村上春樹『海辺のカフカ』 | 文学どうでしょう

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海辺のカフカ (上) (新潮文庫)/村上 春樹

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海辺のカフカ (下) (新潮文庫)/村上 春樹

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村上春樹『海辺のカフカ』(上下、新潮文庫)を読みました。

『海辺のカフカ』はぼくにとって、とても思い入れのある小説です。これはある程度みなさんと共通するかもしれませんが、初めてリアルタイムで読んだ村上春樹作品なんです。

当時は今ほどインターネットというのがぼくの身近になかったので、事前情報を全く知りませんでした。ある日、買いたい本があって本屋さんに行ったら、『海辺のカフカ』が平積みになっていたのでびっくりしたんです。今もそうですが、村上春樹の新刊が出るというのは1つの事件でした。

ぼくは買おうと思っていた本ではなく、『海辺のカフカ』を買いました。そして貪るように読んで、作中に出てくるベートーヴェンの『大公トリオ』のCDを聴いたり、フランソワ・トリュフォー監督の映画(『大人は判ってくれない』など)を観たりしました。ぼくにとってそれだけ影響力の強い本だったんです。

今回はまず先にあらすじを紹介して、その後でいくつか思ったことを書こうと思います。

作品のあらすじ


『海辺のカフカ』というのは、2つの物語が組み合わさった小説です。奇数の章で描かれる15歳の少年〈僕〉が家出をする物語がベースになります。

〈僕〉が幼い頃に、母親とお姉さんが出て行ってしまったんです。1枚だけ写真があって、水着姿のお姉さんと〈僕〉が海岸で並んでいる写真。

母親の写っている写真はないんです。1枚も。〈僕〉は母親やお姉さんのことをなにも覚えていません。

また後ほど触れますが、〈僕〉が家出をするのは、悩みや葛藤があってということではないんです。なにかに反抗しての家出ではないですし、かといって、母親とお姉さんのことを探しに行くというのとも少し違います。それはしなければならない、ある種の必然性を持った家出です。

〈僕〉は長距離バスに乗って、四国の高松に向かいます。バスの中でさくらという女性と知り合いになります。〈僕〉はさくらのことを、「ひょっとして彼女が僕のお姉さんではないか」(上、49ページ)と思います。さくらに名前を聞かれた〈僕〉は、「田村カフカ」と名乗ります。

高松にたどり着いた〈僕〉は、甲村記念図書館に行きます。歌人や俳人などの専門書が中心になっている、私立の図書館です。〈僕〉は毎日そこに通い、夏目漱石の全集を読んだりします。大島さんというそこで働く図書館員に親切にしてもらって、色んな話をするようになります。

ある時、思いがけないことが起こります。〈僕〉が気がつくと、どこにいるのか分からない。自分がなにをしていたかも分からない。でも白いTシャツの胸あたりに血がついているんです。一体なにが起こったのか? 〈僕〉は泊まっていたホテルに電話をかけて引き払います。そして・・・。

偶数の章は、戦時中に起こったある不思議な出来事に関しての軍部のレポートから始まります。キノコがりに行っていた先生と16人の子供たちが、銀色の光を見た話。16人の子供たちが、突然、意識を失ってしまうんです。

1人の子供だけ、意識を失い続け、目覚めた時にはなにもかも分からない空っぽの状態になってしまいました。その子供が初老の男となって物語に登場します。白髪混じりの坊主頭のナカタさん。

ナカタさんは読み書きができません。ナカタさんでもできるような、木でものを作る仕事を黙々としていましたが、会社がなくなってしまったので、今は障がい者として補助をもらって暮らしています。

ナカタさんは人より影が薄いんです。存在感がないという意味ではありません。影が本当に薄いんです。でも誰もそれに気がつきません。そんなナカタさんは、なぜだか猫と話ができるので、猫探しをしてお金をもらったりしています。

猫を探していると、猫をつかまえている悪い人間がいるということを知ります。そこからあえてざっくり省きますが、ナカタさんも四国に向かうことになります。ヒッチハイクをして、トラックに載せてもらうことになります。

トラックの運転手は、中日ドラゴンズの野球帽をかぶり、アロハシャツを着ている星野さんという青年です。青年は、ナカタさんの不思議な雰囲気に自分のおじいさんを重ね合わせるんです。不良だった自分にやさしく接してくれたおじいさん。

ナカタさんはなぜだかは分からないけれど、やらなければならないことが分かります。そのやらなければならないことを、わけが分からないなりに現実的に手助けするのが星野さんです。

このナカタさんと星野さんの関係性というのは極めて興味深くて、色んな読み取り方はできるのはもちろんですが、多義的な意味あいでもって、空っぽの人間が空っぽの人間ではなくなるということ、またこちらも色んな意味あいでもって、星野さんの成長が描かれる物語だと言えます。

奇数の章で描かれる〈僕〉の家出の物語。そして偶数の章で描かれるナカタさんと星野さんの物語。この2つの物語が、四国の高松にある甲村記念図書館で1つに重ね合わさります。

甲村記念図書館には、40代半ばくらいに見える佐伯さんという女性がいます。「この人が僕の母親だといいのにな」(上、81ページ)と〈僕〉は思います。幼馴染の恋人がいて、その恋心を歌にして『海辺のカフカ』というレコードを出した佐伯さん。

ところが幼馴染の恋人は亡くなってしまいます。それから佐伯さんには謎に満ちた空白があって、やがて高松に帰って来て、甲村記念図書館で働いているというわけです。〈僕〉と佐伯さんは図書館を通して奇妙に繋がります。そして佐伯さんとナカタさんにはある共通点があります。

2つの物語が重なり合い、そこに佐伯さんの謎に満ちた過去や『海辺のカフカ』のイメージが混ざり合う。現実とも幻想ともつかない出来事の中で、浮かび上がってくるものとは一体なんなのか。果たして物語の結末は!?

とまあそんな物語です。興味を持った方はぜひ読んでみてください。文章的には読みやすく、面白いですよ。村上春樹の小説の中でも、わりと読みやすい方なのではないでしょうか。

作品の感想


さて、ここからはぼくが思ったことを少し書きます。まずは構成について。

2つの物語がばらばらに描かれるという構成は、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』に似ています。ただ、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で分かれている2つの物語は、それぞれ〈私〉と〈僕〉という1人称で書かれていますが、『海辺のカフカ』では〈僕〉という1人称の章と、ナカタさんという3人称の章であることは注目に値すると思います。

これは単に人称の違いという問題ではなくて、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は1人称でなければならない小説ですし、『海辺のカフカ』は1人称と、3人称でなければならない小説なんです。構成は類似していますが、物語の構造としては大きく異なります。

『海辺のカフカ』の、この2つのストーリーに分かれているという構成が、単純に言えばぼくはあまり好きではないです。似たような構成の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が面白かったのは、ずば抜けて面白い設定もありますが、先になにが起こるか分からないどきどきというような、物語としての吸引力があったように思うんですね。

一方で『海辺のカフカ』に物語としての吸引力があるのか、という疑問が正直あります。これはもう少し後で触れるモチーフの問題と関わってきますが、『海辺のカフカ』は感情移入して、展開にどきどきする物語ではなく、起こるべきことが起こる物語なのではないかと思います。

これは読者の資質にもよりますが、ぼくはわりと共感したい、感情移入したいタイプの読者なんです。でも『海辺のカフカ』というのは、感情移入することができない小説だろうと思います。それは〈僕〉である「田村カフカ」自体に対してもそうなんですが、ナカタさんという3人称の章と交互に描かれる形式によって、より一層感情移入しにくいものになっている気がぼくにはします。

続いては物語のモチーフについて。

『海辺のカフカ』は思い入れの強い本です。村上春樹はぼくの好きな作家です。それでもぼくは村上春樹について語る時は今までこんな言い方をしてきました。一番好きなのは『羊をめぐる冒険』。一番面白いと思うのは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』。そして傑作だと思うのは『ねじまき鳥クロニクル』。『海辺のカフカ』はどこにも出てきません。

『海辺のカフカ』が好きな方もたくさんいらっしゃると思います。もちろんぼくも思い入れがありますし、好きな小説ではあるんですが、ある意味において面白さが決定的に分からない小説でもあるんです。

『海辺のカフカ』は、15歳の少年である〈僕〉が家出をする話ですよね。バスに乗って、家から遠く遠く離れて行く。村上春樹にしては若い主人公であるというのが話題になりました。表面上は、いわゆる「自分探しの旅」をする少年の話のように見えます。

ところで、ぼくもまがりなりにも「自分探しの旅」をしたことがあります。大学の夏休み、自分の持っているお金を全部持って、青春18切符という一定の期間、どこまででも電車に乗れる切符を買って、目的地も決めずに家を出ました。

結局どこへ行ったって、自分なんて見つからないんですが、その時のぼくはぼくなりに、色んな悩みだとか、抱えているもやもやみたいなものがあったわけです。家出にせよ、「自分探しの旅」にせよ、なんらかの心理的葛藤が伴うものだと思うんです。

そこで、『海辺のカフカ』の〈僕〉に話を戻しますが、〈僕〉にはほとんど心理的葛藤がありません。15歳で家出をすることに関して、こんな風に書かれています。「15歳の誕生日は、家出をするにはいちばんふさわしい時点のように思えた。それより前では早すぎるし、それよりあとになると、たぶんもう手遅れだ」(上、17ページ)。

家出にせよ、「自分探しの旅」にせよ、衝動的な感情の爆発みたいなものがあるはずだと思うんです。ところが〈僕〉にそうした感情はなく、体を鍛えたり、前もって着々と家出の準備をします。

それは〈僕〉の家出が、心理的葛藤による感情の問題からではなくて、家出をしなければならないからするという、なんらかの必然性によるものだからです。

物語の構造に話を広げると、ギリシャ悲劇的なものがモチーフになっているわけです。具体的に作品名をあげるなら、ソポクレスの『オイディプス王』ですが、自分の父親と母親(『海辺のカフカ』では姉も)に関するある怖ろしい予言があって、そこに縛られることになります。

オイディプス王』では、それを避けようとすることで、逆に予言を成就させてしまいます。そこに悲劇性があるわけです。

『海辺のカフカ』は、そうしたギリシャ悲劇のモチーフがありますが、予言の成就による悲劇という展開とは、やや異なるものになっているのが面白いです。そこにはある種のずれのようなものがあります。

父親に起こったことは自分がやったのかもしれないし、自分がやったのではないかもしれない。出てくる女性は、母親かもしれないし、母親ではないかもしれない。姉かもしれないし、姉ではないかもしれない。その辺りがすごくメタフォリカルに書かれた小説なんです。

メタフォリカルというのは、あるものがあるものを指し示すと考えてください。たとえば物語内で子供たちのケンカが戦争のメタファーとして書かれたとします。表面上に書かれていることは子供たちのケンカですが、実際は戦争のことを表していたりするわけです。

『海辺のカフカ』では、現実に起こっている出来事と、出来事がメタファーとして表していることがあります。なので極論を言えば、本当に母親であるか、姉であるかどうかは、あまり重要な問題ではないんです。そしてさらに言えば、こうしたギリシャ悲劇的な予言というモチーフは物語の要素の1つにすぎません。

モチーフの話をちょっとまとめてみます。ぼくが村上春樹の小説の中で、『羊をめぐる冒険』が好きなのは、とても共感しやすい小説だからです。悲しみのようなものがすごく伝わってきます。

一方でこの『海辺のカフカ』は、共感や感情移入がしにくい小説だろうと思います。それは主人公の〈僕〉が、自分が15歳だった頃とは決定的に違うということがまずあります。そしてそれよりも大きいのは、物語のモチーフとしてギリシャ悲劇的なものがあるということ。

そこで重要なのは父親、母親、息子という関係性であって、15歳の少年の心理的葛藤や成長ではないんです。そうした意味あいでは、15歳であることや、少年であることにはなんら意味がないとも言えます。

最後に『海辺のカフカ』の読み方について。

これは単純に疑問なんですが、『海辺のカフカ』は、村上春樹ファンと村上春樹を初めて読む人では、感想が変わってくるんでしょうか。これは気になるところです。

つまり村上春樹の長編を順に読んできて『海辺のカフカ』に辿り着いた人は、他の作品との関連を考えずにはいられないと思うんですよ。たとえば佐伯さんの恋愛には『ノルウェイの森』、影や森に関しては、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、夢の中の出来事や現実のもう1つ向こう側が描かれているという点では、『ねじまき鳥クロニクル』を重ね合わせてしまうわけです。

それはもちろんぼくもそうで、「村上春樹を初めて読んだけど、『海辺のカフカ』よく分からなかった」という人に、「他の作品を読むと分かるよ」みたいなことを言ってしまいがちなわけです。

でもこれはどちらが正しい読み方なんでしょう。他の作品と重ね合わせた方がよいのか、重ね合わさない方がよいのか。

これは結構難しい問題なんですけど、なぜそこにこだわるかと言うとですね、ぼくは『海辺のカフカ』に既視感のようなものを感じてしまうからなんです。『海辺のカフカ』はわりと難解と言われる小説なんですけど、他の作品と重ね合わせると分かりやすすぎるくらい、分かりやすい小説になってしまいます。

描かれている不思議な出来事の1つ1つの分からなさというのはあります。たとえばなんでカーネル・サンダースなのとか、ジョニー・ウォーカーの正体はいかに!? みたいなことは分かりません。

そういった部分のことではなく、物語の全体的な流れというのは、村上春樹の他の小説にないくらい明確に描かれているような気がします。

たとえて言えば、ボタンがあって、ボタンを押すとあることが起こると分かっている。ボタンを押す。あることが起こる。また別の言い方をすれば、空白がある。そこにこのピースがはまると分かる。ピースをはめる。空白は埋まる。そうした明解さがあるような感じがするんです。

なので、もしかしたら他の作品と重ね合わせない方が、面白い読み方ができるのではないかという気もするんですよね。分かりにくい方がよりいいような。少なくとも、『海辺のカフカ』の分からなさを他の作品と重ね合わせる読み方は、ぼくはあまりしない方がいいのではないかと思ったりもします。

つまり、あの森の中の世界はなんなの? あれは『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で描かれていたあれなんだよ、とか、夢の中の世界が描かれているけどなんなの? あれは『ねじまき鳥クロニクル』で描かれていたあれなんだよ、みたいな納得をしない方がいいのではないかということです。

みなさんは『海辺のカフカ』をどんな風に読みましたか。面白かったところ、こんなところが好きなんだよ、というのをぜひコメントで教えてください。みなさんの感想が楽しみです。