昔、「逆転裁判」というゲームのCMで
「邪道だ」
「面白ければ、いいのではないでしょうか」
というやり取りがありました。美人女優が、勝ち誇ったように、この一言で全てを説き伏せたようになっていたけれど、全然やり取りになっていません。一応裁判シーンを模しているのだからもう少しそれっぽいこと言ってくれないとこちらは意味不明になります。
 
「邪道ではありません。ゲームは面白さが全て、そういう価値観に従えば立派な正道です」
「邪道ではありますが、面白いかどうかということに80%の価値観を置くべきです」
ならわかりますが、それだと議論に負けてしまうのでしょうか。(邪道もちょっとわかりにくいのですが、その前の場面からのつながりがあったのであろうということで、納得しておきます)
 
 せめて
「面白ければどんなにお金がかかってもいい」
「面白ければどんなにクレームがあってもいい」
ならまだ次がとっかかれますが、
「面白ければいい」
は、軽く混乱をきたします。何がこのシーンの争点なのか見当がつきません。

 日常会話ですら、相手が推測して先回りをした発言をすると訳わからなくなるので議論中に突然論点ずらされると、
(あれ、今のどこを指しているの)
と混乱しているうちに畳みかけられそうです。
 議論系ブログでもしばしば見られますが、論点をずらすことで自分の土俵に持っていくというのは有効なテクニックなんでしょうか。ずらされて
(あれ、あれ、どこ行った)
ともたもたしていると、その意見に納得しているように見えていやです。
 
 
 4月25日の記事。議論に勝つ方法を時々考えますが、考えついたとしても実践は難しそうです。今壇上に上がっている問題を解決してから次に行こうとすると、相手に巻きこまれてしまいます。
「もっと他に考えることがある」「今はその話をしている時じゃない」
というのも話題をクルリンと変えるのに有効そうです。(このネタ別記事で使うかも)
「接客業をしていた時自分もそうした」
というコメントがありました。接客業の人との会話苦手なのにはそういうところもありそうです。
 そういう訳 で昨日突発的にmixiに潜入しました。現在判明しているのは、個人ページとコミュニティのページがあり、コミュニティに参加して友達を作り、個人ページにも来てもらうようなスタイルらしいということです。
 アメブロにスクラップブックという機能があるのですが、あるブロガーが作ったテーマのブックに他のブロガーが参加し、参加登録した人だけがブックに投稿できるというシステムで、このmixiのコミュニティというシステムにならったものと思われます。
 
 ヘルプ見ながらボチボチ探検してみます。その前にプロフィールもう少し何とかしないと。このブログとつなぐべきか別人格にすべきか、数時間悩んだのですが、リアル知人に見せることを前提に、発達障碍のこともこのブログのことも、プロフィールに入れないことにします。(招待してくれたのはこのブログの読者様だというのに)
 
 リアルで
「mixiやってる?」
と聞かれるチャンスが今後ないとは言い切れません。
「私mixiやってるのよ」
おお、何かすごいステータスがアップした気分です。ふた昔前の
「うちにはカラーテレビがあるのよ」
みたいです。(いくつだ)
 
 ほとんど非公開のプロフィールしかコンテンツがなく、お友達も招待してくれた人だけでは
「この人友達いないのねプッ」
となるだけでしょうか。
 友達いないのは本当だからまあいいや。ここでは書けないような趣味の世界(どんなだ)の同好の士を探してみませう。たまにmixiレポするかも知れません。てそんなに熱心にはやらないと思います。ちょいちょいとのぞいた限りは、ブログの10倍くらいコミュニケーション能力が必要な気がします。
 
 
 4月24日の記事。もう少しコミュニティ増やさないと。リアル知人を見つけても、嫌がられるのではないかと妄想してメッセージ送れません。本名使っていないので、向こうが気づくはずがないのですが。
 殺人事件の被害者のブログを閲覧しました。中学生くらいの女の子のブログはこんな感じなんでしょうか。文章は少なく、本名と顔写真がいっぱいで、フォトアルバムのようでした。
 被害者の方はお気の毒だし、責めるつもりはなく一般論として、
「公開されたブログに自分の顔写真や本名を載せるのは危険」
というのは言いつくされた感がありましたがそうでもないのでしょうか。私の相貌認知能力では、中学生くらいの女の子はみんな同じ顔に見えますが。
 
 ババくさいけど、ネットの常識はすごいスピードで進化しているようです。そこでmixi。mixiは本名でやっていることも多く、リアルで知り合った人とアドレスを交換し
「遊びに行くね」
というのも、若者の世界では普通に行われている模様 です。がーん。
 中学生も、名詞代わりに
「ブログ見てね」
というコミュニケーションになっている気がします。
 mixiは、入ったことないのでどんな仕組みになっているかよくわかりませんが、あれだけの人数(300万人超)になると、公開しているのとあまり変わらないんではと思ったりします。相手の身元がわかるだけまし? Yahooブログの訪問者履歴のように、自分で削除したりはできないんでしょうか。
 
 ネットとリアルの区別が薄くなってくると、
「ネットに顔写真を公開するのは危険」
というのは、
「外を歩く時に顔をさらすのは危険」
と同じくらいお間抜けなことになっていきそうです。
 
 
 4月23日の記事。ここのところ2週間に1回くらい大きな殺人事件が起きるのでこの事件もすごく昔みたいですが、中学生の女の子が先輩の男の子に殺された事件です。
 この記事をご覧になった方が同情して招待して下さり、ついにmixiに潜入しました。(ありがとうございます)あまり活動していませんが。
 平日は、ブログ2つ更新してコメント返信して巡回先を回ると終わってしまって、なかなかじっくり探検できません。しかしいつでも見ることのできるという安心感があります。mixiでこんなことがあったという報道がある度に、妄想しまくるしかなかったからです。
 自費出版の会社が倒産し、前払いした人たちが宙に浮いたというニュース 。こんな話を聞くとびびります。自費出版したいとまでは思わなくても(まとまった金がない)アメブロが1冊からでも本にしてくれるサービス をしていて、いつか作ってみたいとちょびっと思っていたので。
 
 個人を営業対象にしている会社が倒産すると、必ず前払いしていた人が宙に浮くんですが、法人対象の会社なら、基本後払いだからこういうことは起こらなそうです。回収できなくて倒産ということはあるでしょうけれど。
 出版社が本を出すと、作者に原稿料を払い、本を印刷し装丁し、流通に載せ、広告費を出し、営業活動もしなければならず、経費を回収するには長い年月がかかりそうです。自費出版なら書いた人が前払いで諸費用を払ってくれるので、会社としては資金が回りやすいビジネスと判断したのでしょうが、個人は立場悪いですね。
 
 この会社かどうか忘れましたが、昔求人誌か求人サイトに
 
職種:テレマーケティング
仕事内容:当社の賞に応募された方に電話をかけ、自費出版をお勧めする仕事
 
というのがありました。
 自費出版ビジネスの問題がチラチラ聞かれるようになると
(あの仕事で電話をかけたら、受けた人は自分の作品が編集者の目に留まった、と考えるんだろうな)
と思い出しました。
 こう書くと非難しているみたいですが、営業の仕事には多少そういう部分があるし、誰かに背中を押してもらったことで夢を叶えたのなら、お互いにとってよいことです。お金はかかっても、自分が書いたものが本の形になったらそれはうれしいだろうし、(たとえ売れなくても)書店の一角に置かれたら飛び上がらんばかりです。
 
 こういう営業の仕事をする人は、お金だけでなく「心のつながり」の部分、
「あなたのお陰で夢がかなった、ありがとう」
というところに喜びを感じる人であろうと想像します。
 そんなの青臭い、金さえ取れればいいのだ、会社の存続のためにはなりふり構っていられない、となると悪徳商法に向かっていくのですが。
「他の人に喜んで欲しい」→「私に感謝しないとは何事だ」
説教族が生成される過程にも似ています。あの人たちも元は(あるいは今も)いい人だったのでしょう。
 
 自分が被害者(適当な表現ではないかも知れません)ならと感情移入すると、せっかくの本が形にならずお金も戻って来ないのは本当に悔しいけど、もっと怖いのは2次被害です。だまされた人と笑い者になるのは恐ろしいです。
「怪しい会社に大金払ったのは自己責任」
「才能もないのにつまんないこと考えるからだ」
「最初から詐欺だったのに見る目がない」
「だいたいあんたはすぐだまされる」
ここぞとばかり説教族が群がるのを想像するだけで沸騰しそうです。
 何で被害者が悪者にされるのだ。説教族のターゲットは悪者ではなくて自分より立場の弱い人間だからな。ネット界に説教族ある限り、被害者自身がこの体験をブログで綴って本に、という訳にいきませんか。読んでみたいです。
 
 
 4月22日の記事。この翌日、私はmixiに招待される運命にある(次の記事を待て)のですが、碧天舎倒産により宙に浮いた被害者のコミュニティにも行ってみました。非公開で中身を見ることはできませんでしたが、こういう時に被害者同士が直ちに連絡を取り合える手段を個人が持ったというのは大変な革命です。
お手数かけます 」でも書きましたが、私は人に間違いを指摘されるのが大嫌いなので、自分が人に間違いを指摘する時は(私なりに)気を使います。例えば、相手が日付を間違っていると思っても
「日付違いますよ」
と言うのは相手が間違っていると決めつけ、見下しているようでよくないので
「こちらの予定表では違う日付になっていますが、変更があったのでしょうか」
と言います。奥ゆかしくて遠まわしでよいと自分では思っていたのですが、最近の言語研究から推測すると、場面によっては嫌味に聞こえたかも知れません。
 
 私も本当は説教族のように
「自分は絶対正しい」
と信じて生きたいのです。
「呪いの予言があたるかも」「私が間違っているかも」
グラグラになりかける心を叱咤激励し、
「絶対に、私が正しい」
と言い聞かせます。疑おうと思ったら全てが、自己の存在すら疑わしくなります。
 ほとんどの人がそう信じて日々を生きているのに、そのことは例外なく非難されます。
「自分だけが正しいと思って」
多分普通は思っているだけで、言葉にはしないのでしょう。考えたことをそのまま口にしていたからいけないのです。
 
 天動説が正しい、と言い張られたら、私はどうやって地動説を証明したらいいのでしょう。私は地球が動いているのを1度も見たことがありません。本に書いてあった、というだけでは笑い者です。
「本に書いてあることはみんな正しいと信じちゃっているのねクスッ」
と蹴り飛ばしたくなることを言われます。
 科学的なことなら証明は可能だと言われそうですが、こういう人たちに理屈など通用しません。どんなに証明を積み重ねたって、
「絶対正しいと言い切れるの」「見たの」
だけ。こちらが何とか歩み寄ろうとすると勝ち誇ったように
「さっき言ったことと違うじゃない。自分が矛盾しているって気づいている?」
そして捨て台詞に、呪いの予言。
(もしかしたら私が間違っているのかも)
とグラグラし始めます。混乱を救うのはただひとつ
「地動説が正しい」
という根拠のない自信です。
 
 他の考えを受け付けない、と私たちは非難されますが、何もかも受け付けていたら混乱しておかしくなりませんか。受け入れろ受け入れろとゴチャゴチャ押しこまれるとうわーっと放り出したくなります。
 
 
 4月20日の記事。天動説は単なる例えなので
「地動説は証明できます」
というコメントはしないで下さい。宇宙的規模の話になりますし、素人が証明する時は文献を引っ張ってくることを避けられません。他人を支配したいだけの相手に、まともに証明を試みても徒労になるだけです。