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アルベール・カミュ(窪田啓作訳)『異邦人』(新潮文庫)を読みました。
文学というか、小説は書き出しが重要である、みたいな説があるような気がしますが、数多い小説の中でも、ずば抜けて有名な書き出しの一つではないかと思います。こんな書き出しです。
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない。(6ページ)
『異邦人』を知らない人でも、書き出しの文はなんとなく知っている人もいたのではないでしょうか。よくパロディーとして使われたりもしてます。
以前、『車輪の下で』を取り上げた時に、文学入門のきっかけとして、カフカの『変身』や『異邦人』が多いのではないか、という趣旨のことを書いたので、読み返してみました。
結論から先に言うと、『異邦人』はすごく面白いし、文学入門はじめの一冊としてもよいと思います。
あらすじを紹介します。主人公はムルソーという男ですが、作中では〈私〉ですね。「きょう、ママンが死んだ」という書き出しから物語がスタートします。
〈私〉は母親の告別式だかなんだかに行きます。施設に預けていたんです。そして、その後マリイという女性と会ったり、レエモンという友達みたいなやつと海に行ったりします。
レエモンがちょっと危ない事をやっていて、〈私〉たちはトラブルに巻き込まれるんです。それにまつわる事件についてはあえて触れません。そして第1部が終わり、第2部は裁判の場面になります。
そういうお話です。この作品は実際に読んでもらいたいし、そしてできることなら驚いてほしいですね。ストーリーが不十分な案内になりましたが、読みどころのようなものを書いておきます。
物語には共感できるキャラクターと、そうではないキャラクターがいると思います。
『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンや『モンテクリスト伯』のエドモンド・ダンテスなどは、かなり苦しい場面に追いやられますが、読者は彼らが苦しい時は、一緒に苦しむんです。そして、彼らが喜ぶ時は一緒に喜びます。
その一方で、『異邦人』の主人公のムルソーは、実はとても共感しにくいキャラクターなんです。それは冒頭の文章からしてそうですよね。
恋人というか、マリイという女性が出てくるんですが、マリイがムルソーに結婚してよというと、いいよという。どっちでもいいんです。彼にとっては重要なことではないんですね。愛がなにかすら定かではない感じです。
読者は、ムルソーに対して、どこかしら自分とは違う、奇妙なずれのようなものを感じるはずです。なぜムルソーはこんな人物なのだろうか? ムルソーには何かが足りないのだろうか?
そうしたずれを感じつつも、一方で物語は理解しやすかったりもするんです。これは好みの問題かもしれませんが、わりとぼくにはすっと物語が染み込んできました。
第1部と第2部では、読みどころが変わります。第1部ではそうしたずれの感覚が重要なポイントになりますが、第2部では、ムルソーの考えに寄り添う形になっていきます。
特に最後の文辺りでは、ムルソーなりの結論というか、答えのようなものが出ます。世界との関わり方について。
これもまた文学ならではの観念的なものではあるんですが、難しいテーマというよりは、寓意的なもので、ある程度、どのようにも解釈できる感じです。
もうちょっと分かりやすくまとめるつもりで、いわゆる文学らしさというものについて考えてみます。
文学らしさというのは、おそらく、答えがないことだと思うんですよ。だから、ムルソーはこうだからこうだ、とはなかなかまとめられません。
そのもやもやが苦手な人もいると思うんですが、その答えのでない問いを考え続けることが、文学作品を読んだ時の正しいあり方だとも思うんです。
『異邦人』を読み終わった時、きっと色々な考えが自分の中から出てくるはずです。もしかしたら、それが感動に結びつくかもしれません。
そうした、文学への入門の一冊として、なかなかよい小説だと思います。100ページちょっとくらいの、わりと短い小説なので、文学作品を読んでみたい人は、ぜひ手にとってみてください。
あっ、名作にありがちなんですが、背表紙のあらすじはオチまで全部書いちゃってるんで、極力見ないようにして、読むのが吉かもしれませんよ。
つづいては、カフカの『変身』を紹介します。