何度も書いていますが、このブログは批判禁止です。こう書く時、私はそこはかとない罪悪感を感じます。自分の都合を優先した、よろしくないことであるという自覚があるからです。しかしなぜ
「批判する」
のが正しいのでしょう。批判される側の権利より批判する側の権利が守られるのはどうしてでしょう。
なお、これから書くことは、自分の批判拒否姿勢への自己弁護であって、批判賛成派の考えには聞く耳持たない一方的な内容です。5連作です。
ある人に批判されたからと大改造を図っても別な人から批判されます。これはリアルでも混乱させられる点です。その人の言う通りにしたら絶対に誰にも批判されないかというとそんな保証はありません。批判する方も一部を見て無責任なことを言っているだけで、大改造しようとまでは考えていないようです。
相手を正したい訳ではなく、それによって相手が大改造を図ったら責任逃れをするなら、何のための批判なのでしょう。
相手を正したい訳ではなく、それによって相手が大改造を図ったら責任逃れをするなら、何のための批判なのでしょう。
批判のうち世間的に許されると考えるのは次の3つです。
1 権力者(政治家、マスコミ、大企業等)への批判→抑止力
2 被害者による加害者の批判→権利
3 公共の福祉に関すること→改造
2 被害者による加害者の批判→権利
3 公共の福祉に関すること→改造
権力者は批判されるのが仕事みたいなものですし、歴史的には、権力者に意見するなど許されない時代の方が長かったので、これは維持されるべきなのでしょう。
私は絶対に総理大臣にはなりませんが、仮になったとして、どんなに苦心していい政策を作ったとしても誰かしらには批判されるでしょう。あちこちに顔を立てようとすると中庸にならざるを得ません。とても思い切った手段には出られません。
よく内閣支持率が調査されますが、私はいつ聞かれても、多分
「支持する」
と答えます。なぜなら
「支持しない」
と答えて
「じゃあお前が代わりにやってみろ」
と言われてもできないからです。事なかれ主義で駄目な国民ですね。
権力者が何をしても批判される状態にあるほど、聞く耳持たないタイプでないとその地位に行けなくなる訳で、あまりいい傾向でもないような気がします。
医療ミスへの批判が厳しくなりすぎて、一部の科の医師のなり手が減ったという問題もあります。何事もほどほどにということなんでしょうが、こうなると批判する側が逆に権力者になってしまいます。
私は絶対に総理大臣にはなりませんが、仮になったとして、どんなに苦心していい政策を作ったとしても誰かしらには批判されるでしょう。あちこちに顔を立てようとすると中庸にならざるを得ません。とても思い切った手段には出られません。
よく内閣支持率が調査されますが、私はいつ聞かれても、多分
「支持する」
と答えます。なぜなら
「支持しない」
と答えて
「じゃあお前が代わりにやってみろ」
と言われてもできないからです。事なかれ主義で駄目な国民ですね。
権力者が何をしても批判される状態にあるほど、聞く耳持たないタイプでないとその地位に行けなくなる訳で、あまりいい傾向でもないような気がします。
医療ミスへの批判が厳しくなりすぎて、一部の科の医師のなり手が減ったという問題もあります。何事もほどほどにということなんでしょうが、こうなると批判する側が逆に権力者になってしまいます。
公共の福祉に反する行為への批判も、通常はそれで困る人がいる訳ですから、被害者の加害者への批判に含まれることでしょう。逆に、誰も困らなければ正す必要はありません。
空き缶のポイ捨てから騒音おばさんまでいろいろですが、警察を呼ばなければならないようなレベルは一般市民の批判対象としては手に負えません。
ブログにおける批判問題はそこまで社会的なものではなさそうです。絶大な権力者でもなく、加害者でもない一個人を改造する・・・やっぱり必要なんでしょうか。
空き缶のポイ捨てから騒音おばさんまでいろいろですが、警察を呼ばなければならないようなレベルは一般市民の批判対象としては手に負えません。
ブログにおける批判問題はそこまで社会的なものではなさそうです。絶大な権力者でもなく、加害者でもない一個人を改造する・・・やっぱり必要なんでしょうか。
7月16日の記事。ややすべった感漂うシリーズでした。最近乙武氏のブログが炎上したことで炎上論再燃していますが、批判する側が一方的に守られている気がします。コメント者は逃げられてもブログ主は逃げられません。