『死の天使』/ヤン・ファーブル | アマヤドリ

『死の天使』/ヤン・ファーブル


ゲネプロと本番の2回を見た。

まず驚くのが、埼玉芸術劇場の大ホールでの開催ながら入場すると客席も舞台も素通りして舞台裏(ほんとうの舞台裏ではないんだけど)にあげられ、詰め込まれること。
演技はその舞台裏だけで行われて、舞台も客席も最後まで空のまま。

なんて贅沢な使い方。
けれどちょっとあっけにとられたもやもやを残す以外になにかしらの意味があるのだろうか?とゲネプロを見た日は思ってしまった。
けれども2日目に、もしかしたらこれは死の天使の存在する異空間につれてこられ、まるで秘密みたいにことが運ぶこの場所に蓋をされる…ということがまず大切な演出なのかもしれないという気がした。

私たちが演技を見ているまさにそのとき、演者がいるはずの舞台にも観客がいるはずの席にも誰もいない。
けれどその裏で観客は席をうめているし、儀式は、語られることは進んでいる。
この不在と完結の同時進行のようなものを帰りにまた舞台をとおり客席をとおりしたときに感じて、ちょっと鳥肌がたった。


イヴァナはとてもとても綺麗なひとだったしすばらしいダンサーだった。…し、いいアクトレスだと思う。
ゲネのときに彼女は一度も観客にもなににもおもねらなかった。
一度も、彼女がつくりあげ信じた存在から外れることはなかった。…ように感じた。
普通にどこかで生きている彼女自身はそこにはいなくて、なんだか完全に近い、遣わされたなにものか…みたいに。
ゲネは一番遠い席で見たから細かい表情や視線の揺れのようなものをみなかったからかもしれないけれど。

けれど本番は近くで見たせいか、その乱れのない張り詰めのようなものはところどころほつれていたように思う。
私はときどき、演じている彼女自身をどうしても思い起こさずにいられなくなった。
…かといってそれがいけなかったわけではなくて、それはそれで魅力的だったんだけど。
一緒に揺らいだし、たとえその揺らぎに私が多少疲れたからといってそんなことで目を離せるようなダンサーでもなかったから…かな?

ただ、どっちが彼女やファーブルの意図だったんだろう、感じさせたかったのはどちらだったのかな、と創り手のあたまを覗きたいような気持ちにはなった。


イヴァナがのびのび踊るところを見てみたいな。
ファーブルの作品を見たのは初めてだからか、まだうまく判断することができない。
フォーサイスとイヴァナとのやりとりも、私の英語力じゃ半分も理解できたかどうか…というところだし。

けれどこれは身体とか、ダンサーのもつ表現方法の、これからどこかしらに結び付きそうな可能性のひとつではある。