アマヤドリ -303ページ目

インド式

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ああっ…疲れた…
と、こんな時なのについ池袋で買い物。

リップクリームをバイト先に忘れてきてしまったので購入。
インド式の、ハーブと胡麻油のリップクリーム。

どうしてもハーブとか、アーユルウ゛ェーダとか、漢方の、とか、アフリカのなんとか油、とかそんなのに弱い。
500円近くもする、こんなもの昔は買わなかったなぁ。

使った感じは無臭でべとべともしないからいい。
少しざらざらするのはラベンダーなのか…胡麻なのか。


つやつや唇で、明日は友達に会いにいくんだ。
爪を切らなきゃ。
赤ちゃんを触るんだし。

トイレの夢の不思議

困ったトイレの夢。

私は大きなデパートにいる。知り合いがたくさんいて、何やら修学旅行とかでその土産をみんなで選んでいるような雰囲気。でも夢の中でも私は今のように大人だ。
最先端のオーディオ機器があったり(振動の仕組みが違う、と誰かが一生懸命アピールしてた)、ちょっとオリエンタルなものがあったり。

何故か私は急に教えの子供たちを引率している。
Mちゃんが「トイレに行きたい」というので連れていく。
トイレはただの穴が開いている式のトイレで、ものすごく汚れた感じ。
(でも不思議とうわっというような汚さじゃない。どろんこ、の感覚に近い)
案の定Mちゃんはうまく用を足せないのでお手伝い。
でも手も足もべたべただ。
(これもトイレの汚れというよりはどろんこ、ってかんじ)
しまいにはトイレが溢れてきてしまう。全然流れない。
困るが、仕方ないと諦めて水道でMちゃんと手足を綺麗に洗ってあげる。
石鹸を付けて、ふざけながら。

何度もいうけれど、あんまり汚い印象はなかった。


私のトイレの夢はいつも困ったことが起こるんだけどどうしてだろ。
ドアがなかったり壁がガラスだったり溢れてきたり。

でも、意外とそんなには困ってないんだよな。




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madridさん

すいかパジャマ

もったりと厚くて、なんの飾りもない丸首のパジャマだった。
何度も洗濯して色落ちしたような赤の、肌触りもそんなに心地よいとは言えない、ごわごわした。

だけど私は小さい頃そのパジャマが好きだった。
なぜならスイカの匂いがしたからだ。

お風呂上りのすべすべの体をそのごわごわとした綿の厚みにもぐりこませて、くるぶしのところの太いゴムをひっぱる。そしてうつむき、胸のところを両手でちょっとつまんで持ち上げ、顔をうずめる。
そして深呼吸。

確かにスイカのにおい。


ほら、ってお母さんに嗅がせてみたけれど「スイカの匂いなんかしないわよ」って笑っているだけ。「赤いからそんな風に思うんでしょう。スイカの色に似ているから」

ううん、違う。絶対スイカのにおいがするもの。

私、もしかしてこのパジャマに昔スイカの汁を零したのかもしれないよ。
でもそれなら洗ったらスイカの匂いは消えてしまうよね?

何度も何度も洗濯に出しても、胸のところをつまんで嗅ぐと、必ずスイカの匂いがした。
夏も、冬も。

赤いからってスイカの匂いがするっていうんなら、緑のパジャマはきゅうりの匂いがするの?そんなことない。
このパジャマだけが特別なんだ。

ちっとも優しい肌触りじゃないしけた赤のパジャマ。


あのパジャマが大好きだった。

感覚を飛ばすことについて

発表会が終わったら辞めるはずだった女の子二人が、やっぱりダンスを続けたいと言ってくれた。辞めると聞いたときには本当にがっくりしたから(がっくりしすぎて日記にも書けなかった)、辞めないでくれることが本当に嬉しい。


金曜日はレッスンの組立もちょっと考え直した。

分からないかもしれない、と思わずにもっと体のことを考えさせてみよう。足の指先の使い方。床をつかむ感触。ジャンプするときに弾くつま先。

自分の手や、背中や、膝の裏や、感じたことのない部分がないように触らせる。
別に覚えてくれなくったっていいんだ。あの場で、あの時間だけでもその感覚を体験してくれれば。


発表会を見て、そして他の先生たちと話していて思ったのだけれど、やはり私と、HIPHOPの先生たちの下地は全然違う。私には教えられないこともたくさん。できない動きもたくさん。
でも私にしか出来ない事がたくさんある。
逆にあの世界で私は特殊なのかもしれない。体を感じること。芯を保つこと。空気を動かすこと。繊細さや、気持ちのこと。

うん。
だから自信を持って伝えよう。



最近パソコンを使っていて発見したのだけれど、マウスを自分の右手で触って操作すると画面に矢印が出る。その矢印を、遠隔操作する感じ。
それって、人の踊りを見て自分に取り入れようとするときの感じに似ている。つまり、振りを覚えられない人、先生の真似が出来ない人はそんな風に、相手のように動こうと思うんじゃなくて、こんな風にどちらかというと自分から働きかけていると思うといいかもしれない。

これは取り入れるときだけじゃなくて、多分踊るときに自分の姿を頭の中に投影しているときの感覚にもやや似ている。
舞台の中で自分がどんな風に踊りどの位置にいてどんな様子で映えているか。



最近子供のおもちゃでも、手元の板に字や絵を描くとそれが画面に映されるものがある。
私たちの小さい頃にあった、「せんせい」の発展バージョンだ。

驚く。

あの感覚に子供の頃から慣れるってどんなだろう。果たしていいことなのか...ちょっと疑問だ。
直接の大きさや距離感を知らぬままあの感覚に慣れてしまってはいけない気がする。


なんだか危機を覚えた。

ピエタ

時間は、偉大。
全然逆らえないなあ。

嫌になっちゃうくらい。

でも優しいとも思う。

こんなのも、今のこの私の心の有りよう次第で変わる。


必死なときには詰めるように心臓を掴んでいるから、
涙はでなかった。

涙が出るのは、きっと、去っていくものが愛しいから。

それを見送る私が、優しくいられることが、切ないから。

揺れる火を見るように、ただただ、流れてゆくその時間を想う。
こぼれてゆく全てをただ見送る、息継ぎも出来ずに。

冴えた空気がやっと入ってきて、
そうして、全てを穏やかに見送るしかない、そのことを芯に染み込ませることができる。



カラッポにはならない。

私にはこのまなざしがある。

わたしにはそれを抱ける腕がある。




堕ちてきて、大丈夫だから。

翼が熔けても、そこにゆける。