「万物に内在する愛善の力を活用せよ」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

  “神が自然界の事物を通して、人類に与えられたもう恩恵はまことに豊かなものですが、その恩恵をますます豊富にするには、自然界の事物の慣性を理解し、その人類に役立つはたらきを引き出して利用することが、人類の繁栄のうえに、どんなに大切であるかは云うまでもありません。これを怠ることは、天地経綸の使命を負わされている人類の罪であると、出口聖師は示されています。

 大本信徒が朝夕奉唱する祝詞(かみ)(ごと)の天津罪を、

 天地自然に与えられている水力、火力、電力、磁力、鉱物、動植物その他あらゆる自然力、自然物の利用開発を怠る罪をいう」(祝詞釈義)と解釈されています。

 私たちは『もったいない』という言葉を日常よく使います。これは分に過ぎて有難いときにも申しますが、物のはたらきを死蔵して、活用しないことを、相すまなく思う気持ちをこめて云う場合が多く、前述の天津罪に関連のある言葉であります。健康で立派な体格をしているのに遊んでいてはもったいないとか、四石とれる田から三石前後ではもったいないなど、と申します。つまり日本人が自然力、物、あるいは人間の慣性を活用しない怠りを、罪悪と考えていることがわかります。

 天恵の死蔵に罪悪を感じるのは、神の恩恵に敬虔な心を抱き、積極進取の人生観をもつ民族の感覚です。『もったいない』という意味の言葉を日常ふだんに使う国民が他にないかを私は機会あるごとに外国語に詳しい人に訊ねていますが、まだそのあることを聞きません。

 外国人はよく、日本人が自然に親しみと経験の心をもつ勤勉な国民であることを、指摘しますが、このような美徳は、日本の風土の影響と神ながらの人生観から生まれたものと思います。

 日本が明治以来わずかに七、八十年で世界屈指の近代工業国となったことは、世界の脅威とされていました。これを日本人の猿真似の上手さや器用さからとするのは、日本の伝統を知らない者の、あまりに皮相な見方といわねばなりません。

 「愛善(愛善は主神の御心、万有の慣性は主神の御心の現われである―筆者註)は神より発する最高至大の真愛であって、人がその至善の愛を慕い求める心、これに住する心を、愛善の精神というのである。故に物質に内在する愛善の力を、正しく利用する道が即ち科学なのである。例えば今日の電気科学は水や火の発する愛善の力を応用したものであり、農業や牧畜は、動植物の愛善を人間の福利に供せむとする業なのである。また人の心に神ながらに内在する愛善の力を発揚せしめて、もって国家社会を正しくする道が、政治であり経済であり、教育である」(惟神の道)

と出口聖師は示されています。

 万有の慣性の開発は、人類の天職であるという大本の教えを心にとめて、開祖、聖師の御示しを拝読し、御生涯を偲ぶときに、私たちは人に接し、物を取り扱い、自然に対する日々の生活のうえに、実践せねばならない教訓がみちていることを、痛感する次第であります。”

 

          (「おほもと」昭和32年11月号 出口新衛『慣・造について』より)

 

 

・イブン・アラビー(12~13世紀) 〔スーフィー(イスラム神秘主義)〕

 「神の慈愛の息吹によって、宇宙は絶え間なく再生される」  

 

 “最も驚くべきは、人間および他のすべての被造物がたえず上昇の過程にあるということである。しかし、ふつうは、ヴェールが極端に薄く繊細なために(我々は非常に透明なヴェールを通して何かを見るとき、自分と対象とのあいだに存在するヴェールに気づかないものである)、あるいは引きつづき生まれる形体が、以前の形体と非常に類似しているために、人々はこの運動に気がつかない。神による宇宙の描写は、何とすばらしいことだろう。またつねに「新たなる創造」を内包している「慈愛の息吹」によって、神が宇宙を絶え間なく再生したもうとは何とすばらしいことだろう。しかしコーランが述べているように、このことは少数の人にしか理解されない。「否、新しい創造に関して、彼らはまったく混乱している」(50章15節)。つまり、このことを理解しない人は混乱の状態にある。慈愛の息吹によって宇宙が絶え間なく再生されていることを、彼らは知らないからである。”

 

       (ラレ・バフティヤル「スーフィー イスラムの神秘階梯」平凡社)

 

*出口聖師は「人は天地経綸の主体なり」と説かれると共に、「すべて神界の業というものは、現界において生成化育、進取発展の事業につくすをもって、第一の要件とせなくてはならぬ」(「霊界物語第一巻」とも説かれています。主神による万物の「新しい創造」、「絶え間ない再生」に積極的に参加することが、人類の天職なのであろうと思います。

 

 

・合気道開祖、植芝盛平翁の神秘体験

 

 “たしか大正十四年の春だったと思う。私が一人で庭を散歩していると、突然天地が動揺して、大地から黄金の気がふきあがり、私の身体をつつむと共に、私自身も黄金体と化したような感じがした。それと同時に、心身共に軽くなり、小鳥のささやきの意味もわかり、この宇宙を創造された神の心が、はっきり理解できるようになった。その瞬間私は、「武道の根源は、神の愛(万有愛護の精神)である」と悟り得て、法悦の涙がとめどなく頬を流れた。

 そのとき以来、私は、この地球全体が我が家、日月星辰はことごとく我がものと感じるようになり、眼前の地位や、名誉や財宝は勿論、強くなろうという執着も一切なくなった。

 武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。すなわち、武道の鍛錬とは、森羅万象を、正しく産みまもり、育てる神の愛の力を、わが心身の内で鍛練することである、と私は悟った。”

 

 “合気とは、敵と戦い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である。合気道の極意は、己を宇宙の動きと調和させ、己を宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我は即ち宇宙」なのである。私はこのことを、武を通じて悟った。

 いかなる速技で、敵がおそいかかっても、私は敗れない。それは、私の技が、敵の技より速いからではない。これは、速い、おそいの問題ではない。はじめから勝負がついているのだ。

 敵が「宇宙そのものである私」と争おうとすることは、宇宙との調和を破ろうとしているのだ。すなわち、私と争おうという気持ちをおこした瞬間に、敵はすでに敗れているのだ。そこには、速いとか、おそいとかいう、時の長さが全然存在しないのだ。

 合気道は無抵抗主義である。無抵抗であるが故に、はじめから勝っているのだ。邪気ある人間、争う心のある人間は、はじめから負けているのである。

 ではいかにしたら、己の邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるか?

 それには、まず神の心を己の心とすることだ。それは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでにおよぶ、偉大なる「愛」である。「愛は争わない」「愛には敵がない」何ものかを敵とし、何ものかと争う心は、すでに神の心ではないのだ。これと一致しない人間は、宇宙と調和できない。宇宙と調和できない人間の武は、破壊の武であって、真の武産(たけむす:神道の真理の言葉)ではない。”

 

    (植芝盛平先生口述「武産合氣(たけむすあいき)」白光出版より)