女医の進路

 

エッセイの続きです

 

 

 

 

 

 

平成十六年から医師の「新研修医制度」が始まった。

 

これは医師になりたての二年間、内科、外科、小児科などの多数の科をローテーションし、基本的な臨床能力を身に着けさせるというものである。

 

自分の専門の科以外は診察できない医者ばかりという反省に立って始まった、

理念としては大変すばらしい制度なのだが、

多くの問題を引き起こした。

 

それまで、多くの医師は卒後すぐに大学の医局に所属しそこで研修を受けた。

 

研修医は一人前になるべく医局の先輩から指導を受け、また医局員たちはアルバイトや就職先などをあっせんしてもらう。

 

このように医局員の人事権をトップである教授が一手に握る形になっていた。

 

「白い巨塔」の世界である。

 

医局の人事にはほぼ逆らえないので、人気のない地方の病院に、

「二年たったら戻してやるから」とか、

「帰ったら大学院に行って学位を取らせてやるから」などと適当な約束をして赴任させた。

 

この半強制的な人事で、地域医療が何とか守られていたのも事実である。

 

それが新しい制度になってから、自由に研修先を選べるようになったのだ。

 

封建的で待遇も悪い大学医局に残ろうとするものは激減し、都会のスマートで研修条件の整った病院に新人医師たちが集中してしまった。

 

こうして大学の医局は医師不足から力を失い、地域医療は次々崩壊していく。

 

地域の産科医療もその影響をもろに受けた。平成十八年に起きた福島県の大野病院事件で、産科医の不足は決定的となる。

 

これはおりからの医師不足を受け、たった一人で産科医療を担っていたベテランの医師が、術後の母体死亡をめぐって逮捕されたのだ。

 

診療中に手錠をかけられて警察に連行されていく姿が報道され、産科医の中に衝撃が走った。

母体死亡はどんなに気をつけていても避けられない場合があり、これも前置胎盤の癒着という非常に重篤でハイリスクな病態である。

それを救命できなかったら即、刑事罰を受けるということになっては、怖くて産科医などやっていられない。

 

この直後から産婦人科の志望者はますます減少し、各地で産科病院の閉鎖が相次いだ。

 

妊婦のたらいまわし事件がおき、近隣の市町村にお産できるところが一つもないなど深刻な事態となっていく。

 

私はこの頃、子育てをしながら産科医を続けていた。

子どもなど産まないつもりだったのだが、なぜか次々妊娠し、気づいたら三児の母になっていた。

 

夫も同じぐらい多忙な内科医だったので、あまりあてにならない。

別々の保育園に預けたり、シッターさんを頼んだり、田舎の母親に上京してもらったり。なんだか毎日バタバタしていて、どうやって育てたかあまり記憶がない。

 

でも断片的に覚えているのは、夜中に緊急手術に呼ばれ、子ども達を引きずるように車に乗せ深夜の病院に急いだこと。

看護師の控室で寝かせていたら、ぐずりだして師長さんがあやしてくれた。

 

当直勤務の日、いつもの保育園に迎えに行って、そのまま夜間保育に預けようとしたら、四歳ぐらいだった長男が逃げ出したこと。

やっと迎えに来てくれたと思ったらまた夜も保育園では、よほどいやだったのだろう。

 

でも当時まったく余裕のなかった私は、泣き叫ぶ長男を捕まえてしかりつけ、無理やり夜間保育に預けた。

 

次男は病気がちでよく入院したのだが、病室に付き添いで泊まった次の朝、その日初めて会うシッターさんにこどもを託して出勤するときの切ない気持ち。

 

次男はその時、ぜんそく発作がなかなか治まらず、肺炎も併発し高熱が続いていた。でも、私は仕事をやめようとは思わなかった。

産婦人科医が本当に足りなかったせいもあるが、こんなに大変な育児に自分のすべての時間をかけて向き合うことはとてもできそうになかったからだ。

 

仕事が大変だからと育児はできる限り手間を省いて、子育て中だからと仕事が十分にできないことの言い訳をどこかで探していた。

 

こんな綱渡りのような状態が長く続くはずもなく、末っ子が小学校に上がる前に私は体調を崩し、産婦人科の第一線を退いた。

 

仕事は続けたが、当直勤務なし、緊急の呼び出しもなしという産科としてははなはだ不満足な状態で、ずいぶん悩んだものだ。

 

同僚の男性医師が代わりに夜の勤務を担ってくれていたのは言うまでもない。

 

エッセイ 「恩返し③」につづきます