土佐をほぼ手中に治めた長宗我部元親ですけれども、野本さん、まず長宗我部元親がですね、次にどういったことを考えたのか。例えば何に目を向けたのかを伺っていく前に、天正3年、1575年頃の日本とはいいませんけれども、京都、つまり朝廷、つまり室町幕府というものを取り巻く情勢というのはこの時代、どんな風になっていたんでしょうか?

 

野:あの皆さんご存知のように、応仁の乱以降、京都における室町幕府内の争い、管領あるいは将軍を巻き込んだ争いってのは非常に醜いものがずっと続くわけですよね。

ちょっと止まったと思えば、また誰かが火種を作って対立をしあうようなお互い足を引っ張り合うような争乱というものがずっと続きますから、もう幕府、将軍、管領、こういった人たちの権威といいますか、こういうものは地に落ちるような状況になっていて、非常に危うい状況に陥っていく。まあ中央はそういう状況ですから、諸国が戦国時代になっていったとも言えるわけなんですけれどもね。

天正元年、元親が土佐を平定したのが天正3年ですから、その数年前に実はもう事実上室町幕府は滅亡しております。

あの、織田信長によってですね、足利義昭、これが足利将軍家最後の将軍さんなんですが、もう京都から追放されてるんですよ。

で、毛利氏等を頼ってもう都落ちしている状況では、実質的にはもう信長が京都に君臨をしているという状況がもう土佐平定前に出来ていたということ。これをまず1つ押さえとかないといけません。

 

パ:のちにちに長宗我部元親にも大いにかかわってくる人、その人の名前がいまこの番組の中でも初めてに近い形で出ましたけれども、織田信長が絡んで来ますからね。みなさん。

というところで、このまっ天正の争乱といわれる時期があった中で、各地、守護代あるいは戦国大名と呼ばれる人たちが群雄割拠と呼ばれる時代になりまして、そんな中、元親も土佐を押さえ、さあ、長宗我部元親は次に一体どんなことを考えたという風に見えますか?野本さん。

 

野:あの、戦国大名という言い方、表現ものちの時代の人がですね、その状況を表現するために作り出した歴史用語です。ですから当時の人たちが今、自分たちが戦国時代であるとか、長宗我部元親や上杉謙信を戦国大名と呼んでたかっていうと、そんなことはない。

ですから戦国時代と言われている時代であっても、やはり室町幕府、将軍様のもとで守護、あるいは守護代と呼ばれる人たちが地域を押さえていたけれども、実際将軍が京都から追放され、守護といわれていた人たちもどんどんもう力を失っているわけですから、そういった形式的なことではなく、実質的な時代を仕切る人々のことをそういうように総称していたわけなんです。

 

 

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