三島由紀夫『仮面の告白』 | 文学どうでしょう

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仮面の告白 (新潮文庫)/三島 由紀夫

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三島由紀夫『仮面の告白』を読みました。

三島由紀夫は今なおかなり読まれている作家のような気はします。特にこの『仮面の告白』と『金閣寺』辺りは。『仮面の告白』や『金閣寺』が現在の読者に一体どんな感想を抱かせるのか、非常に興味のあるところです。三島由紀夫が好きな方、苦手な方、どちらでも結構ですので、コメントなどよろしくです。

三島由紀夫はその華美な文体、耽美的な内容が、熱心なファンを獲得すると同時に、ある種の拒絶反応のようなものも引き起こしています。また、あまりにも虚構じみているという批判もあるんです。

作り物じみていて、登場人物が生きていないと。心理描写も二重鍵カッコ(『 』)で地の文に溶け込まない形式をよく使っているんですが、そこに対しての否定的な意見もあります。具体的に誰がどういう批判をしたのかはちょっとうろ覚えなので、そのうちまた調べときます。

ぼく自身のことを言えば、三島由紀夫はかなり好んで読んでいた作家です。理由は主に2つあって、まずこれほどエロティシズムを感じさせる作家はそういないこと。特に『金閣寺』ががすごく印象的なんですが、それに関してはや『金閣寺』のところで扱います。

もう1つは、登場人物が自己欺瞞的というか、この『仮面の告白』でもそうですが、自分の気持ちととる態度が違ったりするんです。そうした表裏のある感覚がなんとなくすごく共感できたということがあります。つまり本当の自分を隠して、社会に適応していかなければならないんです。これは誰しもある程度そうですよね。

たとえば学校に行きたくなくても行かなくてはならない。友達に誘われたら付き合わなければならない。楽しくなくても笑って、相手が悲しんでいたら眉をしかめてみせる。そういった当たり前のルールに従う時、なんだか自分が演技をしているように感じたものです。そう、仮面をかぶっているかのように。

自分が社会とうまく適応できずに、それでもなんとか周りにあわそうとする。そこに生じる自己欺瞞的な感覚にぼくはすごく共感できたんですね。そういった部分で三島由紀夫の小説がすごく好きだったわけです。

今回、『仮面の告白』を読み直してみて、すごく引き込まれるように楽しめる部分と、そして決定的に楽しめない部分がありました。自己欺瞞的な内容はやはりすっと入ってくるんですが、『仮面の告白』はご存知の方も多いと思いますけども、異性愛ではなくて、同性愛を描いた小説なんです。主人公の〈私〉が男性に惹かれる話です。

〈私〉の性の目覚めなど強烈な印象を受けますが、自分の感覚とあわないものですから、どうもその部分は拒絶反応のようなものが出てしまう。特に前半の匂い立つような男性美はちょっと苦手でしたね。わき毛に興奮したりとか。多分男性読者は大方そういう反応でしょうし、女性の読者としてもしっくりこないのではないかと思います。

つまり相当読者を選ぶ小説のはずですが、今なお読み継がれていることに、驚きのようなものを感じます。みなさんどんな感想を抱いているんでしょう。気になるところです。コメントお待ちしております。

物語としては、前半はコクトーの『恐るべき子供たち』、後半はラディゲの『肉体の悪魔』を彷彿とさせます。興味のある方はそちらも読んでみてください。フランス文学です。

作品のあらすじ


こんな書き出しで始まります。

 永いあいだ、私は自分が生れたときの光景を見たことがあると言い張っていた。それを言い出すたびに大人たちは笑い、しまいには自分がからかわれているのかと思って、この蒼ざめた子供らしくない子供の顔を、かるい憎しみの色さした目つきで眺めた。(5ページ)


なぜそんなことを言い出すのか、それはつまり自分がどうして生れたか、性的なことを聞きたいのではないかと大人は思うんですね。そこからしばらく子供時代の回想が続きます。

〈私〉が惹かれるものはちょっと変わっています。糞尿汲取人に強い印象を受けます。ジャンヌ・ダルクの絵にときめきを感じますが、それが女だと知って打ちひしがれる。軍隊が通る時の汗の匂いに恍惚とします。そしてどこか血なまぐさいものに惹かれるんです。血だらけの王子とか。

やがて〈私〉はセバスチャン殉教図に出会います。「非常に美しい青年が裸かでその幹に縛られていた。」(39ページ)その絵を見て、〈私〉は興奮を覚えるんです。矢が刺さっていて、血なまぐさいということもあります。

〈私〉は巨大化した器官をつかみ、知らず知らず手を動かして、最初のejaculatioに至ります。ラテン語です。意味は大体察してください。性的な興奮状態が高まると男性はどうなるかです。

そして不良性を帯びた近江という人物に〈私〉は激しく惹かれていきます。この近江がコクトーの『恐るべき子供たち』のダルジュロスと重なります。雪合戦の場面も共通しますし。近江の裸を見たいと思う。鉄棒で懸垂をする近江のわき毛を見て興奮を覚えます。

それからも〈私〉は男性に惹かれていく。やがて戦争の影が近づいてきます。そうした中、友達の妹の園子との距離が縮まっていきます。ここからの展開は、ラディゲの『肉体の悪魔』やラクロの『危険な関係』を彷彿とさせる部分があります。

つまり、〈私〉は園子を愛していない、何故なら男性にしか性的欲望を抱かないから。ところがそれでも園子を誘惑する立場にいるわけです。誘惑と言っても健全な関係ですけども、結婚とか幸せな家庭とかそういうものを園子に想像させるような関係になっていくわけです。園子は〈私〉に夢中になります。

やがて園子の兄から結婚の打診が来ます。どうする〈私〉!?

とまあそんなお話です。近江というキャラクターはかなりいいですね。〈私〉と好対照になっていて、どちらも引き立ちます。前半はそうした男性美の描写が濃厚に描かれますから、ぼくはちょっとあれでしたが、後半はかなり面白いです。ゲーム的な恋愛。社会に溶け込もうとする自己欺瞞。いいです。

女性と口づけを交わす場面が何度かあるんですが、その時の〈私〉の感じ方が興味深いですね。その辺りにも注目してみてください。

内容が内容ですが、よくも悪くも強烈な印象の残る作品です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。文章としては、三島由紀夫独特の読みづらさが多少あるんですが、まあ大丈夫だろうと思います。

三島由紀夫は近い内に『金閣寺』を紹介する予定です。