エクリチュール・テクスト | 文学どうでしょう

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エクリチュール écriture


エクリチュールとは、英語ではwritingにあたり、「書かれたもの」や「書く行為」を表す言葉。わりと広義に使われるが、ロラン・バルトの用語としてはもう少し限定的であり、自然と決められた語り口や語法を指す。文章というのは、ある種のキャラクター性を持った語りによって書かれたものだということを示した。

テクスト texte


小説の作品が「テクスト」と呼ばれる時、それは単に「作品」を意味しない。ロラン・バルトは、「作者」と「作品」を切り離して考えた。文章が書かれる時、単純に「作者」が「作品」をすべて統御しているとは言えないからであり、書かれる時の様々な複合的な要素から成り立っているのが「テクスト」である。

また、「テクスト」は主体的に「読者」を動かす。「読者」が「テクスト」を読むのではなく、「テクスト」が「読者」に読みを要求するのである。たとえば正義のヒーローの戦いが描かれる時、「読者」は必ず正義のヒーローを応援するような読みに誘導されてしまう。

ちょっと詳しい解説


「エクリチュール」の説明の前に、ソシュールの「ラング」と「パロール」について少し触れます。ソシュールは構造主義の基礎を築いたスイスの言語学者です。

ソシュールのシニフィアンとシニフィエについては、次の記事で少し触れていますので、興味のある方はどうぞ。→テリー・イーグルトン『新版 文学とは何か』

言葉を「ランガージュ」と言うんですが、「ランガージュ」は「ラング」と「パロール」に分けられます。「ラング」というのは、「日本語」など、それぞれの言語のことです。方言などの違いがあっても、通じれば1つの言語ですよね。

「パロール」に関して、町田健『コトバの謎解き ソシュール』から引用します。次のように書かれています。

同じたとえば「ネコ」という単語を発音したとしても、実際に口から出てくる物理的な現象としての音波は、人によってさまざまに違います(音波の性質の違いなら、機械を使って測定してみれば、異なった波形として現れるのですぐにわかります)。こういう具合に、同じ言語(ラング)でもそれを使う人によって違った現れ方をするのでして、そういういろいろと違った雑多な現れ方をした言語を「パロール」と呼ぶわけです。(72ページ)


「ラング」が歴史的・社会的な背景で成立した言語の体系であり、「パロール」は使用する個々の状況という感じでしょうか。ちなみにソシュールは言語学の範囲を狭めるために、「パロール」ではなく、「ラング」を主な対象としたらしいです。

徐々に「エクリチュール」の説明に入っていきます。ロラン・バルトは、言語の「不可測の規制」に2種類のものがあると考えました。それが「ラング」と「スティル」です。内田樹『寝ながら学べる構造主義』から引用しますね。

ラングが「外側からの」規制だとすると、それとは別にもう一つ、私たちが何かを語る場合、私たちの言語運用を「内側から」規制するものがあります。私たちの個人的な「言語感覚」とでもいうべきものです。(119ページ)


「ラング」というのは、「日本語」とかそういう言語のことでしたよね。ぼくらは「ラング」を話しますが、「言語感覚」は1人1人違います。リズムとか、喋り方とかそういうものです。そうした個人的な話し方のルールのようなものを、「スティル」と言うんです。

「ラング」と「スティル」以外に、もう1つのルールがあるとロラン・バルトは言うわけです。それが「エクリチュール」です。内田樹『寝ながら学べる構造主義』では、次のように書かれています。

 エクリチュールとスティルは違います。スティルはあくまで個人的な好みですが、エクリチュールは、集団的に選択され、実践される「好み」です。
 例えば、中学生の男の子が、ある日思い立って、一人称を「ぼく」から「おれ」に変更したとします。この語り口の変更は彼が自主的に行ったものです。しかし、選ばれた「語り口」そのものは、少年の発明ではなく、ある社会集団がすでに集合的に採用しているものです。それを少年はまるごと借り受けることになります。(120ページ)


つまり、ぼくらは友達の前、恋人の前、先生の前では違った話し方をするわけです。その話し方が「エクリチュール」です。友達としての「エクリチュール」、恋人としての「エクリチュール」、生徒としての「エクリチュール」。

これはぼくらが「エクリチュール」を選んでいるというよりは、「エクリチュール」にそうさせられている感じでもあるわけですよね。

文章が単なる文章ではなくて、こうした「エクリチュール」で語られているということは、「作者」と「作品」を切り離して考えることに繋がるわけです。ぼくらは書いてるのではなく、書かされているのだと。

そうしたところから、「テクスト」という考え方が生まれてきます。

「テクスト」というのは、「テキスト」と同じで、文章のことを意味していますが、「テクスト」と呼ばれる時、それは「作者」とは独立したものとして扱われることになります。そうしたアプローチによる批評の仕方が「テクスト論」です。

「作者」が「作品」を書く。そのことになんの疑問もない批評の時代がありました。「作者」の考えていること、伝えたいメッセージを受け取ることが、そこでは重要視されたわけです。

そこを批判して、「作品」というのは「作者」に統御されるものではなく、もっと読みの多様性があるんだといって出てきたのが「テクスト論」なんです。

そうした「テクスト論」についての説明、そしてその「テクスト論」をさらに批判的に乗り越えようとした本に、加藤典洋の『テクストから遠く離れて』があります。興味のある方は読んでみてください。

参考文献


内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)

町田健『コトバの謎解き ソシュール入門』(光文社文庫)

加藤典洋『テクストから遠く離れて』(講談社)


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