アマヤドリ -73ページ目

わたしは目地


お嬢さま。

なにか見えますか。
地面は冷たくないですか。
光合成ですか。
それとも擬似溶けバター中でしょうか。

もしかしたら、からだいっぱいでなにかを示しておいでですか。
やるせなさ…はたまた、盛者必衰…。


爆笑するお母さんを完全無視して在りつづけるお嬢さま。
撮影されてもまったく動じないお嬢さま。


こうせずにはいられなかったなにかは、いつかはじける日がくるのだろうか。

『ロミオ or ジュリエット』/ニブロール


世田谷パブリックシアターはコロッセウムみたいで好き。
いつか、いつか。あそこで踊りたい。

ニブロールを見るのは初めて。
ダンスだけではなくそこに映像と音楽と建築と衣装という専門分野が絡み合っている。
舞台装置を見た時にすぐに思いおこしたのが『ビル・ヴィオラ』の、何枚も紗幕が下がった暗い部屋。
http://ameblo.jp/chloe/entry-10019471409.html
舞台の奥から映像や光が層になって幕に映るさまは視覚的にもとても綺麗だったし、時間を生み出すことにも成功していたような気がする。

アフタートークを聞くまで私はこの『ロミオorジュリエット』という題名の事を思い出さずにいたのだけれど、題名にも象徴されているものごととものごとの境界、ライン、という話はとても興味深かった。
ちょっとした発見なのだけれど、例えば私は踊るときにはこの身体という枠組みを越えてどこまでもどこまでも意識をとばすことができる(そう見えるかどうかは技量が追いついているかどうか…なのでわからないけど)と感じながら、イメージしながらいるような気がする。
そこにある境界線を突破する、という意識でいたような。
でもトークの中で境界線はたえずそこにあって、手前に近づいたり遠ざかったりする、という表現をしていた。
私はその時、あっ!とびっくりしてしまった。
そうか、ここから飛び出すというのはそこにラインを意識しているからこそ生まれてくるのであって、なにも曖昧なまま遠くでぼやけて消えてしまったりはしていないのだ。
永遠、みたいな空間ももちろん可能性としてはあるし意識のなかではなおさらきりのないものという概念をつくりだせるのだけれど、それだって境界線を果てしなくはてしなく遠ざけた、と言い換えることもできる。
そこから私が得たのは、動きをつくるときの考え方なのだけれど、自分に引き寄せるにせよ最大限にふくらむにせよ、けっして見えないところにしかないわけではない、ということ。
限定があるからこそ無限を求めるのであって、はじめからどんな広さかも分からないなにかの中で全てをやろうとすると、たどり着けるところに触れられずに終わってしまう。

トークの中にも出てきたけれどこれは名前を与えるということととても似ている。
ひとは固有名を与えることでものを繋ぎとめ把握するけれど、その限定されたかたちから束縛されることもまた、ある。


あれっ。
あんまり同じだという説得力のある説明ができない。

けれど私にとってはこの二つは同じ感覚で、ここから導き出されるこたえは同じお部屋に存在している感じがする。
このところ少しずつ気付きだしている「すべての感覚にはその真逆がかならず同時に存在していて、意識と無意識みたいにそれでひとつを成している」というようなこと。


それから、いろんな舞台を見て私にこんな動きができるかなあとか、こんなインパクトは思いつかないとか、センスについてよくかんがえてしまうのだけれど、でも、自分がなんとなく大事に育ててきたものを膨らませて、時にはひとつひとつを繋ぎ合わせてみたりして、そうしてしんと見つめてゆけば、いちばん私らしいものができるのかもしれない、ということを思った。
そう信じてみよう、という気持ちになった。

ニブロールの舞台の印象と、トークで話されていたそこに込められたもの印象は私にとっては随分違って、だからこういうふうに感じる事ができたのだと思う。

響くあしおと


久しぶりに電車を乗り過ごしてひとつぶんの駅を歩いている。
だけどよりによってどうしてこんな寒い夜を選んじゃったんだろう?耳がとれちゃいそうだ。

以前もこんなことがあって、駅をふたつぶんくらい歩いた。
その時にはかなり長いこと反対方面に遠ざかっていることに気付かず、線路ぎわで電車においぬかれて初めてはっとひきかえしたのだった。あのときはかなり距離をかせいだつもりでいたから、もう終電車がおわっているはずの方向へ車両を見送ったときすぐにはその意味がつかめずにいた。

電車で足を閉じておけないとかRPGを最後までクリアできないとか¶がなんの記号だかわからないとか私にはたくさん欠けているところがあるけれど、こんな寒くてしかもあまり体調のすぐれない時にタクシーに乗るという選択肢をあえて捨て去ってどこまでも歩いてみちゃいたくなるというのは、大人として結構な欠陥のような気もする。
しかもひとりきりでもくもくとものも言わず、景色も見えない暗やみを早歩きで。
私ってほんとに根が暗いんじゃなかろうか。
暗くたって別にいいんだけどなんかむっつり暗い、みたいな感じ。

昼間の顔も知らぬこの街の、突然夜の顔を見ている、ということにほくそえみながら(やっぱりむっつり)、左手に北斗七星とカシオペアを見つけてどきんとする。
一瞬で見失う。
南にむかっているはずが、どう考えても東に歩いている。
でも線路はあそこだから、どう考えてもこちらでいいはず…。前回と同じ過ちはおかしていない。
とすると、うちは真南を向いて建ってはいないんだな。そっか。オリオン座がまだ右肩上がりのときにわりと正面にいるものな。
などと新しい発見をしたり。

大昔のひとはなにも目標がなかったから星を頼りに旅をしたのだろうけど、こうして地上が情報過多になっている今、溺れないようにと仰いだ空はシンプルに指し示す。
晴れていてよかった。
晴れているからきんきんと空気も冷えているんだけど。
寒いよ。

北欧みたいなおうちを通り過ぎたり頭の中に『音楽のような風』という懐かしい曲がエンドレスに、しかもやや早いテンポでぐるぐると流れ初めて困った頃、やっと見慣れたビルの飛行機への合図の赤いランプが見えた。
やっぱりおかしな方向からアプローチしていたみたいだ。

たいていの道は全然直線じゃないから真っすぐ歩いたつもりでもちょっとずつちょっとずつ、ピンセットの角度の開きのように方向のズレは積もっていく。いつのまにか考えていた方向に沿わないどころかクロスしていることも多々ある(一般的にはそれを方向音痴と呼ぶのかもしれない。でも方向音痴なりにその角度を計算し訂正したつもりなのにな。そのことが余計、ズレや混乱につながる。手を尽くしてもいつも残念な結果になるのはなんでだろう)。
どの街も京都のようならいいのに。


夜の散歩が終わりうちに着くともうもちろん家族は眠りについている。
誰も迎えてはくれないけれどこの廊下のむこう、扉のあちらがわで家族が眠っていてそこに帰ってきたということが、いつもよりちょっとだけ余計に大事であたたかくて有り難いことなんだなぁということを思う。

寒くてもちっちゃな幸せの、夜の散歩。

カナダワシ


お正月からまだ半月なんて思えない。
もう1ヵ月も経ったよう。
特別忙しかったわけではないし、やりきれていないことだらけなんだけど、そう感じる。

気持ちがちょっぴりぼさぼさしている。
ノイズがこころを騒がせる。
でもその正体はつかめないまま。
小さな爪はいくつか思いあたるけれどたいしたことじゃないし、ときどきそんなことがあるし、過ぎ去るものだともわかっている。
さわげさわげ、と放っておきながらも、大騒ぎになった胃をやさしく宥めるために七草粥を食べるように、なにかが必要とも感じる。
休養ではなくて深呼吸かな。
雑多なまま早足で歩けるほど器用じゃない。

つくりて


アートフェアに行ってきた。
ホテルの一室いっしつが展示室となっていて、入れ替わりたちかわりひとが作品を見てゆく。
せっかくホテルという場所を使ったのだからもうちょっとなじませてもよかったのに、と思わなくもなかったが、でもきっとホテルだからこそ非日常の、無機的な感じを狙ったのだろう。
バスルームに展示されたものはどれも若いかんじで、けれど面白かった。

初めて松井冬子さんの作品を見たのだけれど(どうやら複製だったようだけれど)あの深い黒い瞳の奥には何が満たされているんだろう、ということを思った。
ティーローズよりももっと血の色に近い花が部屋に飾ってあって、ちょっとくらくらした。



空間を創っている方とネイルアーティストさんのご夫婦のおうちに遊びにいった。
こころに残っていた、濃い色のばらと、私が唯一知っているマスカットの味のワイン。
自分でデザインしたというそのおうちはとても若くて、けれどこれから一緒に色を増してゆくんだよね、といった親近感でふたりを包んでいた。

素敵な床だったのでスリッパを脱いで指先で表面をたどってみる。
死んでない。
と思う。

ひとつの部屋で誰かの生活を思い浮かべ、小さなこころのひだを探る。
そして指先に花を咲かせる。
そんな奥さんには、家に帰ってきたときにこの床から大地の元気を受け取ってほしかった、とだんなさんは言う。
なんて素敵。
素敵すぎてオリオン座がぴかぴか見えた。

うまくお話できないと思っていても、私が何かを感じて、それを抽出しようとしたり中心ではないところからちょっとずつ手渡す作業をきちんと知っていて、とらえてくれる。
かたちにできなかったものがだんだん実を結んで重みのあるものと変わってゆく。
本気でなければ弾き飛ばされてしまうような厚みがそこにはあって、聞きたいし、訊きたい、みたいに白熱する。


ひとつ確かだと思ったことは、
あることに真剣に寄り添っていれば、おのずとそのあることは本当のすがたを見せてくれるし、
そこで見えたり感じたりしたことはその「あること」のみにはとどまらず、あらゆるものの根底に流れていることなんだ、
ということ。
自分にとって、という限定のことがらは、この自分で生きてゆくしかない世界の中ではすべてなのかなあ、
と、

これはまだうまくことばにできないけど。