「仏に会ったら仏を殺せ」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・「臨済録」より

 「道流、你如法(じょほう)に見解せんと欲得(ほつ)すれば、但だ人惑を受くること莫れ。(うち)に向かい外に向かって、逢著(ほうじゃく)すれば便殺せ。

 仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と(かかわ)らず、(とう)(だつ)自在なり」

 

 

・禅とカトリック

 

 “私(野口法蔵)はかつて修道院に坐禅を教えるということでベルギー王室修道院に行けといわれたことがある。前のヨハネ・パウロ2世法王のお考えだが、世界中の大きな修道院に坐禅をカリキュラムとして入れるようになったのである。そのわけが知りたくてバチカンに行った。時は法王が最後を迎える病床で最後のご法話をしようとしていた。とてもお会いできるときではなかった。大体何の紹介も持たず、ただ修行中にバチカンが脳裏に現れたからといってやってきてしまったのだ。それに応えてくれたのが、日本人初のバチカンの大臣となった濱尾枢機卿である。しかも政治的には主要ポストの難民大臣である。濱尾卿はこう言われた。

 「我々キリスト教者はいつも祈っています。しかし、本当の神に祈っているとは限りません。いつの間にか自己の神を自分の中に創り上げてしまうことがあります。ですから、たびたび宗教から戦争が起こります。神とは頭の中が空っぽでないと降りてくることができないと法王様はお考えになりました。本当の神を宿すためです。それで無になる禅を修行に入れたのです。」

 これを聞いて驚いた。我々が忘れていたものである。そしてシスティーナ礼拝堂では神父がチベットと同じ五体投地もしていた。宗教は共通なのである。後に濱尾卿の好意で世界中の司教が集まる戴冠式にも出させてもらったが、その濱尾卿も翌年に亡くなった。

 いつも思う。どうして立派な人はいつもすぐ亡くなってしまうのか。これから折に触れて色んなことを聞けるのに。やっと知り合うことができたのに。……”

 

       (野口法蔵「直感力を養う坐禅断食」七つ森書館より)