「何しろ校正掛は張り合いのない仕事だ、僕も早くどうにかしなくちゃ。」
「さ、私も昔は度々そう思いましたがね、思ってる間に、ずんずん月日は立ってしまう、しかしまだどうかしようと思ってる間は頼もしいが、私達はどうかなるだろうで日を送るんですよ。」
「だが、その方が気楽でいいかも知れん。」
「まあね、始めの間は波の中でばちゃばちゃやってまさあ。それが次第に大きな波が幾度も幾度も押かぶせて来りゃ、どうせ叶わないから勝手にしろと、流され放題に目を瞑るようになります。社でも随分波が立ったんですが、私達のように抜き手の切れない者は、其の度毎にぎょっとして、手足が萎けて了う。萎けた挙句が碌々として老ゆるんですよ。」(16ページ)


なにか大きなことをしようと思っている〈予〉と、現実の生活に揉まれて、のらりくらりと生きるようになった小野君。対照的な2人の会話で紡がれてゆく短編です。年齢による2人の性質の違いは、現代の社会でも共通するものがあると思います。

「何処へ」

正宗白鳥の代表作です。友達の織田が菅沼健次の元を訪ねます。翻訳をしたので、どこかに斡旋してほしいと言うんですね。

健次は27歳で雑誌記者をしているんですが、どうも仕事に熱心ではないんです。その前にも中学教師を短期間で辞めてしまったばかりで、学生時代にお世話になった桂田博士に注意されてしまいます。

「君は年々真面目でなくなる、学校時代とは人間が違ってしまった。」と、博士は締りのない顔を顰め、小さい耳朶を掻きながら、「君に比べると箕浦は感心だ、以前は遅鈍な男だと思ってたが、此頃は忠実に勉強してる。度々私の所へ質問を持って来るが、中々研究心に富んでる。」
「そうでしょう、箕浦君には僕も感心してます。あの人は書物を積み重ねりゃ天国へ届くと思って、迷わないで書物の塔を築いてるんですからね、しかし私には紙の踏台は剣呑でなりません。」と、健次は唇のあたりに微笑を湛え、パッチリした澄んだ目には、博士の胸の底の紙魚の跡まで映っている。(46ページ)


桂田博士の家は学生たちの集まるサロンのようになっていました。桂田博士の奥さんは子供がいないだけに、余計に学生を可愛がったんですね。毎回寵愛する学生は変わっていて、健次だったり箕浦だったりしました。

桂田博士や奥さんは、いまだに健次に期待し、目をかけてくれますが、健次は無気力な態度でこたえます。

やがて自分の妹が健次のことを好きらしいと気づいた織田が、妹を健次に嫁がせようとします。ところが、箕浦がこの織田の妹のことがどうやら好きらしいんです。

そうした織田の妹の結婚問題が背景で動いていく中、健次、織田、箕浦という若き友人たちのそれぞれの活動が描かれていきます。

健次はとにかく、仕事にも恋愛にも興味がないんです。熱心にやればなんでもできるのに、やりません。そうしたニヒリズム(虚無主義)な態度が、際立った面白さを発揮している短編です。

「微光」

囲いもの(愛人)として暮らしているお国。母親が病気だというので、故郷に帰ります。汽車の中でかつての恋人に会いますが、囲いものの境遇なので、結局の所、結ばれない運命なんですね。

お国は誰にでも体を売る女性とは少し違っていて、パトロンがつく感じです。ただ、パトロンも金回りがいい時はいいですが、お金なくなるとダメなわけで、そうすると、また違うパトロンを斡旋してもらいます。

お国がどうしてそういう境遇になったのかが回想され、少しずつ変わりゆく現在の生活が描かれていきます。正宗白鳥の中でも、特に自然主義らしい短編です。

「入江のほとり」

長男の栄一からもうすぐ帰るという手紙が届き、3人の弟と2人の妹がそれを見ます。ところが栄一はなかなか帰って来ません。物語の中心となるのは、弟の辰雄と妹の勝代です。

一家の中でも、辰雄はちょっとした変わり者です。もう何年も英語を独学で勉強してるんですね。

「アルハベットの読み方から、満足に教師によって手ほどきされたのではないので、全くの独り稽古を積んで来たのだから、発音も意味の取り方も自己流で世間には通用しそうでない」(194~195ページ)んですが、ずっとこつこつ続けています。

辰雄は30近い年で、学校の先生をしているんですが、どうやら正式な教員ではないらしいんですね。周りはそんな意味のない英語の勉強なんかやめて、正教員の試験勉強をした方がいいと忠告します。

帰って来た栄一は、辰雄の英文を見て、辛辣な言葉を浴びせます。

「今お前の書いた英文を一寸見たが、全で無茶苦茶で些とも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのに過ぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方は尚更間違いだらけだろう。独案内の仮名なんかを当てにしていちゃ駄目だぜ。」
「・・・・・・・・・・・・。」
「娯楽にやるのなら何でもいい訳だが、それにしても、和歌とか発句とか田舎にいてもやれて、下手なら下手なりに人に見せられるような者をやった方が面白かろうじゃないか。他人には全で分からない英文を作ったって何にもならんと思うが、お前はあれが他人に通用するとでも思ってるのかい。」(217ページ)


兄にそう言われた辰雄は・・・。

「今年の春」「今年の初夏」「今年の秋」「リー兄さん」は一連の作品です。「今年の春」では父親の死、「今年の初夏」では母親の死、「今年の秋」「リー兄さん」はそれぞれ弟の死を描いています。

リアリズムの筆致で書かれた、死をめぐる風景はあらすじで紹介するようなものでもないと思いますので、ぜひ実際に読んでみてください。

「リー兄さん」だけがやや異質の作品で、「入江のほとり」とイメージが重なるような部分もあります。

とまあそんな8編が収録された短編集です。率直に言って、誰もがみんな面白いと感じる短編集ではないと思います。むしろ面白さは分かりづらい感じでしょう。

いくつか文章を引用しましたが、そこでのセリフや登場人物の態度に魅力を感じた方は、ぜひ読んでみてください。ストーリーよりも、文体よりも、人物の態度に面白味のある作家です。

明日は、吉行淳之介『暗室』を紹介する予定です。