村上春樹『1973年のピンボール』 | 文学どうでしょう

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1973年のピンボール (講談社文庫)/村上 春樹

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村上春樹『1973年のピンボール』(講談社文庫)を読みました。

風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』は3部作と言われています。〈僕〉と鼠というあだ名の友達、そしてジェイズ・バーが出てくるという共通点があります。その後、『ダンス・ダンス・ダンス』という作品も出ますけども。

風の歌を聴け』がまだしっかりとした長編の構造を持っていず、断片的な文章の集まりだったのと同じように、この『1973年のピンボール』の段階でも、まだばらばらなイメージの連なりに近いものがあります。そして物語の構造は〈僕〉の章と鼠の章にはっきり別れてしまっています。

羊をめぐる冒険』から、村上春樹の小説はしっかりした長編の構造を持ちはじめ、それと同時により抽象的なテーマを扱うようになります。より精神的ななにかを。ぼくは『羊をめぐる冒険』が一番好きと言ってよいほど好きな作品ですが、では『1973年のピンボール』が『羊をめぐる冒険』の前段階であって、長編に至らない未熟な作品かと言えば、そうでもないような気がします。

そもそもこの3部作は、〈僕〉という語り手が共通しているんですが、この〈僕〉というのが、キャラクター的にも小説の形式としても曲者なんです。自然主義の時代はともかく、〈僕〉=作者=村上春樹と読み解くことは今ではもうあまりないはずです。作者の経験なり考え方なりがある程度投影されていると考えられはしても。

そうなると、〈僕〉というのは、ある程度キャラクター性を持った人物であることになります。ところが、この〈僕〉のキャラクターは非常に分かりづらいんです。起こる出来事には極めて受動的で、周囲にはうまく溶け込んでいない。それでいて女の子にモテる。というかよく寝る。でもいなくなられる。

様々に起こる出来事は、〈僕〉の感情を揺さぶらないんです。正確に言うと、揺さぶることは揺さぶるんですが、一般の人の受け止め方とは少しずれている感じがするんです。これは本当に不思議なことだと思います。誰かがいなくなる。それはとても悲しいことなんですが、悲しみや怒りは伝わってこない。それはそういうものだ、という諦めのような態度がある。

感情的な喪失感ではなくて、感情を抜いた喪失感だけがある感じです。ちょっとこの感覚の説明が難しいですが。この〈僕〉の独特な感じは、3人称の小説だったらどうなるんだろうと想像をかき立てられます。

へらず口というか、ウィットに飛んだ受け答えをしたりなど、〈僕〉はかなり独特なキャラクター性を持っているにも関わらず、客体化(誰かの目で見た書き方)されていないため、その個性はうまく消えて、物語自体に溶け込んでいるんです。それが形式としてもキャラクターとしても曲者というわけです。

そうした没個性(のように見える)叙述の形式があるので、〈僕〉の物事に対するシニカルな対応はある程度共通しているのですが、『羊をめぐる冒険』ほど〈僕〉は行動的ではないので、『1973年のピンボール』にはこの作品にしかない魅力があると思ったりもします。

もう少し分かりやすく言うと、『羊をめぐる冒険』は誰かと会うことによって、様々な物語が展開していくわけです。一方、『1973年のピンボール』は回想に似た出来事が断片的に挿入されて成立しています。その断片的な挿話がとても印象的で、面白いんです。

作品のあらすじ


〈僕〉は色々な人から話を聞くんです。そもそもは見知らぬ土地の話を聞くのが好きだったんですが、その内に話を聞いてくれる人がいるということを聞きつけて、わざわざ話をしにくる人もでてきます。話を聞く、ということに関してこんな風に書かれています。

理由こそわからなかったけれど、誰もが誰かに対して、あるいはまた世界に対して何かを懸命に伝えたがっていた。それは僕に、段ボール箱にぎっしりと詰め込まれた猿の群れを思わせた。僕はそういった猿たちを一匹ずつ箱から取り出しては丁寧にほこりを払い、尻をパンと叩いて草原に放してやった。彼らのその後の行方はわからない。きっと何処かでどんぐりでも齧りながら死滅してしまったのだろう。結局はそういう運命であったのだ。(6ページ)


村上春樹は比喩の使い方が特徴的な作家ですが、この文章もかなり面白いですね。印象的です。〈僕〉に語った人々の中には自称土星生まれと金星生まれが一人ずついたりします。直子という女性が少しだけ出てきて、おそろしく退屈な街でプラットフォームを端から端までいつも散歩している犬の話をしたりします。直子という名前がついていることは気になります。『ノルウェイの森』を連想するので。

よく晴れた日曜日の朝、目覚めると〈僕〉の両脇に双子の女の子が眠っています。この双子がどこから来たのか、どういう生い立ちなのかはよく分かりません。双子を見分ける方法は一つで、よく着ているネイビー・ブルーのトレーナー・シャツの「208」「209」という番号からだけ。スーパー・マーケットの開店記念でもらったものらしい。でも服を入れ替えたら分からない。

〈僕〉はいつの間にか現れた双子の女の子と生活しながら、仕事をします。友達と翻訳の事務所をやっているんです。〈僕〉は、昔夢中になった3フリッパーの「スペースシップ」というピンボールのマシーンを探しはじめることになります。

その一方で、鼠の話が語られます。鼠というのは、『風の歌を聴け』に出てきた〈僕〉の友達です。お金持ちのお坊ちゃんらしいんですが、どうやら世界とのバランスが取れなくなってきています。

新聞の不用品売買コーナーで電動タイプライターを売ろうとしている女と鼠は出会います。この女と鼠は関係を持つようになり、週に一度、土曜日の夜に会うようになります。しかし、やがて鼠は街を出ることを決意します。

交わらない〈僕〉と鼠の話は、2人がよく通っていたジェイズ・バーで少しだけ重なり合います。〈僕〉は大きな喪失感と虚無を抱えながらピンボールのマシーンを探し、鼠は遠くへ行こうとする。過去の出来事の回想が断片的に挿入され、その印象的な文章、そしてイメージの連なりがこの作品の独特の魅力となっています。

起こる出来事、語られる物語がすべて読者に理解されるように書かれてはいません。比喩と暗示で紡がれているといってよいと思います。なぜそうなるのか、という問いに答えはないんです。直子のこと、双子はどこからやって来たのか、鼠はなぜ街を去るのか、などなど。その結果、物語は多くの謎を孕んでいるんです。そうした謎も物語の大きな魅力になっていると思います。

村上春樹はベストセラーになっていることもあって、毛嫌いする人も多いんですが、かなり面白いですよ。夢中になります。名前は知っているけど、ちょっと敬遠しているという人も、ぜひ読んでみてください。

明日は『羊をめぐる冒険』を紹介する予定です。