【資料館】東京・志茂の「荒川知水資料館」。荒川放水路の歴史や災害時の情報を学ぶ!
荒川流域の人と情報の交流、また北区における河川公園管理の拠点として開発された東京都北区にある「荒川知水資料館」。荒川に関するさまざまな学習や、制作物の発表・情報交換ができる情報発信基地としての機能を果たす資料館に行って参りました。
この日は東京都北区志茂をぶらり散歩しておりましたので、荒川の洪水、水害の歴史や自然環境などを小生も学んでみたいと思います。
早速その資料館を覗いてみたいと思います。
館内に入るとまず目に飛び込んでくるのが、荒川情報。
荒川の流域人口は約980万人、荒川全流域の人口密度は約3,300人/㎢で、利根川・淀川に次いで日本の主要河川の中では第三位の人口、鶴見川についで第二位の人口密度となっています。
荒川を一望してみましょう。
荒川は標高2,475メートルの甲武信ヶ岳に源を発し、関東平野を下り東京湾にそそぐ全長173キロメートルの一級河川です。下流域河口22キロメートルまでは人口の放水路で、全国の一級河川の中でも最も人口密度の高い地域を流れています。そして、埼玉県鴻巣(こうのす)市と吉見町の間を流れる荒川の川幅は2537メートルで、「日本一の川幅」とされています。
毎年10月に河川敷で開かれるこうのす花火大会では2年前、フィナーレで打ち上げた4尺玉が「世界最大の打ち上げ花火玉」とギネス認定されました。
巨大な花火玉を打ち上げるには長い安全距離が必要で、広い河川敷は花火師の間で大型花火の適地と知られています。
荒川はその名前のとおり「荒ぶる川」となり、過去幾度となく洪水による氾濫を繰り返してきました。古くは「三大実録」に、天安2年(858)秋、武蔵国水勞という記述があり、鎌倉時代に書かれた「吾妻鏡」には、建仁元年(1201)8月の暴風雨で、下総葛飾郡の海溢れて4,000人余が漂没したことが記されています。
また、建保2~3年(1214~15)頃、鴨長明が編纂したとされる「発心集」には、武州入間河原の事、として、堤の中に畑や家屋があったこと、洪水により堤が切れ、天井まで水が溢れ、やがてゆるゆると家が押し流されていく様子が残されています。
ほかにも、慶長元年(1596)には100年に1度といわれる大洪水があったこと、慶長19年(1614)諸国出水、元和3年(1617)入間川洪水、元禄元年(1688)荒川洪水など、文字に残された水害は数知れません。それらはまるで「荒ぶる川」を決して侮ってはいけないことを、後世の私たちに伝えているかのようです。
荒川の反乱をシミュレーションしたフィクションドキュメンタリー「荒川氾濫」を見ると、いかに荒川が「荒ぶる川」なのか分かるかと思います。
その「荒ぶる川」の水害対策の必要性を受け、利根川や多摩川に優先し荒川放水路の建設が行われました。荒川放水路は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指します。
国家的な大事業だった荒川放水路工事。世界では世紀最大の土木事業として言われたパナマ運河が有名ですね。荒川放水路工事は、当時の日本としては最大級の国家プロジェクト。20年の歳月をかけて完成した放水路は、荒川の”本流”に認められたいまも、首都圏を洪水の危険から守り続けています。
荒川放水路の建設にあたり、現場で指揮とったのが、戦前の土木技師・青山士(あきら)氏です。パナマ運河の建設工事に参加した日本人唯一の技師で、そこで学んだ当時最先端の土木技術は放水路工事、なかでも旧岩淵水門の基礎工事に遺憾なく発揮されています。
パナマ運河の建設工事は予想以上に困難を極めるものでした。パナマは熱帯のジャングルで厳しい気候のうえ、猛獣などの危険と常に隣り合わせでした。また、黄熱病やマラリアなどの伝染病が常に流行していて、命を落とす者や、働くことを断念して帰国する者も数多くいました。
そのような過酷な状況の中でも青山は勤勉に働き、1910年には設計技師にまで昇格しました。彼の仕事の評価は常に最優秀(excellent)で、真面目さだけでなく技術の高さもきちんと評価されていました。
館内ではミニパナマ展も開催されています。
如何でしょうか。北区赤羽の荒川(かつての荒川放水路)と隅田川(かつての荒川本流)の分岐点、 通称「赤水門」「青水門」と呼ばれる岩淵水門のほとりにある「荒川知水資料館」。通称はアモア、「パナマ・インターオセアニック運河博物館」と姉妹館になっています。
皆様も岩淵水門(赤水門)や岩淵水門(青水門)を見学した折には、「荒ぶる川」の氾濫の歴史を追い、治水の大切さを学んでみては如何でしょうか。
written by たみと@プロマリ