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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(全3巻、新潮文庫)を読みました。Amazonのリンクは1巻だけを貼っておきます。
『ねじまき鳥クロニクル』というのは、どのくらい読まれてるんでしょう。
「ねじまき鳥」は「ネジマキドリ」なんですが、ぼくはよく「ネジマキトウ」と呼んでる人に会います。年代記を意味する「クロニクル」が「鳥」ではなく「島」を連想しやすいということもありますが、それくらい実は読まれてない小説のような気もします。
「村上春樹? ああ、ネジマキトウクロニクルの人?」と言われても、「いや、ネジマキドリだよ」と訂正する勇気のないぼくがいたりします。指摘しようかしまいかいつも迷って、大抵黙ってます。心の中ではもごもご言ってるんですけど。
たまに「ネジマキトウクロニクル読んだけどつまらんかった。村上春樹はダメだね」と言う強者もいて、明らかに実際に読んでないことがバレバレなわけですが、微笑みを浮かべて聞き流すことにしています。
ぼくはずっと村上春樹の中では『羊をめぐる冒険』が一番好きで、それはある意味において共感しやすい小説だからです。そして、頭で考えて面白いと思うのは、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』ですね。設定が抜群に面白い小説だろうと思います。
では『ねじまき鳥クロニクル』はぼくにとってどういう作品だったかというと、取り立てて印象に残らない作品だったんです。別段好きでもないし、面白いとも思わない。理由ははっきりしていて、無駄に長いと思っていたからです。
しかもその長さが、物語としての長さではなくて、別の話が組み込まれることによる長さなので、メインストーリーがなかなか展開していかないというもどかしさがあります。そして組み込まれている物語が、どうメインストーリーと関わってくるのかを自分で考えなければならない。
それでも今回読み直してみて、ぼくの中で好きとか面白いとかを越えた小説になりました。傑作というやつです。日本語で書かれた小説の中で、もっとも重要な作品の1つだろうと思います。これは最大の賛辞ではありますが、必ずしもおすすめの小説というわけではありません。
『ねじまき鳥クロニクル』は、しんどい小説です。3冊もあって長いからとか、自分の頭の中で複数の話を組み立てなければならないからとか、そういったしんどさももちろんありますが、そうではなくて、ぼくらの心を傷つけ、暗い気持ちにさせるという意味でのしんどさです。
読んでいるだけで、結構、精神的ダメージを受けます。単純に人や動物が殺される残虐なシーンあるということもありますが、それよりも、抽象的な意味でなにかが損なわれた人の損なわれる話が結構しんどいです。
『ねじまき鳥クロニクル』は戦争と正面から向かいあった小説です。つまりぼくらは『プライベート・ライアン』とか『フルメタル・ジャケット』とか、戦争を舞台にした映画を観るくらいの気合で読まなければなりません。それだけ重いテーマを孕んでいるんです。
その一方で、『ねじまき鳥クロニクル』を戦争を描いた小説だと言うことは、また『ねじまき鳥クロニクル』をうまくとらえきれていないことに他なりません。戦争での圧倒的な暴力が、もっと抽象的な暴力として示されているわけで、ぼくらの日常に潜む悪や暴力というものにまで広がっているからです。
圧倒的な悪や圧倒的な暴力がそこにある時、ぼくらはなにができるか? そして、なにかで大きく損なわれてしまった人に対して、ぼくらはなにができるか?
そうしたことが問いかけられている小説だろうと思います。もはや好きとか面白いとかの領域を越えた小説。色んな意味でのしんどさはありますが、ようし覚悟ができたぞという人は、ぜひ読んでみてください。
小説の文章として難解な小説ではないので、そういった意味では気軽にすらすら読めます。第3部だけ断片的な話の集合体のようになるので、ちょっと読みづらいかもしれませんが、第1部、第2部はわりと読みやすいはずです。
村上春樹は翻訳家としても活躍していて、しかも自分の好きな作品を翻訳できるという立場にいるので、『ねじまき鳥クロニクル』をそうした村上春樹が翻訳している作家の作品などから読み解くこともある程度可能だろうと思います。
物語の流れとしては、レイモンド・チャンドラーの小説に似たところがあります。いわゆるハードボイルドですね。なんらかの事件が起こり、主人公がそれを調べはじめる。主人公に様々な形で圧力がかかる。周りは主人公を痛めつけてでも手を引かせようとする。ところが主人公は決して手を引かない。
物語の叙述の方法としては、ジョン・アーヴィングの小説に似たところがあります。アーヴィングもゆったりとした語りで、様々な筋がまとまっていくようなところがあるんです。
それから、笠原メイというキャラクターの手紙からはJ.D.サリンジャーの匂いがしますし、ロシアなので村上春樹が翻訳はしてませんが、牛河というキャラクターの不気味さ、饒舌さは明らかにドストエフスキーの小説のキャラクターの影響下にあると言ってよいと思います。
そうした外国文学と重ね合わせる読み解きもある程度可能なわけですが、これは同時にそういった読みに誘導されている感がないでもないですね。そうしたことは、あまり気にせず物語を楽しむ方がベターです。
作品のあらすじ
『ねじまき鳥クロニクル』は全3部、全3巻からなっていて、1部ごとに1巻あります。「第1部 泥棒かささぎ編」と「第2部 予言する鳥編」は繋がっていて、「第3部 鳥刺し男編」は少し系統が違うと考えた方がよいです。
簡単に言えば、第1部と第2部は、〈僕〉と加納マルタと加納クレタという姉妹の話であり、第3部は、〈僕〉と赤坂ナツメグと赤坂シナモンという親子の話です。
なんだか変な名前だなあと思った方も多いだろうと思いますが、みんな偽名みたいなものです。物語では名前というのがとても大きな要素になっています。
名前のない猫というのが、『羊をめぐる冒険』に出てきました。『羊をめぐる冒険』の猫についた名前と、『ねじまき鳥クロニクル』で猫についた新しい名前には共通点があって面白いです。
『ねじまき鳥クロニクル』はこんな書き出しで始まっています。
台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。僕はFM放送にあわせてロッシーニの『泥棒かささぎ』の序曲を口笛で吹いていた。スパゲティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。(1巻、11ページ)
〈僕〉は、働いていた法律事務所を辞めて、仕事を探しながらのんびり暮らしています。クミコという奥さんがいて、奥さんが雑誌の編集の仕事をしているので、しばらくはなんとかやっていけます。いわゆる主夫みたいな感じですね。ご飯を作ったり、服をクリーニング屋に出したり。
謎の女から変な電話がかかってきます。電話で性的なサービスをする女のような感じです。やがて、奥さんに頼まれて、いなくなった猫を探しにいきます。飼っていた猫が突然いなくなってしまったんです。たまに見かけたという、路地の奥の家の庭に向かう途中で、「ねじまき鳥」の声が聞こえます。こんな風に書かれています。
近所の木立からまるでねじでも巻くようなギイイイッという規則的な鳥の声が聞こえた。我々はその鳥を「ねじまき鳥」と呼んでいた。クミコがそう名づけたのだ。本当の名前は知らない。どんな姿をしているのかも知らない。でもいずれにせよねじまき鳥は毎日その近所の木立にやってきて、我々の属する静かな世界のねじを巻いた。(1巻、19ページ)
つまり「ねじまき鳥」というのは、ねじを巻くような鳴き声からたまたまつけた名前で、もしかしたら世界のねじを巻いているんじゃないかというちょっとユニークな連想をさせる存在だということです。物語が進むに従って、「ねじまき鳥」という言葉が表すものは少しずつ変わっていきます。
猫を探している途中で、15歳か16歳くらいの笠原メイという少女に出会います。近所に住んでいる女の子で、バイクの事故で足を少しひきずっています。〈僕〉と笠原メイの関わりも重要なんですけど、ざっくり省きます。
猫を見つけるために、奥さんのクミコは、占い師みたいな人に頼みます。マルタ島の不思議な水で修行を積んだ加納マルタ。加納マルタは、〈僕〉に妹の加納クレタが、綿谷ノボルに汚され、暴力的に犯されたのだと言います。
綿谷ノボルというのは、クミコのお兄さんです。これが少し変わった人で、表面上はすごくいい人に見えて、頭がよく、テレビのコメンテーターなんかもしていて、やがては政界に進出しようとする男です。〈僕〉は綿谷ノボルの仮面の下にあるなにかを感じとって嫌悪感を抱いたりもしています。
この綿谷ノボルが加納クレタを汚したというのは、性的な行為がないわけではないんですが、もっと抽象的ななにかです。綿谷ノボルという存在は終始漠然とした不気味な存在であり続け、悪と暴力を象徴するような男です。『ねじまき鳥クロニクル』は、〈僕〉が綿谷ノボルに立ち向かう話でもあります。
ある時、突然奥さんのクミコが姿を消してしまいます。
そこに理由がないわけではないんですが、どこか納得のいかない〈僕〉はいなくなった奥さんを取り戻そうとします。このいなくなった奥さんを取り戻そうとすることが、『ねじまき鳥クロニクル』の表面上の物語であり、メインストーリーになります。このメインストーリーにはこれ以上触れないでおきます。
『ねじまき鳥クロニクル』はある意味において、『千夜一夜物語』のような構造を持っています。つまり、色んな人間が〈僕〉に話をするんです。そうした点で、『1973年のピンボール』を連想させる部分もあります。
第1部、第2部で重要なのは、〈僕〉とクミコの過去の話、加納クレタの話と間宮中尉の話です。
〈僕〉とクミコがどのようにして出会ったか、クミコの家族の話、占い師のような本田さんとの関係、結婚した〈僕〉とクミコに起こったある出来事など、回想が語られます。
加納マルタの妹の加納クレタが語るのは、少し変わった性質に生まれて苦しみ、その苦しみに関連した出来事によって、ある仕事をするようになったこと。ここで語られるのは、本当の自分を見つけようとする話であり、精神的ななにかついてです。
間宮中尉が語るのは、戦争での体験です。満州での怖ろしい出来事。間宮中尉と〈僕〉は共通の知り合いである本田さんによって結びついていて、やがては井戸での体験で結びつくことになります。
第3部で重要なのは、赤坂ナツメグの話です。
赤坂ナツメグは、子供の頃、船の甲板から潜水艦を見た時に、あるイメージのようなものを見るんです。日本兵たちが動物を殺す風景。赤坂ナツメグと少し関わるんですが、そのイメージには頬にあざのある獣医が出てきます。その獣医はこんな風に考えます。
あるいは世界というのは、回転扉みたいにただそこをくるくるとまわるだけのものではないのだろうか、と薄れかける意識のなかで彼はふと思った。その仕切りのどこに入るかというのは、ただ単に足の踏み出し方の問題に過ぎないのではないだろうか。ある仕切りの中には虎が存在しているし、別の仕切りの中には虎は存在していないーー要するにそれだけのことではあるまいか。そこには論理的な連続性はほとんどないのだ。(3巻、158ページ)
回転扉のような世界というのは、『ねじまき鳥クロニクル』の中で重要なキーになっていて、〈現実世界〉とは違う世界があります。回転扉の違う仕切りの世界。加納クレタがやっていたように、〈僕〉がその壁を越えようとする物語でもあります。
物語の中で、〈僕〉はいくつか予言のようなものを聞きます。本田さんの「上に行くべきは上に行き、下に行くべきときには、いちばん深い井戸をみつけてその底に下りればよろしい」(1巻、113ページ)という予言通り、〈僕〉は近所に井戸を見つけます。そこは自殺者が出た呪われた家の庭にある井戸なんです。
ぼくはその井戸のある家を手に入れようとします。それが奥さんを取り戻すために重要なことだと思ったから。その土地を買うお金を稼ぐために、赤坂ナツメグと赤坂シナモンと屋敷であることをするようになります。
ある時〈僕〉は井戸の中に入っていたら、頬にあざができてしまったんですが、そのあざが赤坂ナツメグの関心を引き、赤坂ナツメグのやっていた仕事を引き継ぐようになるんです。
そんな〈僕〉の元に綿谷ノボルの代理人のような形で、牛河という男が現れ、〈僕〉が屋敷でやっていることを突き止めようとし、またそれをやめさせようとします。
加納クレタの精神的な世界の話、間宮中尉の怖ろしい体験、殺人と井戸の話、赤坂ナツメグの動物の虐殺の話、そうしたいくつかの話が〈僕〉が奥さんを取り戻そうとするメインストーリーに入り込んでいきます。そしてこれがこの小説の面白いところですが、この別々の物語が、ある意味において繋がっていくんです。
その繋がり方というのは、たとえば伊坂幸太郎の小説のように、ある話がある話と繋がるというように、ロジカルさを持って繋がっていくタイプではありません。回転扉の仕切りの向こう側にある別の世界に壁を乗り越えていくように、〈現実世界〉と〈語られる話〉というのは、奇妙に侵蝕しあっています。
たとえば「ねじまき鳥」という言葉。上の方で引きましたが、これは〈僕〉とクミコしか知らない言葉なはずです。「ねじまき鳥」というものは存在せず、勝手に名づけただけにすぎないからです。ところが他の物語で「ねじまき鳥」が表れてくるんです。
そうして〈僕〉はこう決意します。
僕の考えていることが本当に正しいかどうか、僕にはわからない。でもこの場所にいる僕はそれに勝たなくてはならない。これは僕にとっての戦争なのだ。(3巻、547ページ、原文では「それ」に傍点)
とまあそんな物語です。いくつかの要素をまとめると、こんな風に言えると思います。いなくなった奥さんを取り戻そうとする物語であり、そのために精神的な世界で壁を乗り越えようとする物語であり、大いなる悪、巨大な暴力に立ち向かおうとする物語であり、損なわれてしまった人を癒そうとする物語だと。
おそらく、読んでいてなにが書かれているのか分からないエピソードもあると思います。でもそれはあまり気にしなくてよくて、というのもすべての謎が解き明かされるタイプの小説ではないからです。いくつかの想像はできますが、答えはでません。
そもそもたとえば笠原メイの手紙が本文に組み込まれますが、それを誰がいつどこで読んでいるのかは分かりません。普通の1人称の小説は、すべてが主人公の視点、思考に集約されていくものですが、『ねじまき鳥クロニクル』の特に第3部では、物語の構造上、読者しか分からないような形式でエピソードが物語に組み込まれています。
そうなると、すべてを整合性を持って解釈することは難しいわけで、またそういう風にも作られていません。分からないところは分からないで大丈夫です。それぞれのエピソードは、基本的には圧倒的な暴力が描かれていることさえつかめればいいです。
単なるストーリーで描かれた小説を越えた、すごい小説であると同時に、メッセージが分かりづらい作品でもあります。単に戦争反対の小説では決してないですし、悲惨な戦争に対して平和を訴える小説でもない。みなさんはこの小説を読んで、一体どんな感想を抱かれるんでしょう。それもまた人それぞれだろうと思います。