昨日の記事 「男目線(7)- 如何に男を惹き付けるか」 の続きです。
自分が好意を寄せる男性からのソフトな視線ばかりではなく、知らない男性からの、突き刺さるような視線だったり、舐め上げるような露骨な視線ではあっても、女性は 「恥ずかしさ」 を覚えます。
2019年も、もう終わり。
「男目線」 シリーズの最終回として、今回は、「男目線」 が女性に対して、どのように作用するのか。与えるもの。
「恥ずかしさ」 という感覚について、考えてみたいと思います。
「羞恥」 とは
今回は、この 「恥ずかしい」 と思う気持ち。「羞恥」 について考えてみたいと思います。
そもそも 「羞恥心」 というのは、どういうものなのでしょう。
人間には所属欲求があり、所属した社会から排斥されないために、公的な自己像からの逸脱をコントロールしようとしています。「羞恥心」 とは、こういった中で、他者からの期待や信頼に背くなど、社会からの排斥を想像させる苦境場面に自己が置かれているという認識によって喚起される、「生得的な警告反応」 であるとされています。
意味は解らなくもありませんが、ちょっと難し過ぎ(^^;
ここであまり糞真面目に 「社会学」 的に詰めてみても全然面白くありませんので、エロ真面目に攻めるために、「性」 に絡む 「羞恥」 に限定することにします。(笑)
「恥ずかしい」 という気持ちは、何処から来るのか
「恥ずかしい」 という気持ちは、いったいどういう気持ちで、それは何処から来るのでしょう。
「恥ずかしい」 という気持ちは、簡単に言えば、自分の弱いところや、無防備なところであったり、能力不足などが露見してしまったような、一種の 「負い目」 を感じる感覚。
「恥ずかしい」 という感情は、社会的における対面において、自己の 「防衛」 に失敗したことを意味します。
恥ずかしくて 「汗」 が勝手に噴き出すのは、「ヒヤリ」、「ハッと」 の時と同じ 「冷や汗」 に他なりません。(^^;
そして、「恥ずかしい」 という気持ちで、もうひとつ特徴的なのは、そこには必ず 「視線」 が登場するということ。そこには必ず 「他人の目」 もしくは 「自分の目」 が存在するのです。
人の視線を通して、はじめて 「恥ずかしい」 という感情が生まれるのです。
では、人の視線がなかった場合、そこにはいったい何が存在しているのでしょうか。
そこにあるものは、人目を盗み、人目からは覆い隠したい何か。
気が緩んでいる自分、快楽に呆けている自分、他人よりも良くみせたくて背伸びしている自分、本当は泣きたいのに意地が邪魔して泣けない自分。
みっともない自分であり、情けない自分。
そこには、まず初めに、自分に対する 「劣後感情」 があるわけです。
つまりは、「自我」 が存在し、自他が区別できるようになり、自分を認識できるようになって生まれた感覚であるということです。
「旧約聖書」 においては 「創世記」 にありますが、アダムとイブが蛇にそそのかされて、「知恵の木」 に生る 「禁断の果実」 を食べたことで無垢が失われ、裸でいることが恥ずかしいと感じられるようになり、局部を 「いちじくの葉」 で隠したとされています。
この逸話を額面通りに受け留めるのであれば、「禁断の果実」 を食べて一番最初に感じた 「トリップ感」 がこの 「羞恥」 という感情であり、そして、「いちじくの葉」 が、人類の祖先が最初に纏ったファッションということになります。
「恥ずかしさ」 を感じるプロセス
人は、他の人の視線を感じたとき、まずは、誰からの視線であるのか、またその視線の意味を認識し、または理解しようとします。
太古の昔、草むらの中からこちらを見つめる動物に気付くと、その動物が自分に襲い掛かろうとしているのかどうかを、まず見極めようとするでしょうし、知らない人と遭遇したときも、その人が自分に敵意を持っているのか、そうでないのかを見極めようとするのと同じなわけです。
人が、他の人の視線を感じたとき、人は、それが誰の視線であるのかを認識すると同時に、その視線の意味を理解しようと努めます。
そして、その視線の先に、自分の 「劣後」 を見つけたとき、「恥ずかしい」 と感じるのです。
そして、人はその人の視線の 「受け留め」 に応じ、反応を見せます。
その相手が、自分が 「好意」 を持っている人であったり、親しい知人であれば、「照れ」 が出るかも知れませんし、知らない人であれば 「困惑」 するかも知れません。
知っている人であろうが無かろうが、あまりにも露骨であれば、「怒り」 や 「嫌悪」 を感じるでしょうし、自分に対する危害を意識すれば、「恐怖」 や 「不安」 を覚えます。
また、「恥辱」 という言葉のように、「羞恥」 を感じた後、対面や名誉を傷付けられ、「辱(はずかし)め」 を受け「悔しい」 感じるネガティブな感覚もあります。
そして、人はその感情に応じて、何らかの行動を取ります。
その視線を投げかける相手との関係性や、視線の内容、視線の先にあるものによって、人は戦うか、その場から逃げるか、あるいは、相手の懐に入るかを、瞬時に選択するわけです。
直接目に見えるものではなくても、何かを見透かされそうであれば、「威張る」 あるいは 「怒る」 と言った、「威嚇的な行動」 や敵を排除するため 「攻撃的な行動」 を取る場合もありますし、敵わない相手に対しては、「逃避的な行動」 をとるでしょう。
「恥ずかしい」 と思う気持ちは、視線を察知し、「危険」 を警告する咄嗟の衝動であるわけです。
また、「恥ずかしくて、居たたまれない」 という言葉は、「恥ずかしい」 けれども、いろいろな制約、例えば社会的な関係性もあるかも知れませんし、走行中の電車であれば降車出来ないという物理的な制約もあったりする。そういったさまざまな制約によって、その場から逃げられないこと、あるいは、それでも居続けたい気持ちを意味するわけです。
「恥ずかしさ」 と 「ファッション」
では、人から投げ掛けられる視線を受けて、どのように反応しているのでしょう。
人の視線を感じるところが、自分の誇れる部分であったりすると、人は 「優越感」 を覚えるのですが、逆にその視線の先が、自分の弱い部分だったりすると、人は 「恥ずかしさ」 を覚えるわけです。
また、人が視線を寄せる意味が分からないと、人は不安を覚えますし、その視線の意味が分かると、その意味に応じて、「怒り」 や 「嫌悪」 を感じたり、「安堵」 したり、あるいは 「喜び」 を感じたりもするわけです。
単なる 「視線のやりとり」 だけで、人は無意識のうちに 「敵」 と 「味方」 を区別し、そして、その視線の先にあるものによって、その視線の意図を読み解こうと、これだけ多くの 「コミュニケーション」 を取っているわけです。
多くの女性にとっては、「ファッション」 とは、自分を可愛いらしく見せる、あるいは、自分を魅力的に見せる 「刀」 であるのと同時に、自身の欠点を補い、そして覆い隠す 「鎧(よろい)」 でもあるのです。
女性にとっての 「ファッション」 は、自分の肉体を覆い隠すばかりではなく、魅力的に見せつける道具でもあり、また、同性からの敵対 「視線」 や、異性からの色目 「目線」 を跳ね除ける 「心」 の鎧としても役に立っているということです。
旧約聖書に登場する 「アダムとイブ」 における 「いちじくの葉」 が、「ファッション」 の起源であるということ。
「ファッション」 とは、着こなしてナンボ。
女性に良くありがちな、新しいトレンド(流行)に敏感であることをアピールしたり、「ファッションセンス」 を競い合うだけのものではないということです。
「恥ずかしさ」 と 「SM」
「目は口ほどにものを言う」 と言いますが、視線だけでも、知らない人と十分に 「コミュニケーション」 出来るということは、驚きです。
そして、人は 「恥ずかしい」 と感じたとき、その視線を投げかけた人に対する感情を 「表情」 にそのまま、実に正直に素直に出してしまうのです。
(1) 「羞恥責め」 は心理戦
この原理を応用して、いろいろな人の 「視線」 を利用しては、相手の 「表情」 を読むことで、相手を 「心」 を読み解こうとする。それが、「SM」 における 「羞恥責め」 のエッセンスです。
「受け手」 を罵(ののし)ることで、自分が優越感に浸り、楽しんでいるわけではありません。
その程度の行為を 「言葉責め」 と言っているようでは、まだまだ、「お子ちゃま」 と言えるでしょう。
「言葉責め」 とは、言葉で相手の 「心」 を一枚一枚脱がしていって、真っ裸にする行為なのです。そして、一枚一枚心に纏う鎧を剥がされては打ち震える相手に、「S心」 が喜ぶのです。
「言葉責め」 は、「イマジネーション」 の世界の中で、相手を追い込んでいく 「心理戦」 なのです。
(2) 「羞恥責め」 のポイント
「恥ずかしさ」 という気持ちは単なる 「衝動」 に過ぎません。そのときの表情などから、「恥ずかしさ」 の裏に隠れている 「感情」 を如何に読み取るかが、特に 「SM」 の 「羞恥責め」 などでは、特に重要になるということ。
そして、勘違いされている人も少なくないのですが、SM における 「羞恥責め」 では、「責め」 を受ける 「受け手」 の側の 「テンション」 が落ちるような責めをしては、何も意味がないのです。
そして、「羞恥心」 のない人には、「羞恥責め」 は用をなしません。
白けてはいけないし、白けさせてもいけないわけです。(苦笑)
「羞恥」 を感じる人に対して、本人が 「恥ずかしい」 と思われる行為をさせることに、意味があるのです。
そして、「羞恥責め」 では往々にして、「人の視線」 を多用します。この視線自体は、特定の人でも構いませんし、不特定でも構わないのですが、何故 「人の視線」 を多様するかと言えば、他人の視線を意識するだけで、女性は心も身体も無意識のうちに緊張が高まり、そこで、他人の 「性的な視線」 を意識するだけで、女性の身体は否応なく性的にも緊張するのです。
相手の無意識に働き掛けることが出来るためなのです。
「SM」 で何故、女性が 「中イキ」 でイキまくったりするようになるのか。
それは、このように直接 「本能」 に訴え掛けることのよって、「性的な刺激」 を与え続けているからに他なりません。
「恥ずかしさ」 と 「くすぐり」
「恥ずかしくて、いたたまれない」 という状況には、何処か甘美な 「エロティシズム」 が漂っているような気がしますが、それは何故なのでしょう。
それは、自分を守るために 「逃避」 することも許されない何かが、そこに存在することを示唆しているからかも知れません。
「恥ずかしさ」 は、危険を伝える警告信号です。そもそもは 「苦しい」 感覚です。
つまりは、その 「苦しさ」 に拮抗する、もしくは、それ以上の 「喜び」 がそこにあることを意味しているのです。
「恥じらう」 状況というのは、「羞恥」 を感じたあとに 「喜び」 に満たされた状況。
「本能」 が危険を察知し、身体が緊張する一方で、「理性」 が敵でないこと、もしくは、「自分の愛する者の存在」 を認識し、脳がリラックスしていると、そこには自然と 「笑い」 が生まれます。
これは、「可笑しいけど苦しい」 という、「くすぐられる」 感覚と同じなわけです。
くすぐられて笑うのも、本能が危険を察知する一方で、理性が 「問題ない」 という認識のズレが生じて、脳が混乱している状況です。
「笑う」 という反応は、本能が危険を察知し、一瞬身体が緊張する。しかし 「誤報」 だと分かって、その緊張を解く行動なのです。
はにかむような 「恥じらい」 も、性的な 「恥ずかしさ」 も、自分が自分を委ねることが出来る相手の存在とは別に、身体が本能的に 「危険」 を察知して反応してしまう、そのギャップを解消する延長にある 「心理状態」 なのです。
危機や危険を乗り越え、自らの 「生」、そして、愛する者の 「生」 を共に喜び合うこと。
そこに 「笑い」 と 「喜び」 があるということ。
そして、その究極が 「オーガズム」 なのです。
「恥ずかしさ」 の先にあるもの
(1) 共通点
警告に怯える中、安全であることを知り、思いっきり緊張が解け、安堵している状態。
愛する人に対する 「羞恥」 は、「くすぐり」 にとても良く似ていますが、これは、「オーガズム」 とも大変良く似ています。
「オーガズム」 というのは、性的に極度に興奮し、性的な緊張状態から突如解放され、弛緩する際に感じる 「多幸感」 です。
いずれも、「喜び」 や 「気持ち良さ」 に 「苦しさ」 や 「怖さ」 入り混じる不思議な感覚です。
(2) オーガズム」 は共振
自分一人であれば、恥ずかしくもありませんし、自分で触ってもくすぐったくもない。
自分で 「ク/リ」 を触っても気持ち良くないという女性や、自分で 「ク/リ」 を触っても中々イけないという女性も少なくありませんが、「オーガズム」 というものが、「羞恥」 や 「くすぐり」 に近い現象であるとしたら、それはそれで正常と言えるのではないでしょうか。
「オーガズム」 にも、ひとりで到達する 「オーガズム」 と、複数で到達する 「オーガズム」 があります。
しかし、同じ 「オーガズム」 でも、自分ひとりで到達する 「オーガズム」 と、複数で到達する 「オーガズム」 には、天と地の差があります。
一人で達する 「オーガズム」 とは、自分の身体の中、一個体の中で繰り広げられる、苦しさとリラックスの狭間での共振(痙攣)なわけですが、複数で達する 「オーガズム」 というものは、複数の個体で同時に繰り広げられる、個を超えた共振(痙攣)なのです。
結局は、自分を満足させるだけのものと、相手を満足させ、それが自分に戻ってくる感覚。そして、自分と相手が同時に 「イク」 感覚と言うのは、同じ線上にはある感覚なのだと思いますが、「似て非なるもの」 であるということ。
多分、楽曲の 「コンサート」 にしろ、「演劇」 にしろ、観客の目の前で披露するという行為は、それは一種の 「露出」 行為であるわけです。
そして次第に高まる、息をもつかせぬ緊張感。そしてそれが極まったときに観客は堪えているものが弾け、そしてその反応はプレーヤーに戻るわけです。
自分達の目の前に観客がいる 「舞台」 にこだわる俳優や、「コンサート」 や 「ステージ」 にこだわる歌手や演奏家が多いのも、理由はそこにあるのでしょう。
その場で、プレーヤーと観客が奏でる 「雰囲気」 や 「ハーモニー」 というものは、形は違うものの、まさしく、複数による 「オーガズム」 なわけです。
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