『手紙』
友達に借りた本のことばたちがやさしくて、あまりにもすっと透明で、こころはぐんぐんそれを吸い取りたいようだった。
けれどもうこれ以上電車のなかでは読めない、あふれちゃうから。
と、たった今本をぱたんと閉じた。
余韻が潤うみたいに鼻から胸につたっていって、背中に注ぐ朝の太陽と一緒にわたしをあたためてくれる。
じんわり、目を閉じる。
いちばんだいじなことがなにか、
うん、よし。
ってととのえなおせた気がする。
空をみる。
深呼吸。
- 小西 真奈美
- 手紙
おとずれ
また朝が綺麗でさむいきせつがやってきた。
太陽も撮りたいし、霞む紅色も撮りたいしで、
こんな迷ったままの写真になった。
それも、いいかなと思う。
この何年か、たくさんの素敵な出逢いにめぐまれている。
新しい出会いもそうだし、あたためなおす関係のこともそう。
わたし自身がもっとふくらまないことにはそれをちゃんと受け入れられないのではないかというおそれを抱きつつも、幸せでたまらない。
だいじにしてゆきたいと思い続けていることも、だいじになりそうな予感も、とりこぼさずに微笑むひとになりたい。
明日は今年最後の舞台の千秋楽。
楽しもう。
この一瞬は二度とおとずれないから。
***
ほのぼのとして楽しそうなサイト。可愛らしい男の子の声が片言で案内してくれるんだけど、そのめちゃくちゃな日本語に思わず画面を見つめちゃいます。
日本の辞書を引きひき、作ったんだろうか…。
私の英語もこのレベルであろう。
日本の吉野家だったら考えられないこのゆるさに癒されちゃうかも。
無料のスクリーンセーバーをもらえるコーナーの名前が「無料の物」ととってもあからさまなところと、主役の牛くんを触ると「くすぐったい」と笑うところがちょっと好き。
●吉野家シンガポールのサイト
white out
そのときわたしはちょうど眠りに就いたところで、どこか遠くを旅する夢をみていた。
あまいかおりのするひとと電車に乗ったことを覚えている。
電話の向こうからは絶えずさらさらという音が聞こえていた。
内側が湿っていて、けれど凍てつく風にお互いがはじき合う、軽いのに厚い音。
その暗やみを、もしくはその音を奪うような白さを、私は懸命に浮かべようとした。
ふたたび夢をみるのならとめどないその雪が土と樹と水とわたしに落ちてくる夢がいい、と願いながら眠った。
それはどこかでふとゆくさきを変え、ふさわしいひとのもとへ降り立った。
背中まで染まるようなあおい朝のなかで
彼女がこごえてしまいませんように、と祈る。
どうか。
彼女がほほえみかけてくれたように。
心理
実は、DVに悩まされています。
やめてよと逃げ回っても全然手を弛めてくれません。隙を見せたら一瞬で飛び掛かってきます。
毎日顔が傷だらけです。
明日から本番だというのに…!
ちゅん。
頼むから、やめて。
でも、もしかしてこれは攻撃じゃなくて少々荒っぽいけれどただの遊び、狩りのシュミレーションなのかもしれない…と思い、逃げ回るのをやめて私も向かっていくことにしてみた。
そしたら…もしかして、ちょっと喜んでるかも。
やっぱり顔にきずができることには変わりがないけど。
私はちゅんのお母さんだと思ってきたけど、それは赤ちゃんのうちだけで、今はすっかり私を兄弟だと思っているんだということがこれではっきりとした。
日頃ごはんをあげているのは母だし、私が母の作ったご飯を食べているという関係をちゅんが見抜いていないわけがない。
それにしてもちゅんはただずーっと、私のそばにいたいだけなんだ。
そのことばっかり考えている。
いつも必死に追い掛けてくるし、私が朝寝坊すると起きてくるのをいつまでも、いつまでも部屋の前で待ってる(そしておはようの代わりに、くちばしがとんでくる)。
昨日は機嫌がよかったみたいでずっと可愛い様子で肩にいた。
母がおばあちゃんの家から帰ってきたので久しぶりに家族がそろって安心しているのだろう。
ふっくらまあるくなって、甘えた声を出す。3人ともが見える場所に陣取ってかわりばんこにながめたり、肩を渡り歩いたり、ご飯をもらったりする。
うれしいのか興奮しているのかいつまでも起きているから、「ちゅん、そろそろ寝ないと」と私が言ったとたんものすごく鳴いて、ぐずり出した。
子供と一緒。
眠いくせに「もう寝なさい」って言われたくないのだ。
はいはい。ごめんね。
もうみんな寝るから寝ようか、と言うと、しかたなしに黙ってちゃんと寝床にがさがさ潜り込んでいった。
小さな机、情熱、給食
小学校にでかけた。
学芸会の振付をつけていて、そのかためをするために。
誕生日だったその日はよく晴れた気持ちのいい一日だった。
どきどきと教室に向かうと、まだ先生である友達と子供たちのたたかいがくりひろげられていた。
私はこっそりと生徒から身を隠し、ちょっと学校を探検する。
非常口をこそっとあけて運動場のマラソンを眺めてみたり(先生に見つかったら困るかもしれないから、ほんとうにひっそりと)、たけうまを撮影してみたり、家庭科室にぶら下げてある、作品の巾着袋を見物したり。
こどもたちの声に満ちたたてもの。
けれど私のいる階は静かなひかりがはいってくるだけ。
しんと冷えた廊下に座って、なるたけたくさんの音を聴こうとこころみる。
前日に私がお風呂に浸かって考えたことは、もう確かには思い出せなかった。
可能性のこと、真剣にやってみること、かけがえのないすべてのこと。
伝えたいことはたくさんあったけれど長たらしく語ったところで残りはしないだろう。
しばらくして、芝居のシーンを見て欲しい、と何人かがやってきた。ちょっと緊張し、そしてうれしい。
踊りもそうだけれど芝居もまた、不正解はないなあと思いながら見る。
本気で台詞を言った方がいい、ということをずっとアドバイスする。
テンポのことも、体の動きのことも、目線や声のことも、「本気で演じる」ということがかなりの部分をカバーするのだということを話しながら、自分でも知る。
踊りの稽古でもつい「心から動いていればなんでもありだなあ」という思いばかり強くなって、具体的に磨かれたかどうか。たぶんそういうところは友達の方が的確な目を持っている気がする。
給食の時間。
栗ごはんとひじきと、タラみたいな魚と子持ちししゃものてんぷら。
みんなと一緒に食べる。
せんせいとたべたいー!とか、せんせいいいにおい!とか、せんせいのブーツかわいい!とか、なんかうれしくなってしまう。
小学校のとき私はほんとうに男の子にしか見えなくて、いつも女の子たちに弟みたいに可愛がられていた。
女の子にとりまかれるのは相変わらずだけど、今は男の子には見えないんだなあ。(というか小学生からみたらお母さんだ)
そのことが、なんだか不思議。
目の前で食べていた男の子が大人びた子で、私はちょっとためしながら色んな話をしてみた。
伏せがちな目で答えてくれる。
ちゃんと自分だけが会話をしないように気を使っているのか、隣の男の子にも話をふってくれる。隣の子はまるでまだ叫んだり乱暴をしたりするようなことのほうに興味があるようで、目を合わせて会話をするということがなかった。
同い年で、面白いものだとおもう。
目の前の男の子はしずかに私のお皿を自分のおさらに重ねて、下げてくれた。
明日はその学芸会の本番。
おととい出したToiToiToiのはがき、ちゃんとみんなに届くといいな。







