アマヤドリ -70ページ目

夢/心搏停止、そして踊りのこと

夢。

ちゅんをトレーナーのおなかのところに入れておく。
お互い暖かいしこのほうがちゅんは落ち着くような感じがして。
けれどしばらくそれで行動していてちゅんのことを忘れかけた頃、ふとおなかに温かみがなくなったことに気付く。
はっと見下ろすと小さなハムスターになって転がっていて、ひろいあげるともう冷たくかたまってしまっている。
きっと窒息してしまったんだ、と小さくちいさく人工呼吸を繰り返す。心臓あたりもちいさくマッサージする。
私の目のなかに次第に心電図が浮かんできて、そこに反応が生まれる。
よかった、生きていてくれる、と涙が出る。


***


リハーサルのあと写真撮影がある。今度の舞台のチラシにのるみたい。
写真撮るのは好きだけれど撮られるのは苦手だからなるべくしゃしゃっと動いてる感じに撮ってほしいな。

そのあとは、明日から本番をむかえるヤン・ファーブルの舞台稽古の見学。
本番も見にゆくけれど、稽古をみられることがすごく楽しみ。
本当はいいなぁと思った舞台は2回くらい見てみたいと思うことがある。その回ごとの違いを知ってみたいから。
けれど踊りのチケットは高いからなかなかそれもできない。

こういう機会を得て、もしかしたら出来上がった稽古と本番をともに見られるのが一番、求めているものに近いのかもしれないと思う。

とても楽しみ。

いちごのたより


遊びにいったらいちばんにおばあちゃんは今日描いたんだよ、とはがきを見せてくれた。
赤くて元気に育ったいちごの絵。
あんまり上手じゃないけど、というふうに出してきたけれどとても素敵だと思ったからそう伝えた。鉛筆の線も少しだけはみだした構図も赤の塗りも絶妙だよ、と。
そうしたらおばあちゃんはそうかねぇ、上手かねぇ?先生にも誉められたんだよお上手ですねって。そう?上手?うん、悪くないよねぇ?

私のお調子にのりやすい性質はおばあちゃんから受け継いでいるのだ。

一緒に行った友達に、今までつくったものを見せまくる。
歌の発表会の写真やお母さんの小さい頃の写真まで。

そんなおばあちゃんを私はいまここにかきとめる。
自慢しいなところもおばあちゃん、私に似せさせたに違いないなぁ。

はらぺこ

ふと、今日一日なにもご飯を食べていないことに気付く。
朝りんごを食べたし会社でおやつを食べたから何も口に入れていないわけではないけれど、よく考えたら昨日の夜もちゃんとご飯を食べていない。いただきもののカツサンドを少し食べただけだ。(←じゅうぶん食べてる?)
でもご飯のことを忘れていたなんてなんだか食いしん坊の名がすたるような気持ちがしてしまう。

時間にもこころもち的にも追い詰められるとごくごく稀にこんなふうに食べることを忘れる。
けれどO型は、次の狩りのための体力がなくなったら困るから食べずにいるということが本能的に苦手なんだって。私は典型的なそれで、たべなかった分まで次回の食事でとりかえさないと元気がなくなるような危機をどこかで感じてしまう。

*

からだにこもらせていても伝わらない。
当然のことだ。
黙っていて察してもらおうなんて都合がよすぎる。
伝える努力をする前にくんでもらおうと考えるなんて甘すぎる。

けれど、
すぐ言い訳をしてしまう。
そんな卑怯な自分の心根を知っているから、くちを出る前にころすことばがたくさんある。
ことばどうしが、道理どうしがぶつかりあって、しゅんと音を奪い合う。
そのまんなかで立ち行かなくなる。
そんなふうに所在なく、あしもとに並べられた非をみつめるしかないことが。

*

さて。
ご飯を食べよう。
ちゅんをおこさないように、こっそり。

…と思ったら起こしちゃった。
それに私の手の甲にとまっちゃったからご飯もたべられない。

それにしても眠そうなちゅんはかわいいなぁ。

たぐりよせたものも零したものも

なんて素敵な人たちに囲まれてるんだろう。
こころがむくむくひろがって、張り詰めて押さえ切れなくなる。
ぱんぱんできりっとねじったら裂けてしまいそうだ。
けれどきっとはじけてもなにも失われない。

そっか、これも衝動だ。
衝動が衝動をつくりだせる。
ものがたりが枝分かれしてまたかたるように。

誰かとつながることはわたしに降りてゆくこと。
たった今降りはじめた雪をときをおなじくして見上げるように。
目を閉じて呼び声をきくように。
同時に生まれ変わったそのゼロの景色にいつでも飛んでゆけるように。


セッションハウスへ友達のソロを見に。
偶然、友達のダンサーがほかにもでていて、やはりこの世界は狭い…というかつながっているなぁと改めて思う。

日常のなにげない動きを重複したり拡大したりという作品がわりと多いなぁ…という気がする。感情を遮断したり、シンプルにただ記号に置き換えたり…
たとえば歯を磨くという行為、買い物にいくという行為、時計の針。
そこになにかがこめられているのはわかるのだけれどそのこめたストーリーはそんなに重要ではない…というか…。
もちろんそういうものも面白いものもあればいまひとつ響かないものもあって、なにをそこにもってきたかということが一番重要なわけではない。
ただ、私は、たぶんつくるとしたらどちらかというと何かをたんぱくに変換するというものよりも、もっとものがたりを追ってしまうだろうと思った。
そして、それでもいいんだなぁ、ということも。

なんでそんなことを考えたかというと、すごいなぁと思っても、もし自分だったらこのようなものがつくれるだろうか…ということばかり今まで考えてきたんだなぁと感じたから。
自分からはこれが生まれるだろうか…生むことができるのだろうか…つくったとしてもここまでの真実味を与えられるだろうか…と。

けど、友達の作品をみて、別にいいんだな、と思うことができた。
私にはやはりものがたりが必要なのかもしれないし、もしかしたらそこから生んでみたものが記号のようなかたちを成すかもしれない。
それでいいんだ。

どんな体裁にしようかということは、最後でいい。



なんて書いてるけどもうずっと作品らしいものをつくっていない。
衝動のようなものを見過ごさないようにしよう。
ヒントはまずそこにありそうだから。