人智の現界 (ボードレールの警告) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “「大本」への関心を示す知識人・文化人たちの大半の意識に、かつてこの教団が当時の体制への反発を明確に示してきた点があるように感じられる。なるほど大本の教義にも、かつて教団の示した姿勢にも当時の絶対主義体制への批判と反発が存していたことは足跡の一つ一つを振り返ってみれば容易に首肯されるところである。

 ことに宗教団体と称されるもののうちで、国の宗教行政の管理上非公認のまま、教団自体の主張を実践しようとした勇気と見識は、今日もなお高く評価されつづけられるべきものとわたくしは考えているが、そのことと敗戦以降に大きな社会勢力を盛り上げてきた一般社会の反体制的潮流による「大本」把握とを短絡的に結び付けて、大本の今日的存在意義を教団側がPRするとすれば、そのことにわたくしは部外の者として強く抵抗を感じずにはいられない。

 出口王仁三郎という人は、そんなちっぽけなことを考えていた人ではなかったはずである。「大本」がそこいらの反体制的存在にすぎないのであるならば、ひそかに「大本」への魅力を感じつつある若者たちのフレッシュな魂を離反させてしまうことにもなりかねないだろう。

 出口王仁三郎の意志は、かれのあの耀盌が具体的に示すように輝く美しい未来、壮大な宇宙的未来をこそ志向したものではなかったのか。

 ここでわたくしはちょっと、今日の知識人・文化人たち―― それはとくに進歩的知識人と称した方が適切であるかもしれないが―― に与えるにふさわしい注目すべき言葉が、一八二一年から一八六七年までこの世に生きたフランスの詩人ボードレールの文章にあることをご紹介しておきたい。

 

 「地獄のように私が陥るのを恐れる誤謬が一つある。それは、いわゆる進歩的な観念である。近代の浅薄な知識主義がかかげだしたこの暗い炬火、神からも自然からも何の保護も受けていないこの近代的炬火は、知識のあらゆる対象の上に闇を投げかける。ために自由は消え、同時に罰も影を失う。真に明らかに物を見ようと思うなら、まずこのいまわしい炬火を消してかからねばならぬ。近代の軽薄な自満の腐土から生え出たこのグロな観念は、人にその義務を忘れさせ、責任感を薄くし、美の尊重に鼓舞される人間の自由意志を衰えさせる。もしこのあわれむべき気違い沙汰が長くつづけば、堕落した人類は愚かなうぬぼれに枕して衰頽の眠りに陥ることであろう」

 

 わたくしがボードレールの言葉をここに引用したのは、大本神諭にもあるとおり、「神と学とが戦いをいたすぞよ、神には勝てんぞよ」とある、あの「学」―― つまり人間のさかしらが、今日では合理主義的思考として、いわゆる知識人・文化人の頭脳に巣食い、食い込んでいる点を指摘したいからにほかならない。

 そのような一部のインテリたちが、「大本」に着目するモメントは、はじめに述べたように、体制への反抗の、かつてのSuperiorとして思い描く程度に過ぎないようにしか考えられないからだ。

 「大本」の偉大さは、単に権力への抵抗的存在にとどまるようなものでは断じてないし、あってはならないと、わたくしは考えている。今日の禅ブームなどの、いわゆる「宗教」としてのカテゴリーでとらえることのできないもっと広範なもの。

 それは西洋的概念による「哲学」や「社会科学」や「政治学」としてすらもその範疇に加えることの出来ない、未来の人類が創造し続けてゆかねばならぬ無際限の広がりをもつものと思われるからだ。

 したがって、他の「宗教」のごとく、単に神を信じる……などという程度で「大本」をとらえることはできない命題を含んでいると考えられるが、しかしもちろん、純烈な「信」から出発するものであることは、わたくしごときがあげつらうまでもあるまい。

 その辺が、神諭にあるように、病気なおしの神ではないところに、今後さらに深められていかなければならない大きな問題がこの教団内部に横たわっているとわたくしは思う。”

 

    (「おほもと」昭和50年11月号 阿里一多『耀盌の示す未来へ』より)