こんにちは、あずにゃんです。
今日は、2018年の1月から4月まで受講していた、
小田桐あさぎさんの『魅力覚醒プログラム』を終えて
1年とちょっとくらい経過したので、
何がどんな風に変わったのかを書いていきます。
【BEFORE】(2017年の終わりあたりまで)
なんとなく派遣社員
手応えのない毎日にウンザリ
母親が大嫌い
なんとなく休日を過ごす
自分が幸せになるイメージが持てない
【AFTER】(講座終了後、1年の現在)
相変わらず派遣社員
手応えのない毎日に拒否反応
母親と仲良し(大親友レベル)
ソワソワして休日を過ごす
幸せである
ざっくり言うとこんな状態でしょうか。
結局、派遣社員なんかーい!
って思われる方もいると思いますが、
紆余曲折あって、この1年、本当にいろいろな事に挑戦できて(失敗もたくさん)
一生で体験することはだいたい体験したのではないかと思います
ただ、このまま派遣社員を続けるのはどうしても辛くて、
2019年7月末から
プログラミングスクールにフルタイムで通います
この決断ができたのは、
あさぎさんの『魅力覚醒プログラム』を受講したからなんです。
私は、幼少時から母親が大嫌いで、
成長しても大嫌いで、
なんなら恨んでもいて、
いつでも一人で決断し、一人で黙々と努力し、
一人で結果を出し、その結果さえ報告せず、、
という親不孝娘でした。
『一人で』やらないと、
『一人で』頑張らないと、
『一人で』成し遂げないと!!
と思い、フランスでの勤務を終えたその翌年、
日本に帰国してから商店街を歩いていて、突然倒れてしまいました。
私は、薄れる意識の中でもまだ、
『一人で』帰らないと!
『通行人の邪魔になってはいけない』
と、人目につかない脇道までなんとか歩き、
そこでバッタリ倒れてしまったんです。
偶然にも、通りがかった商店街のおばちゃんが、
「アンタ!!大丈夫???」
と声をかけてくれました。
が、「大丈夫です!!」と答えた私。
その時、すでに呼吸はできなくて、
息ができない、どうしよう、と思っていたのですが、
『一人で』解決しないといけない!
と、おばちゃんの厚意を拒否しました。
実は、倒れる前にも、
道にうずくまっているところを優しいカップルに、
「大丈夫ですか?何か飲み物でも買ってきましょうか?」
と声をかけられるも、
「大丈夫です!」
と断っていました。
カップルは「本当に大丈夫かな?」といった様子で去っていきましたが、
おばちゃんは腹がすわっていました。
「アンタ!!どっから見ても大丈夫じゃないわよ!!」
と怒られ、救急車を呼んでくれました。
商店街の仲間たちを呼んできたおばちゃんは、
近くの休憩所に運んでくれ、
私の手をさすりながら、
「大丈夫だからね。今、救急車、来るからね。おばちゃんここにいるからね」
と言い続けてくれました。
私は呼吸もできず、体も硬直してきて、
動物のような声を出しながらもがき苦しんでいました。
おばちゃんが他のおばちゃんに「どうしよう、硬くなってきてる!」
と言っているのも聞こえました。
ああ、死ぬってこんなにあっさりしてるんだ。
よく、小説とかで、死に際にはお風呂の蓋閉めたかな、とか
些細なことが気になるもんだ、と言うけれど、
本当なんだな。
私、この人生で好きなこと全部やれたかな。
中学時代の演劇部、楽しかったな、舞台にもう一度立ちたかったな。
親に反対されて行かなかった美術高校、行けばよかった、絵を諦めなければよかった。
やりたかったことが、いっぱいあった。
そのうち、救急隊員が到着して、
救急車に運び込まれました。
救急隊員のおじさんも優しくて、
「手を握るよ、ごめんね!大丈夫、大丈夫。若い女性に多い病気だからね」
と手を握ってくれ、話しかけてくれました。
救急隊員のおじさんがいろんな病院にアタックするもなかなか受け入れられず、
やっと受け入れられた病院で、いろいろな検査をし、
出された病名は、
『パニック障害』
でした。
不安や恐怖、精神の不安定から来る、
若い女性に多く見られる病気とのことでした。
この病気の症状として、呼吸困難、手足の硬直、
「死んでしまう!」という強い思い込み
(実際には死なないそうです)があるようでした。
私は、当時、2年間気を張り詰めて働いていたフランスから帰国して、
当時付き合っていた彼の部屋にいて、
近所の商店街に買い物に出かけたのですが、
どうやらインフルエンザと生理が重なってしまったようで気分が悪くなり、
それでも、
『一人で』帰らねば!
『誰にも迷惑をかけてはいけない!』
と思って頑張って歩いているうちに、
周りの人全員が敵に見えて、
恐怖と不安と体調の悪さで発症してしまったみたいです。
病院からは、落ち着いたらさっさと帰るように言われたのですが、
運ばれた病院の名前もわからないし(救急車で意識朦朧としていたし)
また発作が起こったらと思うと怖くて怖くてたまらなかったし、
もう少しここにいたいんですが…と思いましたが、
病院も救急搬送者の受け入れで手一杯な様子でしたし、
なんとか帰ることにしました。
病院の標識を見て、病院の名前を知り、
携帯で病院がどこらへんにあるのかを調べ、
どうやったら帰れるのか検索。
ちなみにですが、
このとき、私の選択肢には、
・彼に連絡して迎えにきてもらう
・家族(母)に連絡してどうしたらいいか相談する
というのは、ありませんでした。
『一人で』なんとかしないといけないと、
この期に及んで、まだそう思っていたんです。
死ぬ、って本当に思ったのに。
今思うと、家族って、恋人って?
と思いますが、このときは誰かに頼るなんていう発想が、
全くありませんでした。
調べてみると、病院から彼の部屋までは遠く、
交通機関を乗り換えるなんて絶対にできないと思いました。
手持ちのお金もさほどありませんでしたが、
病院の前に止まっているタクシーに、
「ここまでいくらくらいで行けますか?」
って聞いたような気がします。
顔面蒼白の、なんなら震えている女に、
タクシーの運転手さんは優しく、
何かを話しかけてくれたような気がします。
(意識がほぼない)
私はそのときも、運転手さんにインフルエンザがうつったら申し訳ない、
手をさすってくれたおばちゃんは大丈夫だろうか、と
そっちが心配でした。
死を前にしてもなお、母を頼れない、恋人を頼れない、
周囲の人に迷惑をかけてはいけない、
こんなマインドで生きてきました。
この事件以来、私は寝たきりになり、
3ヶ月で10kg痩せて、近くのコンビニまで歩くこともできなくなりました。
(彼にも頼れないから、自分の一人暮らしの部屋に一人)
でも親に連絡しない。
それもこれも「母親は私に関心がない」と思い込んでいたからです。
自分に関心がない母親を嫌うことで、なんとかバランスを取ってきました。
あさぎさんの『魅力覚醒プログラム』には、
「親ワーク」というものがあり、
それを受講して、親への見方を変えたい、と思ったんです。
で、(長くなりましたが)今。
講座卒業から1年ちょっと経って、母とはほぼ毎日メールするくらいに、
仲良くなりました。
今回スクールに通えるのも、母が援助してくれたからです。
こんなことは2年前なら考えられなかったこと。
生まれて、38年目になってやっと母親と仲良しになれました。
早くプログラミングを身につけて、稼いで、
援助してくれたぶんを返したい。
講座のあと変化したことは他にもあるのですが、
長くなりすぎたので、この辺で。
続く