子どもが凸凹発達で定型発達の子どもの様に放っておいても勝手に育っていかない時、どこかのタイミングで親が気づくのだと思います。
これは
この子が初めての子だから、
とかと言うのとは少し違って、
アレレ????なんか違うんじゃないかな?
とかってふと思ったりして…。
他には保育園や幼稚園の先生から指摘されて他の事比べてみたら…
という事もあるかも知れません。
どのタイミングであろうと所謂、ドクターや支援者或いは専門家(?)から
「治りません」
とか
「手帳を取って生涯に亘る支援が受けられる様にしたらいい」
とかおよそ想定外の事を言われて傷つかない親はそうはいないでしょう。
ここが謂わば最初の分岐点で
①ドクターや偉い先生が「治らない」と言っているのだから、この子は一生治らない。
…と決めてかかって悲しみに打ちひしがれつつ周りへの理解だけを求めて何もしないか?
②治らないって本当?治った人はどこにもいないの?
…と他の知見や情報源を当たって何とかしようとするか?
その岐路でどちらの道を(或いは、他の方法を)選んでもその結果は全て自分達に返ってきます。
わたしは、幼児期のまだまだ小さかったチョロちゃんが
「治りません」
と言われた時に途方に暮れて何ヶ月も泣き暮らしたし、辛くて辛くてどうしようもありませんでした(泣)
そして何とかし(てあげ)たい
と思いました。
そうやって試行錯誤の中でチョロちゃんは自己治療したり、親子で楽しくしたアレコレ、幼児期から受けた感覚統合の訓練や小学生の夏休みに通ったスポーツ塾等その場その場で必要な事をしたり、良い出会いに恵まれた事で更にパワーアップという感じでした。
その中でその時に必要な支援や環境がある程度整っていた事も全部偶然なんかじゃなくて、当時は必死に本を読んだりアチコチの相談会、勉強会、講演会、講習会等に参加していたから。
何もせずにそこにいて向こうから飛び込んで来てくれる程、世の中甘くはありません。
そして、
「治る」
「治った」
という言葉に拘るのは、
「治りません」という言葉に傷つきがんじがらめにされたから。
今、どこかでかつてのわたしの様に「治りません」という言葉に傷つき立ち上がれない程に傷ついているかも知れないお母さんに「大丈夫」だと伝えたいから。
「治る」とは文字通りそれから解放されて悩まずに済む様になる事。
睡眠障害も感覚過敏もあった頃は毎日が大変な事ばかりでしたから、今がまるで嘘の様です。
以前、治ったと書いたら「寛解では?」と言われた事があったけれど「治った」というのはそんな曖昧なものではなくて、後戻りなんかしないもの。
鹿児島に行って神田橋條治先生に診て頂いた事も親子で治るを実感できた良い経験になりました
栗本啓司先生には定期的に個別指導をお願いしていて、これは当分続けます。
チョロちゃんは成長期で身体はまだまだ変化しますから(笑)
そうやってステキな出会いを大切にして取捨選択する目を持つ事も子どもの「治る」にはとっても大切な事だと思っています。
諦めなければ結果は出ます。
そうじゃないのは何かが違うのでしょう。
何が違うのか?
に気づく事も親の勘。
お母さんが元気になって、頑張れる人になるのが先です。
だから、チョロちゃんとは別にわたし自身が栗本先生の指導を受けたり、メンテナンスをしています。
そうやって自分に合ったアレコレを見つける事も必要だと思っています。
お子さんにピッタリなアレコレが見つかって親子で成長できます様に
凸凹育児を頑張っているお母さんへ
今日も一日お疲れ様でした
明日も一緒に楽しみながら頑張りましょう
おやすみなさい