アマヤドリ -71ページ目

涙のわけ


なんで赤ちゃんが泣いてると一緒になって泣きたくなっちゃうのかな?
昔から謎だったけどわかるひといますか?
可愛らしいからいとしくなっちゃうのかな。それとも自分が赤ちゃんだったときの条件反射かな?
赤ちゃんの泣いているその理由をどこかで感応してしまっているんだろうか。
お母さんがやさしいから?

電車の中とかで赤ちゃんが泣くと、涙をこらえるのに必死になる。
その涙は不快なものではないけれど。

かなしいとかいとしいとか、うれしいとか。そんな分類ができないまぜこぜのままそこにいてくれて、けれどその感情にはちゃんと意味がある。
そのことにこころを打たれるのかな。

素描/影踏み


確かなのは影だけだった。
月明かりがおとす影は傘をかむったように滲んでいる。
ときおり動く風がそう遠くないところに湖があることを教えてくれる。
それほど闇が深いわけでもないのに目を開いているのかがわからなくなる。
耳がそれを塞いでいるのかもしれない。

かすみを足で払いのける。
乱して余計に隠してしまった。
丁寧に、すくって確認する。
息をつめるように親指から感じてゆく。
冷たいが確かに、そこにある。

*

少年はチーターの首を抱いて静かに涙を流していた。
一番深いところにいるからそれは毛穴を覆う霧にも見えただろう。
水の匂いに満ちた闇のなかでもなお独立を保っていたやわらかな産毛は、ほほに接したとたんにこのうえなく優美な流れをつくった。

*

なにかが揺らいだことを感じて振り向いた。
月は姿を消してしまっていた。
あまりにも夢中にまっすぐ進みすぎたのだ。
影が失われて湖から離れてしまったことにいまさらながら気付く。

呼吸までが静止する。
まるで夜行性の猛禽類に見つかるまいとするかのように。

*

次第に少年の呼吸はチーターのそれと同化する。
胸に接する右耳には、体温もリズムも時間の景色も錆ついた爪の記憶もすべてが束になって流れ込んでいた。
涙はその結実ではない。
トンネルを抜けたそれらは紐を解かれ月のない夜を覆ってゆく。

*

さぐる指は決まっているのだということを知る。

影に触れるために屈む足首は錆ついたように想像が及ばない。
どういうわけか鼓動は右耳ばかりに響く。
平たい石を鋭く投げて粉々にしたい、と思う。

*

間隔をせばめながら近づきくる乾いた加速に、少年はそっと首筋の模様の奥をさぐる。
さぐるみちすじはいつも等しい、と彼女はそこに体温を送ってやる。



指がまったく音を奪われてやっとそのかおりに辿り着いたとき、
少年はまばたきをした。

もう二度とその重みを胸に受けることはないのだと悟りながら、
彼女は深い呼吸でこぼれ落ちた湖の音を記憶した。

指輪はないけれど


朝ご飯のりんごをかじりながらこのところ毎日朝の地平線を眺めている。
夜にあかい朝がにじんでゆくシーンを写真に撮ろうか毎朝迷うのだけれど結局は負けるような気がして、そしてただ目に映すことにとどめておきたくもあり、りんごを食べ終えるまでの短い時間を朝日とすごす。
ちゅんを肩にのせてまたやってくる朝を待ち受けているなんてなんだかインディアンの勇者のようだ、と背筋をのばし床を踏みしめる。
そう思いながらちゅんを見つめるとちゅんもその気なのか、むわっと頭の羽毛を逆立てて、それから尾羽根を扇みたいにきれいに広げてみせた。

ちゅんは相変わらず元気です。
仲間の群れにいる鳥たちとは違い、ほんとうにひとの、私たちの生活のことをよく知って馴染んでくれている。
すごいことだと思う。
私がちゅんや鳥について知ったこと…とても規則正しく毎日を過ごすルールがあることや仲間のことをよく見て意識を感じ取るちからが強いこと、よく遊ぶこと、感情が激しいこと、前の日の機嫌を次の日までひきずること…よりもはるかに多くの情報をこのこは取り入れ理解し、そして受け入れて生活してくれている。

ときどきどこかからきこえてくる新しい声や鳴き方を覚え、それで出迎えてくれる。
なんて音感にすぐれているんだろう。
おそらく、私たちの会話もことばの意味とともにその音の強弱や高低でとらえているんだろう。

自分の噂話には特に敏感で、ふと視線に気付くとちゅんはじっとからだ中を目にして耳をそばだてている。
そして我慢できない!というふうにばさばさと飛んでくる。

ことばの種類は違うのに会話ができるというのはすごいこと。
ちゅんと出会って、ひと以外の生きものがどんなふうにお互いとつながっているのかをなんとなく感じることができるようになった、気がしている。

フィリフヨンカ

どういうわけかフィリフヨンカに心ひかれる。
神経質で悲観的でちょっぴり自尊心の高いフィリフヨンカ。人物としては特別好きになりそうにないかんじなのに、彼女が見たり感じたりするものがとても好きだ。

『世界のおわりにおびえるフィリフヨンカ』をもういちど読み返してみたのだけれどやっぱりなにか胸の奥を細かく揺さ振られる。
これがほんとうの繊細さに触れたときの私の動揺なんだ、と気付く。
こんなシンプルなことになかなか思い当たることができなかった。

あらゆる細かいことを針で掬いとり隙間をぬってゆくような…けれど大きな幹の根元でも世界を受け取っている。
でも彼女はたぶん、そんな自分を分析したりはしていない。ただ感じている。ただ傷ついたり文句を言ったりもしてみている。

たくさんのことが怖いから、怖いものを見る。
恐れているからそれを待ってしまう。
許せないことがあるからちいさく鋭く、傷ついたりもする。
彼女は世界にあらゆるものを見る。いちばん美しいものもいちばん怖いものもいっぺんに。

けれどそこからなにかを学ぶわけじゃない。
怖いものも美しいものも教訓のために存在するわけじゃない。
ただそこにやってきて圧倒的に包み、ちいさいひとびとは震えたりほっとしたりたましいをぬかれたりしてまた繰り返すのだ。
それがトーベ・ヤンソンを好きなところ。

トーベ・ヤンソンもフィリフヨンカをわりとたくさん好きだったんじゃないかなぁと思う。
なんとなく。

はせる


ことばも通じない、
雪のふりしきる、
またあの場所にいきたい。

冬に久しぶりに日本にいるのだ、と言うとなんだか外国通のようだけれどそうじゃないあのやっとこさっとこでまったくかっこよくなかったあの旅が、懐かしい。

なにを求めてるのかな。
はっきりとはわからない。
景色を、かな。
めぐる独白を、かな。

友達とあいたいことはもちろんはっきりしてるけど。


けれど、
ここでできることを今年はする、
と決めた。

***

一度思いを向けると望遠鏡のようにそれが拡大されてストレートに入ってくるから不思議だ。
けれど外から入ってくることに突き動かされても長いこと持続してくれない私は、やっぱりこのくすぶりを端から足の裏で実感していかなければいけないんだろうと思う。
踏み付けて自分のものにするまではかたちにするまい。そのほんのはしっこだけをかたちにしてしまってもう満たされるようなところが私にはあるから。