アマヤドリ -83ページ目

道しるべのある森


ひさしぶりにゆったりできている日曜日。
ゆったりながら、遠出の予定が重なったから今日はひとり行動。
しらない街、ふたつ。

いつも思うのだけれど横浜に向かう電車に乗るひとは、東京の電車に乗っているひとの雰囲気とどこか違う。どこか家のかおりをさせつつ、ほんのりと上品なような。どこか近寄りがたいような。
少し、服のセンスも違う気がする。
たぶんその感覚は幼い頃横浜に住んでいた親戚のうちを訪ねるときの感覚に影響されているんだろうと思う。
いとこの女の子は有名なピアニストにピアノを習っていて、バレエも習っていた。いつもフェルト生地でできているようなあたたかみのある可愛らしいワンピースを着ていた。
お嬢様の集まる学校に通い、ごきげんよう、おばあちゃま、の世界のそのいとこはあまりにも女の子で、うまく意志疎通をできないまま疎遠になってしまった。

しらない街でケンタッキーに入った。
クリスマス気分をちょっと味わうためにも。
こういうファストフード店にはたぶんめずらしいことだと感じたのだけれど、店員さんがすべて40代より上のかんじで、のんびりとしている。

まだ早い時間なのに日差しが街を橙に染める。
確実に冬が近づいてくることと夕方が近づいてくることが重なって、切ないような、けれどあたたかいような気持ちになる。
夏にからだの外側で感じるすべては冬に近づくにつれてとじこもり、呼吸の生まれるところにゆきつく。
自分と世界が離れてゆくような気がするのはそのせいだし、空が高く見えるのもきっとそのためだ。
そして、わたし、という手の内の中に巣ごもりのようにとじこもっていろんなものの準備をする。
寂しいのにあたたかいのは、だからなんだと思う。

小石川植物園へ 1

やさしいお天気に恵まれて小石川植物園へ。

どこかに癒しをもらいにいこうね、と柿を食べながら話していたのが現実になった。
柿ちゃんと、幼なじみじゃないのに幼なじみとしか思えないくんと、柿ちゃんの蕎麦仲間ちゃんと、その娘さんであるとにかくコナコナして塩味の強いものが大好きなもごもご子ちゃん2歳9ヵ月、そして私。

写真を撮る気まんまんで一眼レフだのおもちゃカメラだの(これはもしもご子ちゃんが飽きちゃったら撮らせてあげてみようと思って持っていた。もご子ちゃん小さすぎてカメラに興味無しだったけど)、そしていつものデジカメ、の三つ巴だった。

さっそくとてもきれいなねこを見つけてガラス越しに。
スタイルがよくてきりっとハンサムな、目元の涼しい子だった。胸の毛が真っ白でその白さが床のタイルに映りそう。
まるで幼なじみくんと、おれたち怪しいよね、と笑いながら接写しようと苦心するも、この子の警戒心とのせめぎあいでこの距離に。

可愛いイタリア料理やさん。
小さな植物で入り口を飾り、店内の棚にはカードや小物がずらりと並んでいる。
ふっと微笑むことができるようなここちのいいお店。

もご子ちゃんに何が食べたい?と訊くと「ピザ!」と元気よく答えてくれたので、ピザを頼む。
この子チーズのところしか食べないの、と蕎麦仲間ちゃんが言うのでその気持ちはわかるよ、と言う、しめしのつかない大人である私。

パスタとリゾットも頼んでみんなでシェア。

もご子ちゃんはテーブルに置いてある粉チーズにずっと目を注いでいる。
これチーズだよ、と教えてあげるととたんに目を輝かせて「食べたい」と言う。
チーズの味がわかるなんてやるねぇ…と笑っていたら、もご子ちゃん、粉チーズをピザやパスタにかけるのではなくそのまま食べだした。
お母さんの言うには、ふりかけもご飯にかけず直接食べるのが好きとか…。おかかもそのままむしゃむしゃ食べちゃうらしい。
もご子ちゃんは必死になってぱさぱさした粉チーズをほおばっていたので最後のほうには口の中がもごもごになって(だからもご子ちゃん)ちょっと息を荒げていた。
お水を飲んで、満足そうだった。

けれどそれにしてもとてもとてもいい子。
感覚で、大人の動きをさっするところはさすが。

パスタ屋さんを出てまた猫に出会った。
大きくてしっぽがぽきんと折れている。
私とまるで幼なじみくんはまた地面すれすれにしゃがむようにしてこの子を撮らせてもらう。
貫禄。

小石川植物園にむかう道。
さくら並木なんだけれどきれいに紅葉していて、下る坂道をみのがしたくなくてカメラをずっとのぞいていた。
みんなから遅れをとりながら。

枯葉はこんなにいろんないろ。
一眼レフを持っていてそれでカラーを撮ろう、と思っていたからせっかくの紅葉も白黒だらけ。

遅れをとっていたら前の方からみんなが私を呼んでいて、なにかな?と走っていったらもご子ちゃんが葉っぱをみせてくれた。
「おばけだよ」

もご子ちゃん、ちょっと遠くから急にこのおばけの葉っぱに向かって駈けだしたんだって。

そしてこのおばけとは、不思議な縁が。


……つづく。

かえりみち


塗り重ねて純白にしてもそのおくにひそんだ誤魔化しはたちまちあらわれてしまう。
ごまかし、と意識していなくても。
ほんとうのことばを並べても根本がねじまがっていたら沼に建てたお城のように傾いたり、足元が濡れたりしまう。

なんども間違って、なんども誤解をくぐりぬけて、そして自分さえ気付かなかったところにたどりつく。
どうしてはじめから、ここから生まなかったのだろうと首をかしげる。
その作業の前はそこにとびらなんかなかったもの、とつぶやく。
20年も前から迎え入れようとしていたのに、というかおをしているけれど確かに。

めぐりめぐっておなじところに帰ってきたはずなのに景色がちがう。
たったひとつのそのことがもういちど振り返るその視界をすべてかえる。


たいけんをいくつ、みつけだせるのか。
さらいなおしながら。

もじがさわぐ


特別に好きな文章は、字のならびでわかる。
まるみがちょうどよいから。
文字の部分と余白の部分のバランスの甘味が絶妙だから。

ぱっと見ただけでその文字の色が見えるほどの感覚が私にはあるわけじゃなくて、温度のほうをむしろ感じるのかもしれない。
温度…じゃないかなぁ。手触り。

絵や写真にはそのひとがあらわれると思う。文章にだって。
だけどこの文章の配列…俯瞰図…手触り…?甘さ?なんと表現していいかわからないけど、それにもすごく特徴が出る、ような気がする。
私が感じるのはある特定のひとだけだけれど。

漢字とひらがなの配分かなぁ。それによる黒と余白のバランス…。
なんだろう。何をどう感じているのか自分でもうまく説明ができない。

そのなにかは日記でも、ちょっとしたメールやコメントでも同じ。
不思議なものだな。

不思議でもなんでもないのかもしれないけど、とおくからでもその動物の模様を見分けられるような感覚で、文章がわかる。
そのことにふと気付いた。

ある朝早く、


銀座の街を歩きながら、寒いのにちっとも寒い気がしないなと思う。
読んだ本がくれたあたたかさや、新しい縁や生まれ変わった関係や感覚が、ふくふくと皮膚のうちがわを満足させている。
だから。

まいにちわたしは過ぎ去るし、まいにち生まれ変わる。
まんまるに単純な自分にときどき苦笑いするけれど、この単純さを得るための過程を思えばそれもいいか、とやわらかくごまかす。


私はぜんぜん勇敢じゃないなとときにひどくがっかりする。
やさしくてつよいひとたちにかこまれているだけだ。
それはもちろん幸せなことだけれど。


ひかりにあふれた写真を撮ろう、と思う。
ベランダのこちら側から、陽にすけた産毛をただ見るのではなく。