別れたわたしのこと
ときどき、あまりに強いシーンだと本当に叫んだりしてその場から飛び出していってしまうのではないか、と自分を心配する。
そういう映像を容易に想像できる。
あと少しのところでそっちが現実になってしまうのではないか…このせめぎあいに理性が負けちゃうにはそんなに大きな負荷は必要ないんじゃないか…
まわりのひとは静かに座って作品を見ている。
私も表面は静かに、けれど生まれる直前の赤ちゃんみたいに薄い皮膚をすかしてそのこぶしが頭蓋骨を押し退けようとしているのを同時に感じている。
あんまりこんなことが激しく起こりすぎて、恐くなった時期があった。
まだ私は小学生だったと思う。
だからあまり激しすぎる間接的なもの、悲しすぎたり恐すぎたり残酷すぎたりすることは、私とは離れたところにおくことにした。第二の映像のなかのできごととして。
私がそれを痛く感じたり泣いたり本気で恐れる必要はない。
じゃないと私はびりびりになっちゃう。
びりびりになってみてるひとは、近くにはいなかったから。
だから、手放した。
はっきりと覚えている。
たぶんとても恐い映画を見たか、とてもつらいニュースを見たとき。
とにかく私はTVに向かい日常のなかで、皮膚の薄すぎるわたしと決別した。
けれどもしかしたら、私はそうすることでずいぶんとながいあいだ、本当に感動したりなにかを大切にすることすらを遠ざけていたのかもしれないとも思う。
そのときのせいにするつもりはない。たぶん今もそういう傾向はあるんだろうと思うから。
ひとと話すことや踊ることや…芯のなにかを曝け出したいと思えることを経験して、ちょっとずつ取り戻している。
ときどき歯噛みしたくなるくらいに遅々とした歩みだけれど。
どこまで膨らむのか、どのくらい痛みはいたくて青はうつくしいのか。
どれほど闇は遠くて叫びは鋭いのか、
わからないけど。
*
もちろん私はその分けたものと完全に決別したわけじゃなくて、直接の感覚としてはいれないようにしただけ。
いつもそのとりあえず、のような箱はそばにあって完全に見ないようにするほど無欲でもなかった。
どうしようもなく苦しかったりかきまわされちゃうそのすべてもちゃんと、受けとめて味わうことができていてもよかったのに…
今になって思う。
そう思えるようになったから、よかったのだ。
『死の天使』/ヤン・ファーブル
ゲネプロと本番の2回を見た。
まず驚くのが、埼玉芸術劇場の大ホールでの開催ながら入場すると客席も舞台も素通りして舞台裏(ほんとうの舞台裏ではないんだけど)にあげられ、詰め込まれること。
演技はその舞台裏だけで行われて、舞台も客席も最後まで空のまま。
なんて贅沢な使い方。
けれどちょっとあっけにとられたもやもやを残す以外になにかしらの意味があるのだろうか?とゲネプロを見た日は思ってしまった。
けれども2日目に、もしかしたらこれは死の天使の存在する異空間につれてこられ、まるで秘密みたいにことが運ぶこの場所に蓋をされる…ということがまず大切な演出なのかもしれないという気がした。
私たちが演技を見ているまさにそのとき、演者がいるはずの舞台にも観客がいるはずの席にも誰もいない。
けれどその裏で観客は席をうめているし、儀式は、語られることは進んでいる。
この不在と完結の同時進行のようなものを帰りにまた舞台をとおり客席をとおりしたときに感じて、ちょっと鳥肌がたった。
イヴァナはとてもとても綺麗なひとだったしすばらしいダンサーだった。…し、いいアクトレスだと思う。
ゲネのときに彼女は一度も観客にもなににもおもねらなかった。
一度も、彼女がつくりあげ信じた存在から外れることはなかった。…ように感じた。
普通にどこかで生きている彼女自身はそこにはいなくて、なんだか完全に近い、遣わされたなにものか…みたいに。
ゲネは一番遠い席で見たから細かい表情や視線の揺れのようなものをみなかったからかもしれないけれど。
けれど本番は近くで見たせいか、その乱れのない張り詰めのようなものはところどころほつれていたように思う。
私はときどき、演じている彼女自身をどうしても思い起こさずにいられなくなった。
…かといってそれがいけなかったわけではなくて、それはそれで魅力的だったんだけど。
一緒に揺らいだし、たとえその揺らぎに私が多少疲れたからといってそんなことで目を離せるようなダンサーでもなかったから…かな?
ただ、どっちが彼女やファーブルの意図だったんだろう、感じさせたかったのはどちらだったのかな、と創り手のあたまを覗きたいような気持ちにはなった。
イヴァナがのびのび踊るところを見てみたいな。
ファーブルの作品を見たのは初めてだからか、まだうまく判断することができない。
フォーサイスとイヴァナとのやりとりも、私の英語力じゃ半分も理解できたかどうか…というところだし。
けれどこれは身体とか、ダンサーのもつ表現方法の、これからどこかしらに結び付きそうな可能性のひとつではある。
『Here After』/Wim Vandekeybus
ダンスカンパニー、Ultima Vezのビデオ。
ダンサーひとりひとりの存在感がいい。
ときに俳優のように目のゆく先や爆発するからだが語る。
ひとの感情をこえて掘り出されたまっさらなはずのダンサーたちは、しかしそのことでよりひとりひとりが浮き立って見えたような気がする。
ものすごい大きな闇のなかでくっきりと白い意志が生まれて、もがいているみたい。
生身のにんげんなのか、罪を引き受けた天使なのか、常闇を彷徨うまだ生まれる前のいのちなのか。
特に女性のほうが印象的だったけれどそれは自分に重ねたからだろうと思う。
もしも私だったらこんなに厚みのある息遣いをこの画面に残せるだろうか、というふうに。
この作品は白や黒のシンプルなかたちの衣裳だったのだけれどこのあとに見た『The Moebius Strip』はものすごく普通にジョギングでもしそうな出で立ちだった。
そのことでふと、ダンサーがからだからいろんなものを削ぎ落とす(贅肉のような物理的なものもそうだけど、動的なこと)のもこの、イメージを固定しない衣裳を着るということと同じラインにあることなのかもしれないと思った。
つまりより純粋にその作品の意図を投影し、そしてその像をなるべく歪ませずに観客に届けるということ。
たとえば必要以上の想像を与えない。
たとえばからだや空気の軌跡以外のところに視線が散らないようにする。
演じている、ということをふいに思い起こさせない…または、演じていた方向にふとした変更をみせない。
もちろんダンサーはただのまっさらなスクリーンであるわけではない。作品をからだや精神に投影することがもうすでにそのダンサーの意志の介入なくてはできないことなんだし。
踊るときの表情や間の入れ方、たちのぼらせるもののことへのヒントになりそうだと思う。
そして、ほんの少しのごまかしや余計なぶれもすぐさま伝わってしまう緊迫感も覚えておこう。
影の使い方と血を白で表すやりかたが悪くないと思った。
全体的にとてもセンスがよい。
ビデオでのダンスの作品づくりもたぶんおもしろいだろうなぁと興味が出た。
ダンサーひとりひとりの存在感がいい。
ときに俳優のように目のゆく先や爆発するからだが語る。
ひとの感情をこえて掘り出されたまっさらなはずのダンサーたちは、しかしそのことでよりひとりひとりが浮き立って見えたような気がする。
ものすごい大きな闇のなかでくっきりと白い意志が生まれて、もがいているみたい。
生身のにんげんなのか、罪を引き受けた天使なのか、常闇を彷徨うまだ生まれる前のいのちなのか。
特に女性のほうが印象的だったけれどそれは自分に重ねたからだろうと思う。
もしも私だったらこんなに厚みのある息遣いをこの画面に残せるだろうか、というふうに。
この作品は白や黒のシンプルなかたちの衣裳だったのだけれどこのあとに見た『The Moebius Strip』はものすごく普通にジョギングでもしそうな出で立ちだった。
そのことでふと、ダンサーがからだからいろんなものを削ぎ落とす(贅肉のような物理的なものもそうだけど、動的なこと)のもこの、イメージを固定しない衣裳を着るということと同じラインにあることなのかもしれないと思った。
つまりより純粋にその作品の意図を投影し、そしてその像をなるべく歪ませずに観客に届けるということ。
たとえば必要以上の想像を与えない。
たとえばからだや空気の軌跡以外のところに視線が散らないようにする。
演じている、ということをふいに思い起こさせない…または、演じていた方向にふとした変更をみせない。
もちろんダンサーはただのまっさらなスクリーンであるわけではない。作品をからだや精神に投影することがもうすでにそのダンサーの意志の介入なくてはできないことなんだし。
踊るときの表情や間の入れ方、たちのぼらせるもののことへのヒントになりそうだと思う。
そして、ほんの少しのごまかしや余計なぶれもすぐさま伝わってしまう緊迫感も覚えておこう。
影の使い方と血を白で表すやりかたが悪くないと思った。
全体的にとてもセンスがよい。
ビデオでのダンスの作品づくりもたぶんおもしろいだろうなぁと興味が出た。
夢/曇り空とねこやなぎ、写真
写真を撮る夢をみた。
新宿のうちから北の空を見ると薄暗い雲が割れて光が射している。
手前にはふさふさとした産毛が光るねこやなぎ。
お互いの灰がかった暗さと光のまざりあいが美しかったのでカメラを手にとるけれど、ふたつを分けている電線の存在がどうも難しくてシャッターを押すことができない。
そのあともあれこれと被写体をみつけていくけれど、写真にしたとたんそこにある影の深さも光の温度もいっきに違うものに変わってしまい、ときには消え失せてしまう。
思い通りのものは撮れないものだなぁと夢のなかながら、思う。
今見ているここ、には今の私が霧のように、またはトンネルの逆につめこまれたように、対峙している。
対象一点のまわりに付随する視界に紛れてくるものも含めた景色だから、これとまったく同じものを切り取ろう、とか拡大しよう、というのがやはり無理なのかもしれないとも思う。
生きた目で見る今とはまた別もの。
だってそれはカメラをはさんで、時間をはさんで、練り直された記憶をはさんだ、別の景色なのだから。



