アマヤドリ -75ページ目

親切で不器用な本屋さん、遠景

ボスがドバイに行く。
読書の好きなひとだから旅の心情に一番ふさわしい、好きな本をプレゼントすることにした。
本屋さんで本とは全然関係のないことを訊ねたらとても親切に教えてくれた。
走り回ってくれているあいだに話題の本を眺めていたら『閉鎖病棟』が並んでいて、もう内容のことは忘れているのに胸がきりきりと痛んだ。
その建物の知られざる場所に立ち入った。
ペリカン便は私との約束を破ってとっくに出発してしまっていた。
けれど本屋さんの好意が私の胸を満たしていたのでそんなにがっかりはしなかった。
とても不器用な男の子が、紙切れを定規でびりびり切って本を包んでくれたことも赦そうじゃないか。(これじゃ私が包んだのかと思われてしまう)

モノレールに乗っている。
モノレール大好きだ。
あえて各駅停車に乗る。空いているしゆっくり景色を見たいから。
今また『夜間飛行』を読み返しているのだけれど、ひとの生きている灯りを高いところから見ると愛情のようなものに胸をきゅっとされるのはなんでだろう。

絵の採掘抗


闇のなかで絵を見るという題材のなかで、自分自身がものを生むときにどんなやりかたをしたいか、生んだそのものから感じたことがまた自分自身をどう動かしてゆくのか、ということを考えた。

自分の持つ発想のなんと貧困なこと。
こころの中では境なく存在している感情というものを表現として表舞台に立たせようとしたとき、まずいかにそこから摘み出せるものが狭く限られているかということ。
選択の速度が遅いということもある。
そしてそれをからだで表すための、からだの語彙の少なさ。
それからまたさらにその動作から感じて内側にフィードバックするスピードの鈍いこと。
再び動きに移行するときにはさらにまた鈍い。もしくはなにごともともなわずやっつけ仕事みたいになってしまう。
そして振り返った時に、確かに感じていたこととこの動きには隔たりがあったなあ…という違和感。

痛感しつつも、けれどそのなかで迷いながらもがきながら動き、動かず、動けず…という状態もまた嘘のないわたしであって、そこから見つけた想いや刹那の感覚をまたからだに映しては立ち止まり、迷ったら身体的な感覚だけにシフトする…という、それもまた間違いではないのだということを思った。


からだが動くことに感情/シチュエーションは必ずしも要るわけではない(…としておかないと私の場合、すぐにお芝居に走りたくなる)。
けれど身体に感情の記憶があるからなのか、無機的に筋肉の記憶だけでとある動きをしたとしても感情や情景が呼び起こされることは確かにある。
「泣きたい」ということばの意味を知っている私が、悲しくもなんともない時に「泣きたい」と発声したときにちょっぴりその感情が沸き上がってしまうのに似ているのかもしれない。
逆に感情をともなわないとできないという動きもあった。

そこにこめられた何かがなければ気持ち良く踊りづらいし伝わりづらい、と私は常々思ってきた。
もちろん踊りというものすべてにそれを当てはめているわけではない。むしろそこが自分の引き出しのなさというか、頭とこころの堅いところでもあると感じている。


ものをつくったり自分が動きにどう向き合うのかということへの大きなヒントとなった。

***

そしてその夜に、年末から読み始めてようやっと終わりに辿り着いたとある物語で、主人公が漆黒の闇の中で絵を掘り出すというシーンがあった。
自身のほんとうの望みを見出だすまさにラストシーンなのだけれど。

不思議な符号。

せいかつにもおどることにも


演じるときに、まずなにかの状況や感情を作ろうとしてしまう。そういう場面はあってももちろんいいのだけれど、いつもそこからしか発することができないということろから抜け出したいな、とも思う。
作為のないところへ。
感じたところへ。
野性児だとか感じてるままにしか動けない…と言っているわりには、すごく定まった自分のなかでしか動けていない。しかもそれが訓練された明確な方法というわけでも、ない。

動いてみてそこで生まれる感情…感覚、気持ち、ゆらぎ動く何かを、素直にただ受け取ってみようと思う。

でもどちらもはっきりと、していないんだよなぁ。
自分が持っているはずのものは確かにあるはず。磨かれていないにせよ…って、この年でこれからです、と胸を張れることではないんだけれどもまあそれはそれとして仕方ないから認めるとしても、けれど感じているはずのこと、これが私です、ということこそがすごくぼんやりしている。
感じていればたいして頭にかたちとして残っていなくても良い…と、曖昧にしてきたことが影響しているんだろうな。

時間をかけてもいいから、私なりに、けれど私にだけわかる方法ではなく共通するものに変換して、表そう。
胸に手応えを残そう。


たぶん私の今年の目標は、これ。
はっきりと見据えようとすること。
曖昧のまま放り出さないこと。
胸とむねをつなぐようにして、理解したり伝えたりしようとすること。

やわらかく素直に、明るい視界でいること。

夢/寺、水の跡、フランスパン


夢。

お寺のようなところにいる。
中・高校の同級生Tくんが傍にいた気がする。

屋根から雨の残りが落ちてきて木の床に水溜まりをつくっている。
その水溜まりの淵は白い糸のようなものでできていてそれを手で移動することができる。移動すると水が垂れてくるおおもとも、動く。

私は長いフランスパンを持っていてそれにこれでもかというほどのバターをのせて食べようとしていた。
パンは麸のように、いくら食べても食べた気がしなくて、味も薄かった。

***

初夢は、どうしてもとある女の子に理解してもらえなくてもどかしい気持ちになる感じのものだった。
長く夢に浸っていたので一日、なんだかぼおっとしてしまった。


家に帰ってきてやっとまた明日から、始動。
ワークショップがまた始まる。

虹、覚え書き、ブレーキランプ


TVに虹が出てきたのをきっかけに、虹の夢をみたことを思い出した。

私は宙を歩くようにして虹に近づく。
虹は近くで見るとそれぞれの色が水性ペンのインクさながらに鮮やかで、ビニールでできた浮き輪のようなひらひらしたチューブに入っていた。
私は虹を跨ぎ越そうと思うのだけれど空中だからうまくからだのバランスが取れず、なんど足をあげても虹をひっかけてしまう。
虹は駄菓子屋さんにぶら下げられている穴の開いたピーピー笛ラムネの連なりのように揺れ、ところどころ折れ曲がり千切れてしまった。

***

従姉が、でもそれは初夢ではないよと教えてくれる。
初夢は1日の夜、今夜見る夢のことを言うのだって。

***

友達に言われたことを考え続けている。
どうすべきかではなく何を欲しているのか、わたし自身、わたしの奥底、わたしから発せられることそのものをもっと注意深く汲み取ること…、そういうことなのかな。
もっとみずからに耳を傾けること。
それが世界にひとみを向けることにつながるだろうし。
なのにたぶん、私はほんとうの芯でそのことを理解していないのだろう。


帰りの電車で、渋滞する車のオレンジの光のつらなりを美しいと初めて感じた日のことを、思い出した。

ひとはかわることができる。
ひとはかわってしまう。

あわせもつことの甘さと、痛み。