このブログのコンテンツのうち、最も批判されない(気がする)のは妄想小説です。爆弾魔に国外逃亡、拳銃所持など様々な反社会的行為を描いているのに、非難はされません。(して欲しいのではありません)
 個人の思想は批判されても、フィクションは許容範囲が広いのです。フィクションに目くじら立てるのは大人げありません。
 
 私は歴史小説が好きですが、よくできた歴史小説は本当ににあったことのように見えます。史実のような創作部分もあれば、創作のような史実部分もあります。定番の小説の設定を他の作者が流用することもあります。どこかの画家のオマージュではありませんが、流用の相手が定番の場合は目くじらを立てないのが通例です。
 しかし複数の小説に同じ設定が出てくると、史実と勘違いされそうです。それを遺憾とする考えもありますが、いちいちこれは創作です、これは史実です、と注が入ったら興ざめです。
 
 話は変わりますが、昔の某人気アニメソングに
「太陽は西から昇って東に沈む」
という意味の歌詞が含まれていて、私の周りにも信じている人は多くいました。小学3年生くらいまではいた気がします。今ならPTAが黙っていないでしょう。
 
 何が言いたいかというと、ネットの情報は玉石混合で価値が低いと言われますが、情報はネットでなくても玉石混合だし、ネット上にあふれる情報のあり方は、使う側が心得ていかなければいけないのだなということです。
 
 
 7月18日の記事。「批判」も人によって微妙に定義の違いそうな言葉です。
「批判しないで欲しい」「批判している訳ではない」
こういう人と対話する時は言葉の定義から始めなければならず、話題が本来の流れと枝分かれして複雑になります。
「私が批判されたと感じるので使わないで欲しい」
「自分は批判したつもりではないので使ってもいい」
否定をセクハラに置き換えるとわかりやすいと思うのですが。定義の違いを逆手に取られて
「言ってくれないとわからない」
と後でののしられると困ります。
「言ってくれないとわからない」
という言葉も
「あんなに言ったのに」???
と長期間悩んだのですが、これは後づけの理由で、本当は別な理由で怒っていた気がします。後づけの理由を私が延々と悩んで分析して
「今度からこうしよう」
と考えてまたすべります。
 ニュースコメントのような記事をもう少し増やしたいと思っています。後になって、この時期こんなことがあったんだ、という備忘録になるからです。単なるニュースの感想なので文句も言われないだろうと思いきや、人によっていろいろお考えがあるようです。(私の受け取り方なのでオーバー)
 
 「たまには時事ネタ 」の時のそんなの誰でも同じだ攻撃も鮮明な記憶です。私はこの記事を書く前に、この事件に触れたブログ記事をいくつも見ました。みんな
「痛ましい事件」「被害者がお気の毒」
と語っていました。私が見た範囲内では、私と同内容の記事はありませんでした。なのになぜそんなの誰でも同じだになるのでしょう。
「本当はそう思ってないけど書く時は痛ましいとか書くんだよ」
あるいは
「みんな思っていても書かないんだから書くな」
という意味なんでしょうか。
 
 秋田の小学1年生殺害事件の容疑者が新たな供述を始めたというニュースを見た時、私ははてブやブログ検索で、この内容を扱った記事を探しました。ひとつ見つければ、その記事に大量の検索トラバがついているので、たくさん見ることができました。
 ほとんどはニュース記事の引用と似たような一言コメントの構成でした。もしかしたらそのうちはてブでいい記事が出てくるかも知れません。時期が早すぎたんでしょう。
 ただ、何となく、こういうニュースにはこういう感想を抱かなければならないというマニュアルみたいなものがある気がします。
 ものが事件なだけに、表現に気をつけないと何てひどい奴だ攻撃を受けるといけないし、そんなの誰でも同じだ攻撃も避けたいとなると、他の人と同じようなことを書くのが無難です。あまりにも同じコメントが続くので、たまに違うのがあるとほっとします。
 
 私がニュースコメント書いても検索トラバがつくことがあります。その内容が、私の考えと反対でも気になりません。私が書いたことに反論している訳ではないとわかるからです。むしろそこについたトラバをたどれて便利、くらいです。
 自分がやったら相手にスパム扱いされるといけないのでやりません。私は批判されるのが恐ろしいので、自分がよいと思うかどうかよりも批判されそうかどうかで行動を選択します。これも批判されたりするのでしょうか。
「批判に負けずに自分の意見を貫くことができない人間はネットをやる資格はない」
とか。批判に負けずに、ということは批判を聞かなくてもいいということなんですから、だったら批判する必要ないのでは。批判に弱い人間をきたえてあげようということだとしたら、その人は何様でしょう。
 
 ただの感想を批判(相手を正そうと)することに何の意味があるのか、それを当然の権利として許諾しなければならないのか、考えてしまいます。
 
 
 7月17日の記事。日本ハムの新庄が議員立候補の打診を受け
「今のところその気はない」
と断ったそうですが、「今のところ」ということはいずれ政治家に転身する気もあるのでしょうか。
「全く興味がない」
ではないところが微妙です。

 何度も書いていますが、このブログは批判禁止です。こう書く時、私はそこはかとない罪悪感を感じます。自分の都合を優先した、よろしくないことであるという自覚があるからです。しかしなぜ

「批判する」

のが正しいのでしょう。批判される側の権利より批判する側の権利が守られるのはどうしてでしょう。
 なお、これから書くことは、自分の批判拒否姿勢への自己弁護であって、批判賛成派の考えには聞く耳持たない一方的な内容です。5連作です。 
 

 ある人に批判されたからと大改造を図っても別な人から批判されます。これはリアルでも混乱させられる点です。その人の言う通りにしたら絶対に誰にも批判されないかというとそんな保証はありません。批判する方も一部を見て無責任なことを言っているだけで、大改造しようとまでは考えていないようです。
 相手を正したい訳ではなく、それによって相手が大改造を図ったら責任逃れをするなら、何のための批判なのでしょう。
 
 批判のうち世間的に許されると考えるのは次の3つです。
 
1 権力者(政治家、マスコミ、大企業等)への批判→抑止力
2 被害者による加害者の批判→権利
3 公共の福祉に関すること→改造
 
 権力者は批判されるのが仕事みたいなものですし、歴史的には、権力者に意見するなど許されない時代の方が長かったので、これは維持されるべきなのでしょう。
 私は絶対に総理大臣にはなりませんが、仮になったとして、どんなに苦心していい政策を作ったとしても誰かしらには批判されるでしょう。あちこちに顔を立てようとすると中庸にならざるを得ません。とても思い切った手段には出られません。
 よく内閣支持率が調査されますが、私はいつ聞かれても、多分
「支持する」
と答えます。なぜなら
「支持しない」
と答えて
「じゃあお前が代わりにやってみろ」
と言われてもできないからです。事なかれ主義で駄目な国民ですね。
 権力者が何をしても批判される状態にあるほど、聞く耳持たないタイプでないとその地位に行けなくなる訳で、あまりいい傾向でもないような気がします。
 医療ミスへの批判が厳しくなりすぎて、一部の科の医師のなり手が減ったという問題もあります。何事もほどほどにということなんでしょうが、こうなると批判する側が逆に権力者になってしまいます。
 
 公共の福祉に反する行為への批判も、通常はそれで困る人がいる訳ですから、被害者の加害者への批判に含まれることでしょう。逆に、誰も困らなければ正す必要はありません。
 空き缶のポイ捨てから騒音おばさんまでいろいろですが、警察を呼ばなければならないようなレベルは一般市民の批判対象としては手に負えません。
 ブログにおける批判問題はそこまで社会的なものではなさそうです。絶大な権力者でもなく、加害者でもない一個人を改造する・・・やっぱり必要なんでしょうか。
 
 
 7月16日の記事。ややすべった感漂うシリーズでした。最近乙武氏のブログが炎上したことで炎上論再燃していますが、批判する側が一方的に守られている気がします。コメント者は逃げられてもブログ主は逃げられません。
 はてブ界から拾いました「閉鎖する前に考えて欲しいこと 」を読むと、閉鎖はそのブログの主の問題ではなく閲覧者の問題のようです。閉鎖した方は全てを消してスッキリでも、閲覧者は取り残されたような気分になる、私にも覚えがあります。
 閉鎖した人はかなりの確率で、時間をおいて違うハンドル(同じでもいいが)でまた始めるらしいですが、閲覧者はそうは行きません。
 閉鎖をネット上の自殺と例えることがありますが、それは消す側よりは閲覧者にとって、というのがぴったりきます。閲覧者からは、この世から消えたように見えるからです。逆に、縁起でもありませんが、リアルでブロガーが亡くなっても、ログが残っていればネット上では「生きて」います。
 
 ログを削除せず、更新停止のままだと、閲覧者も
「いつかまた更新があるかも」
と待ち続けることができます。
 もちろん、その通り、帰ってきてくれればうれしいです。しかし待つ間に別な興味や新しい友達を見つけ、残念ながらずっと更新のないブログのことは記憶から遠ざかっていきます。
 懐かしくなったらまた見に行けばいいのです。あなたはまだそこにいる、昔の姿のまま。もしかしたら別なテーマで別なブログを始めて私の知らない人と交流しているかも知れないし、変わってしまった自分を見せたくないのかも知れません。
 それならそれでいいのです。私の中ではずっとあの頃のまま、きれいな思い出です。私がそれを必要としなくなるまでは。
 
 それまで普通に更新されていたのに、ある日突然サーバー上から消えてしまうと戸惑います。
「何かあったのかしら」「もしかしたら傷つけたかも」
たいていは予感させる出来事があります。苦いものが残ります。それも一時のことで、やがて遠くなります。リアル世界と同じ、人の世の無常です。
 すると、閉鎖の時期はブログ主でなく、閲覧者が決めるのがよいのです。いつも、訪問者の数字には励まされています。きれいなお別れは最後のご恩返しです。
 
 もし、自分の意思で消したくなったとしても、更新を止めて、訪問者数が自然減になるのを待って、みんなが忘れた頃こっそり消すのがよいのかなと考えています。(更新をやめようとしている訳ではありません。妄想です)
 隠したい記事は隠してもいいし、コメントを停止してもいい、しかし削除はしないことにして。お別れするその日はできるだけ少しずつ、時間をかけてひっそりと、迎えるのです。
 
 
 7月15日の記事。リンクした先のサイトの方がこの記事(Yahoo版)をリンクして下さいました。
 いつか終わりの日は来ます。自分で消すのでなければ強制削除される時です。そういうのはおいといて、自分の意思でやめたくなる時、全ログを消し去ってしまいたくなる時、そんな日はくるのでしょうか。
 私が閉鎖を考えたのはアメブロ版だけです。当時は作ったばかりでそれほど愛着はなかったし、Yahooがメインでしたから。
 そのまま消えたら説教族に好き放題させたままになり、あいつらが万歳三唱するかと思うとムカつくので消えるつもりはなかったけど、もう記事は書けないかもとは思いました。書いたものを全部消してしまおうと考えたことはありません。
 
 また荒らされるかも知れないし、長期入院を余儀なくされたり、海外転勤(私は派遣さんだ)にならないとも限りません。
 長期入院しようが海外転勤になろうが、続けたい気持ちがあれば更新頻度を大幅に落としても続けることはできます。荒らしも、今と同じようにコメント消しまくりや場合によってはコメント欄を塞ぐことが許されるならそれほど怖いものではありません。
 
 他に理由を想定するとすれば、書いた内容に罪悪感を感じた時です。今も少しはあります。見て不愉快に感じる人は見なければいいのですが、そうではなく、ある種類の人に言質を与えてしまう可能性があるということです。わかりにくいですね。誰かが他の誰かを攻撃する材料になることがあり得るということです。余計わかりにくいですか。
 
 それでも最悪、全ログを隠して自分のために残すことは可能です。ログを消してしまうというのはよほどのことです。と思うのも、私がそんな気持ちになったことがないから想像しにくいのです。
 多くのブログが消えるのを見ました。ある日突然消えたブログ、閲覧中に消えたブログ 、あいさつのあったブログになかったブログ、悲壮な最後、明るい最後。どんな気持ちだったのでしょう。(さらに続く、はず)
 
 
 7月14日の記事。一定期間管理ができなくなる、ということはあるでしょう。Yahooだとログを隠すにもコメント欄塞ぐにも、記事をひとつずつ操作しないといけないから大変です。ブログでなくHPだと、1度コンテンツを全部サーバー上から削除して、また管理できる時期になったらアップするというのもそれほど難しくありませんが。