・エドワード・バッチ博士(バッチ・フラワー・レメディの創始者)
“未遂に終わった歪曲は、未遂に終わった破壊よりものはるかに強力な武器だ……人類には常に選択の余地がなければならない。教師が自分の作品を世界に示すやいなや、その作品をゆがめたものが生まれなければならない……人々が黄金と屑(くず)のいずれかを選択できるように、歪曲されたものがでてこなければならないのだ。”
(「フラワー・レメディ・ハンドブック」(中央アート出版社)より)
*バッチのフラワー・レメディのことは多くの方が御存じだと思います。私は、彼については、ピーター・トムプキンズ/クリストファー・バード共著「植物の神秘生活」(工作舎)を読んで初めて知ったのですが(ただ、名前がバックになってました)、何でもパラケルススの信奉者でもあり、病人に必要なのは病気からの回復だけでなく、治療法からの回復も必要だとの考えで、その理想にかなう治療法を探求して、ついにフラワー・レメディを開発したという内容でした。かなり霊的な方でもあったらしく、たった38種類のレメディで、ほとんどの病気を治してしまったとも伝えられています。ここで紹介させていただいた彼の言葉においては、ニセモノが出て来るのは必然であって、むしろそれは我々が意識的な選択をするために必要なものとして肯定的な見方がされています。実はスウェーデンボルグも同じようなことを言っており、おそらくこの事は真理に対する異端や謬説の発生についても当てはまるはずです。我々の霊的な成長のためには、意識的に真と偽を見分けるというプロセスが必要なのであって、ただ盲目的、惰性的な信仰では、黄金ではなく屑を選択することになってしまいます。
*ただ、そうすると間違って屑を選択してしまった人たちはどうなるのか、という事になりますが、出口王仁三郎聖師が『信仰はミタマ相応』と言われたように、結局は自己責任ということにならざるをえないようです。カルマ的なものもあるのかもしれませんが、日々神仏の導きを乞いつつ探求し続けるなら、(シュタイナーによれば、霊的なものを信じても意識的に霊性を探求しなければ意味がありません)、おそらくニセモノに惑わされることはないはずですし、判断に迷いながら葛藤することは、我々の霊性を成長させる糧となります。
*出口王仁三郎聖師は、「病人には『霊界物語』の天国篇(47巻と48巻)を読んで聞かせよ」と言われました。身魂が天国に籍を置き霊体が健全になると、顕幽一致・霊肉一致の法則によって、肉体もまた自動的に癒やされるのだそうです。そして、その天国にはたくさんの花があるとかで、天国と相応させるために、聖師は神苑に様々な種類の花を植えられ、冬でも花を絶やさないように、温室までも作られました。ならば、周囲に花を置くなりして積極的に天国的な環境の中に身を置くようにすれば、それで自動的に癒しがもたらされるということもあるかもしれません。フラワー・レメディとは、簡単に言えば花の波動を転写したものですが、これは花を通じて天国の波動を帯びることで、肉体を治そうとするものだと言えるかもしれません。
・「直感」は吟味されねばならない 〔スウェーデンボルグ〕
“真理に関して一瞬で納得すること、何らの疑いも残さないほど真理が一瞬に確認されることは、だれにも許されないことです。それは秩序の法則に反します。理由は、そのように植えつけられた真理は、鵜呑みの真理になり、広がりがなく、余裕のないものになるからです。来世ではこのような真理は、鈍重なものとして表象されます。それ自身適用が利く善を受け入れない性格があります。したがって来世で善霊たちの眼前に、ある種の真理が明確な経験をとおして提示されると、それに対立するものがすぐさま提示され、これが疑いを呼び起こします。このようにして善霊たちは、それがはたして真理かどうか吟味するチャンスが与えられます。つまり論拠を集め、その真理を自分の心に合理的に納めることになります。このようにして、その真理に関する限り、対立するものも含め、本人の霊的視力に広がりが生まれます。こうして理性によって真理の性格の全容を見、感じとることができるとともに、物事の状態に応じて天界から流入があるのを認めます。つまり真理は状況にしたがって、さまざまな形を帯びるわけです。(「天界の秘儀」から)”
(「メディテーション 1」アルカナ出版より)
*20年前、BS朝日で「英国・アイルランド オーガニック食紀行」という番組をやっていたのですが、その中でフラワー・レメディの特集がありました(『バッチ博士の遺産』)。レメディをつくるにあたり、水を張ったガラス製のカップに花びらを入れ、それを日光に当てていたのが印象的でした。また、レメディを振盪させることはなく、その点がホメオパシーとは異なるようですが、原理は共通しているのではないかと思います。ホメオパシー創始者のサミュエル・ハーネマンは、スウェーデンボルグの影響を受けていたことが、19世紀の高名なホメオパスであったジェームス・タイラー・ケントによって指摘されていますが(参考:エリナ・ピーブルズ『同種療法と新教会』(ロビン・ラーセン著「エマヌエル・スウェーデンボルグ 持続するヴィジョン」(春秋社)より)、このホメオパシーの理論は「霊界物語」の『天祥地瑞』の中の祝詞において説かれる、『神の生き宮である人の世界には本来病気というものはないが、身魂を汚してしまって禽獣虫魚の身魂と成り果ててしまっているので人間は病気になって苦しむのだ』という教えと通ずるものがあるようです。ちなみに、出口聖師は、この祝詞を大晦日の晩に唱えるよう指示されているのですが、素晴らしい祝詞ですので、ぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思います。
・大晦日の神事
“王仁が霊界物語を読ませるのを楽しみにしてゐると思ってゐるのか、年越しには七十五巻の太元顕津男(おほおもとあきつを)の神の祝詞を読んで過ごさねばならないのだ。(昭和十七年十二月三十一日午後十一時五十五分までかかった由)”
(木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)
『謹み畏み敬ひも白さく、高天原の紫微宮に大坐します天之峯火夫の神、高鉾の神、神鉾の神を始め奉り、天津神国津神八百万の神等の御前に白さく。此産霊に成れる神々は、其身体の大本源なる大御須麻留の上無き産霊に依りて産霊の極み極み尽し、産霊の限り限り尽して、此も霊妙く此も霊端に産霊成れる身にしあれば、そが地水火風空円く備はり、秋田の刈穂仮初にも競争ふ事なく、些少群竹聊も一方に片寄る事の無ければ、深山の葛懸り止る事無く、おどみにおどみ滞ることなくして、身魂永久に白玉なす伊澄み渡り、赤玉なす赫らひ照らひて、此一の身大御須麻留が中に充塞り塞り満て、大御須麻留の極み別らざる所しなければ、殊に底る事なく、高天原の限り我身の在らざる所なく、更に此身に有らざる処なし。更に此身を吾身と限る思ひ無し。此故に久方の天は我身体の中に伊澄み渡り、荒金の地は我身体の中に堅身同身を顕はして動く事なく揺ぐ事なく、天に照る日も心の内より六合に伊照り貫通り、世の中を照らし明めて落つる隈なく、大和田の潮水も我身の内に底を深めて潮を六合に廻らし、風の共白浪を立て起して嶋の崎々伊せき廻る。故れ羽叩きも心を起せば、その心即て神と顕はれ、僅少にても身活用けば、立所に森羅万象の妙体を現し、八百万千万諸の神、一つも心の内に現はれずと言ふ事なし。此故に一つの心に思ふ所、直に億兆無量の神の心となりて、無量無辺の御子の為となり、無量無辺の神の心は亦立返りて我為となる。一つの身動く所、億兆の神の行となりてその幸ひを得、億兆の人の行ひ我身に帰りて亦その幸ひを受く、微塵程も吾為に心を移す事なく、且くも身の為に行ひ為す事なし。此故に天津神国津神八百万千万の神、大き小さき神てふ神の悉々、樫の実の唯一柱も碗の水の漏るる神なし。空飛ぶ塵の半分も天津水影遺る神なく、現身を顕はし荒魂和魂を幸へ、常に来りて藤葛の木を纒ふが如く、目蓋の目を守るが如く、茜刺す昼の守り烏羽玉の夜の護りと、弥守りに護り弥幸ひに福ひ、其が神の御名のまにまに、そが神の道の任々、久方の空に天翺翔り、荒金の地に入り、海中に潜き入り潜き出て、愛しみ玉ひ、憐み玉ひ、扶け玉ひ、幸ひ玉ひ、恵み玉ひ、福ひ玉へば、真心に思ふ所、立所に成り、正身に行へば直ちに成る。是故に百千万の願ひ、億兆の祈り事一つも成らずと言ふ事なく、億兆の業微塵程も遂げずと言ふ事なし、無に形体を顕はせるものは、神を始め人の身、獣類、禽鳥、魚介、昆虫、木草の螻虫、萱草の片葉に至る迄、其現身の世に産霊て、形体なせる物てふ物は一つだも遺る物なく、飛ぶ塵の塵の半分も欠くる物なく、夜の仕へ昼の仕へに来たり仕へ、朝の活用夕の活用に来たり活用けば、且くも身に乏しき事なく、身に残るも煩ふ事なし。故れ此故に其が名を自ら神人となむ言ふなる。折々の諸の煩ひ病苦の悲しみの如き災は、禽獣虫魚等が道の内に備はれる事方にして、貴き霊き神人の道には更に更にその影だにも有る事なきものを、紫微天界の神人の病み悶へ苦しみ悩む事あるは、禽獣虫魚に均しき道を行きて神人の道を失へるより、諸の災難五月蠅如す皆湧き起るになむある。抑も爰に水腐り果つれば昆虫湧き、木の葉茂れば自ら鳥集り来たる。如此て其が穢き道を歩みぬれば、遂に其が獣鳥虫魚の身としも成果てて、永く獣鳥虫魚と成らむ。畏きかもよ、比類なき貴き霊しき神人の身を産霊得ながら、おどみの水のおどみ帰りて、卑しき身魂と成らむ神理を、真玉如す深く知り明に悟り極めぬれば、是をしも恐み畏み深く思ひて、身震ひ恐懼く迄に畏み恐み過ちて、今日まで起しつる獣鳥の心、虫魚の行ひは朝津日の露霜を消し尽す如く、朝の深霧夕の深霧を志那戸の風の吹攘ひ清むるが如く、清め尽し攘ひ極めて、照り渡ります陽の一進みに神人の道に進み入り、空飛ぶ塵の塵の半分も私の思ひを起す事なく、吾身の為に行ふ事なく、神人の名のまにまに行ひ澄まし、獣鳥虫魚の心を持たず、行ひを為さず、迷ふ事なく欲りする事なくして神人の道に入りぬれば、紫微宮に坐す⦿の大神二柱の神も、そが神名のまにまに神の道のまにまに、夜の守り日の守りに幸ひ玉ひて、真言為す神人の道自ら思ひ願ふがまにまに、天界の本より備はれる自らなる大真道永久に伝りて、天津日蔭普く照らし、天雲の普く潤ひて八隅知し⦿の大神の惟神の大御座は、天地日月と共に常永に八十連に伊継ぎ給ひて、且くも失はせ給はず、諸の神達おのもおのも生みの子の八十継きいや継ぎ伊継ぎて、己が位のまにまにいや遠永に麻柱ひ仕へまつり、神人等が各自々々仕さしの神業を守り仕へて、⦿の大神に仕へ奉り楽しみつ、神人の道に背く事なく、奥山の深山の奥、海の草、塩焼き漁る小さき神も飢餓に苦む事なく、暑さ寒さの悩みを知らず、上中下の各位の神人は、共に一つの歓楽を受け、真の大⦿の御国と成し玉へと願ぎ奉る事の由を、高天原の紫微の宮居の三柱の神、百千万の神等共に聞召し玉へと、畏み畏みも拝み白す。』
(「霊界物語」第七十五巻 天祥地瑞 寅の巻 第七章『瑞(みづ)の言霊』より)