医学生2人と研修医




4年ぶりのスキー⛷

雪も天気もまずまず

楽しいです照れ


若い頃は良く来たスキー場
年末のわりには空いてます


成長した子どもたちと
こんなふうに過ごせる日が来るなんて

子育て中は考えもしませんでした

色々あったけど
いま、幸せだなぁと思います




私、普段は一人暮らし

正確には、メイちゃんとの2人

もうすぐ2歳  女の子
かわいいでしょ💕

子どもたちが巣立った直後は
寂しくて どうにかなりそうでしたけど


すっかり慣れました❗️😊

食事も
お風呂も
出かけるのも

ぜーんぶ自由


好きなことができる

やめられません

大学生たちは
長期休暇には帰省しますが

それぞれ 数日ずつバラバラ

この冬
2年ぶりに
子どもたち3人がそろうことに

えー
いっぺんに帰ってくるの?😅

一人暮らしになり
1軒家からマンションに越してしまったので

子どもたちの
部屋がないガーン

二人までならまあ、OK

三人でも雑魚寝すればできるけどえー

長男は研修医1年目
帰って来れるのは2日間だけ


その2日間は
家族4人で
スキーに行くことにしました


これは4年前のスキー旅行

スキーに行くのは4年ぶり

積雪がやや心配ですが

今年は
受験生が久しぶりにいない❗️


高校と大学受験と医師国家試験が
ずっと続いてましたので😂

行ってきます照れ



音符音符末っ子の子育て 

早く大きくならないで音符音符

 

三人の子育てが終わって、つれづれ思うことは


ブルー音符ブルー音符子どもってそれぞれ全く違って面白い!ブルー音符ブルー音符


ということです

 

同じように育てたのに・・・よく言われますが、そんなことはないのでしょう
最初の子と、末っ子では 家庭の環境もお母さんの気持ちも体力も、全く違っています
何より、子どもたちの性格が全然違う

 

三男を育てながらよく思ったのは、

あんまり早く育たないでほしいということでした


長男と次男の時は、はやくおむつが取れてほしいハイハイ

はやくひとりで寝られるようになってほしい立ち上がる

と思っていましたが

三男は真逆です 


もう少しおむつしていてもいいのに・・・
えーもう一人で着替えができるの?
もう、一人で歯磨きできちゃうの
えーもう一人で髪の毛洗えるの?ショボーン

 

これが最後の子育てだと思うからなのか、

何か一つできるようになるたびに

うれしさの一方で

妙な寂しさを味わっていたのも事実です

 

三月生まれだったので

他の子と比べて成長が遅いのではといつも思っていました

 

体つきは三兄弟になかで実は一番大きいのですが

私の中ではいつまでの小さい末っ子の
○○ちゃんにっこり
「○○ちゃんは三月生まれだから

まだできなくても仕方ない


が私の口癖だったのでしょうか

 

三男が小学校の六年生ぐらいになっても

まだそんな言い訳をする私に腹が立ったのか

ある日長男が言いました


俺だって二月生まれだよ。○○とは一週間しか違わない」
確かに・・・二月末に生まれた長男と三月初め生まれの三男では

ほとんど違いはなかったのです


はじめてそのことに気づいて絶句びっくり

 それからは”三月生まれ”は封印しましたが

 

泣き虫で

いつもお兄ちゃんたちにくっついて歩いて

 

おじいちゃん、おばあちゃんからも一番可愛がられ

 

正直私も三男には甘々でしたラブ


こんなに甘やかしては、ろくな大人にならないなと思いつつも

 

最後の子どもがかわいくてかわいくて

大きくなってほしくなくて・・・


買い物も一緒にっこり

散歩も一緒歩く

お風呂も一緒ほんわか

寝るのも一緒おやすみ


五年生ぐらいまでは、三男とはいつも一緒にいたように思います

 

甘えんぼで、とても怖がりでした


さすがに高学年になって

お風呂は一人で入るようにしたら

やっぱり怖がって絶望


お風呂のドアを開けっぱなしにして

私に自分の視界にいてくれと言います


ちょっとその場を離れたら、裸ですっ飛んできて、


「ママ、ぼくが見えるところにいないとだめだよ

と半べそをかいています


その様子がおかしくてしばらく笑ってしまいました
そのあとすぐに、一人でドアを閉めて入れるようになりました

 

 

ところがその数か月後
ちゃんと湯船につかっているかと気になって、ドアをさっと開けると
勝手に開けるんじゃねーよ
と低い声で怒鳴られました


つい数か月前まで、一人じゃ怖いと泣いていた三男の変わりように

ひどく驚いた覚えがあります

 

 

私が離婚したのは、三男が小学四年生の時です


一番のパパっ子でしたので、お父さんの不在はとても寂しかったと思いますぐすん
まだ一緒の部屋で寝ていましたので

三男は夜になると決まって私の布団に潜り込んできましたふとん1


小さい時のように本を読んであげたり、背中に文字を書いてあってこをしたり


私自身、精神的にかなり消耗していましたので

寝付くまでのしばらくの時間をこうやって過ごせることが本当に貴重でした照れ


でももう四年生でしたから

こんな触れ合いの時間はまもなく終わってしまうのだろう

 

 

いつも惜しむような気持で過ごしていたのを

なつかしく思い出します

 

エッセイ「恩返し」④のつづきです

 

 

 

 

 

恩返し④ 女医の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

 

ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符   

 

この春の医学部入試は、「女性差別」が是正された結果、女子学生の合格率が上昇した。

 

現在女子医学生の割合は三割強であるが今後ますます増えていくと思われ、そのうち半数は女医という時代になっていくのではないか。

 

今までのように、女医がマイナー科を選んだり、仕事をセーブするということだけでは現場は立ち行かない。

女医が増えることで、受診のハードルが下がる、子育て経験を生かした診療ができるなど、歓迎すべき点もたくさんある。

 

が不足するマンパワーをどうやって補うのか、産婦人科で言えば、最も修羅場の周産期医療を誰が担うのか?

 

待ったなしの課題だが、いまだ解決策は見えず現場の閉塞感は強い。

 

だからこそ男女を問わず、興味や意欲のある人は産婦人科を選んでほしいし、こころざしをもって入った若い医師たちには何とか元気に仕事を続けてほしいと思う。

 

これから産婦人科医療を担っていく下の世代に、私のできることはあるだろうか?あの時先生の言った「恩返し」は果たしてできているのだろうか?

 

日々、自問自答している。

 

おわり

 ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  ブルー音符  

 

 

2年前同人誌に寄せたエッセイです

 

 

先日産婦人科の

後輩の女医さん達と食事をする機会があった

 

私より少し下の世代

臨床研修制度のはじまる前

医局制度の最後の頃に研修を受けた世代だ

 

中高生を育てるお母さんたちでもある

 

うち一人は東京都心の

超有名病院の産科医

 

聞くとその病院には、研修医も含め

30人近い産婦人科医がいるという爆  笑

 

大学病院だってそんな大所帯はあまり聞かない

さすがに都心のブランド病院だとびっくりした

 

8割が女医で

常に複数が産休や育休を取っているそうだ

 

「先生、うちの病院はね、女医が

子どもを産みに来るんですよ」ショボーン

 

あきらめとも嘲笑ともつかない表情で

40代のその女医さんは言う

 

もちろん、女医がその病院でお産をするという意味ではない

 

妊娠や出産を控える女医が

医者が多く労働条件のいいその病院に集まってくるということだ

 

「今の研修医は

お産の途中でも、緊急手術になりそうでも

(子どものお迎えでーす)って帰っちゃうんですよ

いいですねえ でもそれで研修になるんですかね」えー

 

ちょっとお酒の入ったその先生は

非難するというよりもむしろ、羨ましそうにそう言った

 

 

そう、医者が増えれば

ひとりにかかる負担が減って

女医でも普通に育休や育児時間を取ることが可能になる

 

ただこれは、都会の一流病院だからできること


深刻な産科医不足に悩んでいる病院が、まだまだ圧倒的に多数だ

 

 

女医だからと言って、家庭を犠牲にして

キャリアを積んでいく時代ではもうないだろう

 

もちろん男性の医師も

妻がどんな職業であれ

家庭責任をすべて押し付ける時代でもない

 

女子医学生や若い女医さんが増えている

 

10年後、20年後

彼女たちがボリュームゾーンになって

キャリアと私生活を両立することが日常の風景になった時

 

今までとは全然違う未来が広がっているかもしれないルンルン

 

自分のリタイアの時期を横目で見ながら

そんなことを考えている   

 

     完了

 

 

 

 

 

 

エッセイの「恩返し」③の続きです

 

恩返し① 女医の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

恩返し② 女医の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

恩返し③ 女医の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

 

 

高校生の頃、私は生理痛がひどく通学に支障をきたすほどだった。

 

住んでいた田舎町に女性の産婦人科医など、一人もいなかったのだと思う。

 

母は私を連れて行った病院で、中年の男性医師にむかって

「どうか、診察はしないでください」

と何度も懇願していた。

ひとごとのようにそれを聞いていたのを、不思議な感情とともに思い出す。

 

 

 

医学部に入ってからも、若い女の子や様々な事情を抱えた女性が、婦人科の受診をためらう姿を目の当たりにして、自然と今の道を選んだ。

 

だから私にとって、産婦人科の女医が増えるということは、とても喜ばしいことだ。

しかし、女性は妊娠もするし産休もとる。

子どもが小さいうちはフルに働くのはかなり厳しい。

その穴を埋めるのは同僚の男性医師や、後輩の未婚の女医ということになってしまう。

 

もちろんそれだけのせいではないが、人手が極端に足りないなか過酷な勤務を余儀なくされ、心を病んだり病気になって現場を離れた男性医師を何人か知っている。

 

私が勤めるクリニックには、生理痛に悩む若い子が毎日のようにやってくる。

 

昨日も十四歳の中学生が制服姿で訪れた。

 

痛みのせいで陸上部の練習を休みがちで、もし来年の高校受験にぶつかってはと気が気でないという。

 

「私も若いころひどかったんです」

と苦笑いする母親の横で、少女は椅子に浅く腰を掛け、少しだけ斜めを向いたままふわふわ目を泳がせている。

「そう、そんなに痛いんじゃ大変だよね。大丈夫、いきなり診察したりしないから」

私がそう言うと、こちらをちらっと見て小さくうなずいた。

 

 

「陸上は何をやってるの?」

 

「修学旅行はどこに行くの?」

など、軽く雑談しながら診療を進め、鎮痛剤の使い方、ピルの飲み方を丁寧に説明する。

母娘ともにすっきりした表情になって帰っていく姿を見るたびに、婦人科医になって良かったなと思う。

 

 

 

長男を産んで一年もたたずに年子の次男を妊娠し、その報告をした時のこと。

「また妊娠してしまってすみません」

と謝る私に、当時私の上司で産婦人科の科長だった先生はこう言った。

 

「本来なら祝福すべきことなのに、あなたにそんなことを言わせてしまうなんて、こちらこそごめんなさいね」と。

 

一回り以上先輩のその女性は、産婦人科医として活躍しながら二人のお子さんをしっかり育て上げていて、今でも私の最も尊敬するドクターである。

 

私が妊娠出産し、また乳幼児を抱えながらもなんとか仕事を続けられたのは、その先生の気遣いと優しさのおかげと言える。

 

数年後どうしても仕事が続けられずに病院を退職するとき

 

「こんなにお世話になっておきながら、何のお返しもできずに辞めることになって」

と涙ぐむ私に先生は

「私に返すことはないのよ。子育てが落ち着いて、あなたに余裕ができたら下の世代に返せばいいのだから」

と言って笑ってくれた。

 

子育てはとうに落ち着いていて、あの時の先生の年齢を私はすでに超えている。

 

エッセイ「恩返し⑤ 最終版」につづきます

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2年前に同人紙に寄稿した

 

エッセイ「恩返し」の続きです

 

恩返し① 女医の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

恩返し② 女子の進路 産婦人科の場合 | 三兄弟国公立医学部受験現役合格日記 シンママ産婦人科医の手抜き子育て (ameblo.jp)

 

 

先日、後輩の女医さんが近くに婦人科のクリニックを開いたというので、お祝いに駆けつけた。

 

ターミナル駅から歩いて二分、メデイカルモールと呼ばれる各科のクリニックが集まった新築のビルの最上階。

淡いクリーム色で統一された院内は、女性デザイナーが手掛けたらしくおしゃれで都会的なデザインだった。

真新しい診察台や使いやすそうなエコー機器を案内しながら、後輩の先生はその積極的な性格に似合わずひどく遠慮がちに言った。

 

「婦人科は専門外のことも多くて、色々教えてください」

 

彼女は複数の周産期センターで産科医療の中心で頑張ってきた、いわゆる産科のプロだ。

 

ずっと産科を専門にやっていくのだろうと思っていたから、今回の婦人科医への転身は私には意外だった。

 

 

ただ、一人っ子のお嬢さんが入園するタイミングで、仕事をどうしようか相談を受けたことがあったので、彼女なりに悩んでの決断であろうことは想像できる。

 

彼女ですら子育てと産科医を両立していくことはできないのかと思うと、やはり問題の根は深い。

 

もちろん婦人科のクリニックだって決して足りているわけではないから、彼女のような産科医も経験し子育て中の女医さんが、地域で診療をすることに十二分な意義はある。

 

きっと患者さんの立場の立ったいい診療ができるはずだ。

 

ただ子育て中の女医が、産科や救急など負担の多い仕事から離脱するのを見るたび、このまま女医の比率が増えていって大丈夫なのかと心配になる。

 

今、産婦人科を志す若い医師は女性の割合が圧倒的に多い。

 

五十代以上の年配の医師は男性が大半だから、景色はすっかり変わってしまった。

 

学会などに出かけても、年長者は男、若手は女ばかりと、そのコントラストは奇妙な程だ。

 

 

医学部の五年生になった長男に、産婦人科をめざす男子学生はいないのかと聞いてみた。

 

「えっ、なんで?あれは女性がやればいいんじゃない?男の出る幕じゃないよ」

 

とのんきに答えた。

 

あまりの意識の違いに愕然とする。

 

私が若いころ、産婦人科はキツイ、きたない、休暇が取れない医者の三K職場と言われ、特に女子はあまり行きたがらなかった。

 

最近の女性外来、レディースクリニックブームで産婦人科のイメージもずいぶん変わったのだろう。

 

 

対応できる女医が増えたせいもあるが、若い未婚の患者はもとよりすべての年代で、診察を「女医希望」や「女医限定」とする患者はもう日常だ。

 

産科などの負担の多い常勤医は男性医師や子どものいない女医。

パート勤務や健診業務は子持ちの女医というすみわけが、なんとなくできつつある。

 

最近の医学生は合理的だから、大変な割には男というだけで冷遇されそうな科にはいきたくないということだろう。

 

 

 

エッセイ 恩返し④につづきます

 

 

 

女医の進路

 

エッセイの続きです

 

 

 

 

 

 

平成十六年から医師の「新研修医制度」が始まった。

 

これは医師になりたての二年間、内科、外科、小児科などの多数の科をローテーションし、基本的な臨床能力を身に着けさせるというものである。

 

自分の専門の科以外は診察できない医者ばかりという反省に立って始まった、

理念としては大変すばらしい制度なのだが、

多くの問題を引き起こした。

 

それまで、多くの医師は卒後すぐに大学の医局に所属しそこで研修を受けた。

 

研修医は一人前になるべく医局の先輩から指導を受け、また医局員たちはアルバイトや就職先などをあっせんしてもらう。

 

このように医局員の人事権をトップである教授が一手に握る形になっていた。

 

「白い巨塔」の世界である。

 

医局の人事にはほぼ逆らえないので、人気のない地方の病院に、

「二年たったら戻してやるから」とか、

「帰ったら大学院に行って学位を取らせてやるから」などと適当な約束をして赴任させた。

 

この半強制的な人事で、地域医療が何とか守られていたのも事実である。

 

それが新しい制度になってから、自由に研修先を選べるようになったのだ。

 

封建的で待遇も悪い大学医局に残ろうとするものは激減し、都会のスマートで研修条件の整った病院に新人医師たちが集中してしまった。

 

こうして大学の医局は医師不足から力を失い、地域医療は次々崩壊していく。

 

地域の産科医療もその影響をもろに受けた。平成十八年に起きた福島県の大野病院事件で、産科医の不足は決定的となる。

 

これはおりからの医師不足を受け、たった一人で産科医療を担っていたベテランの医師が、術後の母体死亡をめぐって逮捕されたのだ。

 

診療中に手錠をかけられて警察に連行されていく姿が報道され、産科医の中に衝撃が走った。

母体死亡はどんなに気をつけていても避けられない場合があり、これも前置胎盤の癒着という非常に重篤でハイリスクな病態である。

それを救命できなかったら即、刑事罰を受けるということになっては、怖くて産科医などやっていられない。

 

この直後から産婦人科の志望者はますます減少し、各地で産科病院の閉鎖が相次いだ。

 

妊婦のたらいまわし事件がおき、近隣の市町村にお産できるところが一つもないなど深刻な事態となっていく。

 

私はこの頃、子育てをしながら産科医を続けていた。

子どもなど産まないつもりだったのだが、なぜか次々妊娠し、気づいたら三児の母になっていた。

 

夫も同じぐらい多忙な内科医だったので、あまりあてにならない。

別々の保育園に預けたり、シッターさんを頼んだり、田舎の母親に上京してもらったり。なんだか毎日バタバタしていて、どうやって育てたかあまり記憶がない。

 

でも断片的に覚えているのは、夜中に緊急手術に呼ばれ、子ども達を引きずるように車に乗せ深夜の病院に急いだこと。

看護師の控室で寝かせていたら、ぐずりだして師長さんがあやしてくれた。

 

当直勤務の日、いつもの保育園に迎えに行って、そのまま夜間保育に預けようとしたら、四歳ぐらいだった長男が逃げ出したこと。

やっと迎えに来てくれたと思ったらまた夜も保育園では、よほどいやだったのだろう。

 

でも当時まったく余裕のなかった私は、泣き叫ぶ長男を捕まえてしかりつけ、無理やり夜間保育に預けた。

 

次男は病気がちでよく入院したのだが、病室に付き添いで泊まった次の朝、その日初めて会うシッターさんにこどもを託して出勤するときの切ない気持ち。

 

次男はその時、ぜんそく発作がなかなか治まらず、肺炎も併発し高熱が続いていた。でも、私は仕事をやめようとは思わなかった。

産婦人科医が本当に足りなかったせいもあるが、こんなに大変な育児に自分のすべての時間をかけて向き合うことはとてもできそうになかったからだ。

 

仕事が大変だからと育児はできる限り手間を省いて、子育て中だからと仕事が十分にできないことの言い訳をどこかで探していた。

 

こんな綱渡りのような状態が長く続くはずもなく、末っ子が小学校に上がる前に私は体調を崩し、産婦人科の第一線を退いた。

 

仕事は続けたが、当直勤務なし、緊急の呼び出しもなしという産科としてははなはだ不満足な状態で、ずいぶん悩んだものだ。

 

同僚の男性医師が代わりに夜の勤務を担ってくれていたのは言うまでもない。

 

エッセイ 「恩返し③」につづきます

 

 

 

数年前から「○○倶楽部」という文芸サークルに入っています

 

会員は二十数人

月に一度、小説や詩、散文、エッセイなどを持ち寄り合評

年一回は同人誌も発行しています

 

これは私が2年前、同人誌に寄せた

「恩返し」というエッセイ

女医の進路について書きました

長いので、何度かに分けますね

当時の原文のままです

 

キラキラ       キラキラ       キラキラ      キラキラ    キラキラ      キラキラ        

 

以前、東京医科大学が女子受験生に対して

一律減点という不正操作を行っていたことが明らかになった。

 

これに対し女性差別・憲法違反の声がにわかに高まり、

大学側へ批判が殺到、校門前でデモまで開かれた。

 

さらに文科省の調査により、他の複数の大学で同様の不正が行われていたことが判明。

また不合格とされた女子受験生たちが大学を相手取り損害賠償を求める訴訟を起こしたりと、事態は急展開した。

 

何度もマスコミにとり上げられ、各界の評論家などが持論を展開したので、耳にしたことがある人も多いと思う。

 

ただ内情を知る医師たち、とりわけ現場の女医たちはこの騒動を意外と冷ややかに眺めているように思う。

 

もちろん入試は公正であるべきだし、女性だという理由だけで差別されることがあってはならない

 

という「圧倒的な真実」の前で、何とも複雑な思いでいる。

まともな入試をやったら、どんどん女子が増えてしまう。

女子学生のほうが真面目で成績が良いというのは誰でも知っている。

 

これ以上女医が増えると、臨床の現場は回らなくなってしまうという危惧からだ。

 

私が医大生だった昭和の終わりごろ、医学部の女子学生の比率は大体一割。女子が多いとされている大学でもせいぜい二割だった。

私の同級生の女子十二名はほとんどがマイナーと呼ばれる皮膚科や耳鼻科、放射線科などを選び、外科系は産婦人科に進んだ私と小児外科のもう一人だけ。

 

つまり、女子学生そのものが全くのマイナーな存在で、その進路など大した問題にされていなかったのである。

医局を選ぶ段階でも、「女はいらない」と公言する教授が何人もいたし、例の小児外科に進んだ友人は入局の相談に行った際、「六年間は妊娠いたしません」という念書を書かされそうになったと言う。

今なら確実にセクハラである。

 

比較的早く一人前になれて、家庭生活との両立が可能そうに見え、先輩女医たちも多く進んだマイナー科を選ぶ女性が多かったのは必然であろう。

 

研修医として産婦人科に入局した時、十数名いた医局員はほとんどが男性だった。

三年上の先輩に一人だけシングルの女性がいたが、既婚者や子持ちの女医はいなかった。

 

私自身も子育てをしながら働くなどというイメージはまったく持っておらず、キャリアの中断になる結婚や出産は一生しないつもりでいた。

卒後比較的短いうちに結婚・出産した同級生は、もとどおりに復職できるはずもなく、いったん退職をしたり短時間のパート医になっていて、気の毒に思ったほどだ。

 

産婦人科の仕事は激務というか拘束時間が非常に長い。お産はとにかく二十四時間三百六十五日いつ始まるかわからないし、急変することも多く予測がつきにくい。

 

その割に内科や外科のように人数が多くないので、勤務時間がどうしても長くなってしまう。

 

例えば市中の病院では産婦人科医が三~四人というところが普通なので、少なくとも四日に一度当直があって、さらに手術は複数で行うのでそれ以外にも休日や夜間の呼び出しがある。

 

月の残業時間が二百時間を超えるようなことが普通に起きてしまう。

これではどんなにやる気や体力があっても子育てとの両立は不可能だし、男性にしても家庭責任を果たすことはできない。

 

そこで産婦人科医の多くが独身の男女か、専業主婦の奥さんに家事育児を丸投げしている男性に限られていた。

そうやっていびつな形でバランスを保っていたのである。

 

これは産婦人科医や医療職に限らず、昭和から平成の半ば頃までのすべての業界に言えることだろうと思う。

 

「恩返し②」へつづきます

 

image

 

 

 

 

 

 

初めて、ボルダリングに挑戦
 
ただ登るだけかと思ったら
 
ルールが意外に難しい
 
インストラクター付きの「入門者コース」
 
なかなか、面白かったです爆笑
 
帰りに、遠回りして
 
イルミネーション見ました
 
若いカップルがたくさんウインクドキドキ
 
クリスマスですね
街が華やいでいますニコニコニコニコ音譜音譜

これで、三人の子どもたちの医学部受験物語は終了です

 

3年前、三男の大学進学とともに一人暮らしになった私は

心細くて寂しくて

 

小さいころの写真を繰り返し眺めては

毎晩泣いてばかりでした

 

このまま、またうつが悪化してしまうのではという恐れ

 

ただ寂しさは少しずつ薄れ、ひとり暮らしにもすっかり慣れました

 

いろいろなことがありましたが、思い返せば私にとって

どれもがかけがえのない宝物のような日々でした

 

この大事な記憶を薄れさせたくなくて

記録をしておこうと書き始めのですが

日々の生活に紛れて、なかなか進みません

 

いっそ、人の目に触れさせれば、書き続けることができるのでは

そう思ってブログを始めることにしました

 

おかげさまで、想像をはるかに超えるたくさんの方に読んでいただき

 

フォローしていただき、いいねをしてもらい

時には暖かいメッセージまで

 

あっという間に書き上げることができました

 

心から感謝申し上げます

ありがとうございました照れ

 

医学部合格のコツのようなものを期待されて読んでくださった方には

大変申し訳ないのですが

私にはこれと言って思い浮かぶことがありません

 

ただ、3人の子育てを終えて思うことは

 

子どもにはそれぞれ伸びる時期というものがあり

子どもによって全然違うということです

 

例えばうちの子を例にとると

 

長男は

父親が不倫をして家族を捨てた中3の時

何か覚悟のようなものができ少し大人になりました

 

そしてALSという難病で闘病の末、大好きだった祖母が亡くなった高2の時

それまで野球中心だった彼の

勉強に対する姿勢がガラッと変わりました

 

次男は小学校3〜4年の時でしょうか

 

実は、次男は小学1年生の時クラスや放課後ルームで

ひどいいじめにあい

登校をしぶりがちに

小2で別の小学校に転入させています

 

そこで3年生の時出会った担任の先生が素晴らしい方でしたニコニコ

 

それまで、いじめられっ子で、引っ込み思案

太っていて運動も苦手でした

その先生に認められ、みんなの前でほめられているうちに

自信を付けた次男は

どんどん変わっていきました

 

顔つきから、体形、歩く姿勢まで

ほんとうに驚くほどでした

4年生になるころには明るく、おしゃべりな少年に

成績もぐんと伸びました

運動も得意になり、6年生で運動会のリレーのアンカーを走りました

中学受験の時は、本当によく勉強していましたね

健康を心配し

もう良い加減にやめなさい

という私と

いやだ、課題が終わるまで寝ない

という次男の間で、よく言い合いをしたものです

 

子どもというのは先生によってこんなにも変わるのかびっくりマーク

 

あの時、転校させなかったら

あの先生に出会わなかったら・・・

 

想像したくないです

 

 

三男は

私がうつ病の悪化で三度目の入院をした中2の時です

 

離婚後しばらくして、私の体調がどんどん悪化していくのを間近で見て

子どもたちはひどく動揺します 

 

このまま、自分たちは学校生活を続けることができるのか

受験や進学が叶うのか

 

さぞ不安だったことと思います

 

中学受験をいやがって塾を辞めた三男

勉強とは無縁だった三男ですが

そのころから高校受験を目指し頑張るようになりました

 

 

子どもにはそれぞれ

節目のようなものがあって

それが何かのきっかけと重なった時

大きく成長するのではないか

 

でもそれは前もって親にはわからない

ただ見守って、待ってあげるだけです

 

子育てはほんとに難しい

言い方は悪いがばくちのようで

先が見えないし思い通りにはいきません

 

何が良かったのか悪かったのか

すべては紙一重

運に任せることも多く

そういう意味では、私も子どもたちも

本当にラッキーでした

 

元夫が家を出て行ったとき、

私は将来が不安で、どうしていいかわからず途方にくれました

 

小中学生の男子3人 

 

持病を抱えた私に、きちんと育て上げることができるのか

彼らが成人になるまで、私の体と心は耐えられるのだろうか

 

 

私が大学受験に際し、子どもたちに言い続けたのは

 

勉強しなさいでも、医学部に行きなさいでもなく

 

浪人だけはさせられない でした

 

これは、経済的なこともありますが

私の病気からくる切羽詰まった感覚です

 

いつまた持病が悪化し

入院したり、収入が絶たれるかもしれない

 

そのとき、大学にさえ進んでいれば

何とかなるだろう

いざとなったら、奨学金や、アルバイト

授業料免除を受ければ、親がいなくても

学業を続けられるのではないか

浪人生ではどうにもなりません

そのために子どもたちには

少しでも早く大学に入ってもらう必要がありました

 

何学部でも

どこの大学でもいいから

(もちろん私立医学部は論外ですが)

 

とにかく現役で入ってくれ

 

子どもたちにとっては大変なプレッシャーだったと思いますが

私も必死でした

 

他の選択肢が我が家にはありませんでしたから

 

実際、長男の大学受験の直前

私の体調は最悪

 

閉鎖病棟のベッドの上で、動かない自分の身体を持て余しながら、子どもたちへの

申し訳なさでいっぱいでした

その時の苦い感情は、忘れることができません

 

受験生とはいえ家族の一員です

その家庭ごとの事情を理解し

いろんな制約の中で力を尽くす

もう高校生なのですから、できるはずです

 

この感覚は、私の実体験に基づいています

私の生家も、貧困とまでは言えませんが、経済的に厳しく兄弟は3人

浪人も、私立もだめと言われ、必死で勉強しました

そして私も弟も、奨学金と授業料免除、アルバイトで医学部を卒業しています

 

 

大学にさえ入れば何とかなるというこの感覚はもう通用しないのでは

最近そう思うようになりました

現在の大学生の置かれた、大変厳しい経済状況を考えると、

大学生が独力で何とかなる時代ではもうありません

親ガチャという言葉も流行りました

大学など高等教育の個人負担を何とかしないとこの国の未来は危うい

そう感じています

 

 

もう一つ

子どもたちが小さいころからよく仕事の話をしていました

 

これは心がけてと言うよりも

私が話したかったから

 

夕食時やくつろいでいる時間に

 

診察室で出会った患者さんや、病棟や分娩室、手術室での出来事

 

医者には守秘義務がありますので

ありのまま伝えるわけではありませんが

 

子どもたちの年齢や発達に合わせて、理解できる範囲で

 

若者の性、望まない妊娠や中絶、流産や死産、不妊治療のこと

がん治療のこと、亡くなった患者さんや家族の話 

時にはDV・性暴力や虐待の話まで

 

子どもたちは驚いたり、時には眉をひそめながら聞いていました

 

医学部に進ませようとか、医者に興味を持たせようとか思ったわけではありません

 

私が説得力を持ってできる話はそれだけでしたから

 

このことを通して子どもたちに

社会への関心をもってもらいたかった

自分とは全く違う立場の人、病気の人、弱い人、困っている人たちのことを

想像できる人間になってほしかったのです

 

 

 

親御さん方はぜひ、自分の経験や気づいたこと、日々学んでいることを子どもに話してほしいと思います

高校生になっていきなりでは難しいので、できれば小さいころから

 

 

仕事でも、日々の生活でも

困ったこと、驚いたこと、感じたこと

何でも話して共有して、一緒に考えてはどうでしょう

 

子どもたちの視線が外へ向くように

 

そして将来を考えるきっかけとなるように

 

 

 

受験の話はこれで終えますが

 

今後は日々の雑感・子育て中の思い出話など

とりとめないことをのんびりつづっていくつもりですので

 

よろしかったらまたお付き合いください

 

 

そして、これから受験本番を迎えるお子様、お母さま方

健康に気を付けて、力を尽くせますよう

陰ながらお祈りしております

 

頑張ってくださいね