説教とまでは言いませんが、
「○○したらどうでしょう」「こう考えればいいのですよ」
というコメント。常連様はわかっていても、初めてくる方はしばしば善意でそう書いて私に消されてしまいます。私には押しつけであっても彼らには優しさなのです。
 
 私は自分が
「あなたのためを思って」
と言われるのが大嫌いなので、人に何かさせたい時は
「私がそうされるとムカつくから」
と言っていたのですが、これは感じ悪い言い方のようです。ということは、一般的には
「あなたのためを思って」
の方が感じがよいのです。
 
 多分、優しい人たちは
「押しつけるつもりはない。選択肢として、こういう方法もあるよと示しただけ」
とおっしゃるでしょう。しかしそれも、その方法が適合かどうかの判断を私に迫ります。そのコメントに返信しようとすると、その提案を試して感想を報告しないといけません。そのためにはその情報やアイデアを実行するためのマニュアルを作成しなければなりませんが、多くの場合
「こんな方法もあるよ」
と示した人は、それを私が実生活でどう組み立てたらいいのかのマニュアルまでは用意してくれません。私には思いつきを言いっぱなしのように見えます。
 
 例えばですが、私がヘアカラーをしたいと考えたとします。美容院に行こうとしたら
「市販ので平気だよ。簡単だよ。美容院高いよ」
というアドバイスがあり、それに従って毛染めを買ったら、ケープやタオルや新聞紙が必要だったとわかります。これで既にパニックです。
 市販のヘアカラーを勧めたいなら、何が必要でどういう手順でメリットデメリットがどうかまで説明して欲しいし、そうでなければ何も言わない方がありがたいです。言われなければ普通に美容院に行くし、それは多くの人が選択している何の問題もない方法です。
 そして、次に私が全然違う人に、別な時に市販のヘアカラーを勧められたら、今度の人の説明が丁寧だったとしても、前の時のことを思い出して怒り狂ったりします。
 すごいわがままですねきっと。どこまでも平行線です。
 
「言われた通りに」
はできます。
「自分で方法を組み立てる」
ことも私はできます。判断する、というのは高度な技です。2つの道がある、どちらにも一長一短がある、どちらを選ぶべきか、は結構難しいです。選択肢がひとつなら何の迷いもないし、明らかに間違った方法でなければとがめるものではないはずです。
 会社の仕事でも「判断」を任されるのは偉い人です。材料を集め、経験を積むことで私にも判断はできるようになりますが、他の人は私とは違う方法で判断しているような気もします。
 
 これほどまでに彼らが思いやりと信じる行為、リアルでも正直対処に困る項目なので、どうにか交わす、なるべく相手に不快感を与えないようにする、方法を考えなければなりません。
 ケンカしてばかりもいられません。心優しい人たちの声を聞くために、恐ろしくて逃げ回っていた事柄に、向き合ってみましょう。歩み寄る、ではなく向き合う、です。歩み寄るのはまだ恐ろしいです。(続く、予定)
 
 
 7月27日の記事。優しさに、せめて向き合えるように、返信は無理でもスルーができるように。
 このニュース、ネット上の反応がすごいです。2ちゃんねるの関連スレは一時アクセスできなかったほどです。情報が錯綜して本当のことがよくわからんのですが、意外に擁護論が少ないことに、日本の良識の進化を感じました。
 こういう時は、ついて行った女性が悪いという話が必ず出ます。今回も出てはいますが、ひと昔前に比べればゆるいです。
 
 ひと昔前だと、男性は、女性が例えば夜道を歩いていて後ろに自分(男性)がいることに気づいて走ると
「歩いていただけなのに人のこと痴漢みたいに、自意識過剰なんだよ」
などと雑誌に投稿したりします。
「君なんて頼まれたって誰も襲わないって、考えすぎ」
と私も言われたことあります。後になって他の人にも
「あいつ自分が襲われるとか警戒しているけど鏡見たことあんのかね。俺そこまで落ちぶれてないよ」
と笑い者にしたり。(そういう時の男性心理はこうだ、という解説はしないで下さい)
 私がブスなのは認めますが
「襲われ妄想」「勘違い女」
などと揶揄されるのは恐ろしいです。
 
 今回の事件の状況はわからないので、以下は私の妄想で構成されています。男女とも4人ずつくらいで飲みに行って盛り上がって、
「カラオケ行こうか」
となったとします。
「だったらホテルの部屋にカラオケついているから、そっちの方がいいよ」
なんてことになったら、自分だけ行かない、帰る、というのは勇気が要ります。楽しい雰囲気を一瞬にしてぶち壊す、空気の読めない人になってしまいます。
「ブスのくせに部屋に行ったら押し倒されるとか思っているんだ」
と笑われた上、自分が帰った後も
「思い上がったブスって醜いねー」
と酒の肴にされるかも知れません。
 もちろんそれでも振り切って帰らなければならないのですが、後から考えれば当然のことですが、それで何かあって、ついて行った方が悪いと言われたら、泣けてきます。
 
 加害者のタレントは38歳、被害者の女性は17歳だそうです。自分が17歳の時(遠い)を考えると、38歳の男性のモデルは学校の先生です。合宿や修学旅行では男性の先生と同じ宿泊施設に泊まりました。もし先生に話があるので部屋に来いと言われたら断れるでしょうか。学校の先生は別、と言えるでしょうか。
 身を守ることを考えれば例外など想定するべきではありませんが、きっと
「そういうのにうるさいのに限って絶対襲われそうにない顔をしている」
と言われてしまうのです。
 
 
 7月21日の記事。欽ちゃん発言以外はほとんど報道に上らなくなりましたがどうなったのでしょう。
 今や説教用語としてよりはスカスカ語の代表として定着した
「気概が欲しいということです」
ですが、原文ではこの前に
「障害が何だ、という」
がついていました。この前半部分も私はよくわかりませんでした。
「愛し合おうという気概が欲しい」
「挑戦するという気概が欲しい」
のように、前半部分に動きのある動詞的な語がくればわかりますが、
「障害が何だ」
はキャッチフレーズ的で動きがありません。説教族襲撃1周年記念月間最終日を祝って、この難語の解析に挑みます。
 
 この名セリフを発した方はこの場面でしか登場しなかったので、背景や人となりが判然とせず、余計意味が取りづらいです。まずは、「が何だ」の前の名詞を別な名詞に置き換えてみます。
 
貧乏が何だ
 これは、貧乏だからと卑屈にならずにがんばろう、という意味と考えられます。
 
金持ちが何だ
 これは金持ちだからと卑屈にならずにがんばろう、という意味ではなく、金持ちに対して卑屈にならないようにがんばろう、という意味と推測できます。
 
 つまり「貧乏が何だ」と「金持ちが何だ」は正反対のように見えますが、ほぼ同じ意味です。もっと言うと、「が何だ」の前にどんな名詞が来るかで受け取り方を判断しないといけないのです。
 金持ち>貧乏、美人>不細工のような言葉ならいいのですが、優劣のない普通名詞だと判断に迷います。
「青春とは何だ」
は意味わかりますが、
「青春が何だ」
は一瞬意味不明です。
 
紅茶が何だ
自動車が何だ
ブログが何だ
ホストクラブが何だ
 
 だんだん意味わからなくなります。「が何だ」より前の名詞をさげすんでいるとも取れなくもありません。前後関係やその言葉に至るまでの背景に依存する言葉です。あまり前の名詞にこだわらず
「が何だ」=「卑屈にならないようがんばろう」
と捉えた方が応用が利くかも知れません。
 気概もそうですが、「が何だ」をつければうっとうしいものがなくなってしまったかのような錯覚を起こさせるところが二重に匂います。
 
 
 7月31日の記事。
「障害が何だ」
は独立した文のようですが、主語も述語も省略されている気がします。
「お皿が財布だ」
とは明らかに文の構造が違います。
 雰囲気としてはわかりますが、何を要求しているのか、私がどうすればこの人は満足するのかわかりません。ブログを書くなということですか。もしくは障害については書くなとか、アストロ球団のような山ごもり修行をしてその詳細スケジュールを書けとか。
「お皿が財布だ、という気概が欲しいということです」
の方がまだ言わんとしていることがわかります。(わかるか?)
 なお、お皿は財布ではありませんというコメントはしないで下さい。
 批判は受ける側の義務というよりはする側の権利です。その権利をどれだけ尊重できるかが受ける側の度量の大きさです。私は器がオチョコ並です。
 個人がメディアとして情報を発信できるようになった、そしてそのことでいろいろな問題が生ずるようになった、というのもここ1、2年のことで、そのうちルールが固まってくるでしょう。たった1年でも、昨年の今頃とは随分違ってきています。
 
 批判する精神は必要です。いくら私がうるさくてもそう思います。前に、個人が唯一大企業に対抗し得る場がネット である、ということを書きました。意見を言う場など与えられていなかった一個人が世界中に向けて発信できる、これは大変なことです。
 そこで、批判の権利が
「弱者が強者を批判する権利」
から
「強者が弱者を批判する権利」
へのすり替えが起こりました。悪徳商法にだまされた人がネットで声を上げようとしても、説教族が押しかけて
「だまされた方が悪い」
とつぶしてしまうようなことです。
 これは私の被害妄想で、実際にそういう場面を目撃した訳ではありませんが、批判精神が強者から弱者に向かう場面はそこかしこで見ます。従来発信側は強者でした。個人が発信手段を持つことで批判される場も得てしまいました。
 
 こう書くと、自分を弱者だと言いたいみたいですが、それは今のところ言いたくありません。というのも、説教族が、私が攻勢に出たとたん被害者面を始めたからです。相手が弱そうならいじめ、反撃が始まると
「正しいことを言っただけなのに」
と嘘泣きを始める、というのは私の小学校の同級生にもいましたが、こんな自称弱者を容認したくはありません。弱者を武器にして他人を攻撃するようなことは。
 批判を禁じたら言論統制になってしまいますが、批判は個人攻撃のためにあるのではない、と信じます。
 
 今回のシリーズは、自分に都合のいい材料を集めて自分を納得させるルールを作ろうとしてすべった残骸です。自分は悪いことをしているのではないかという気持ちがどこかでくすぶっているので、ちょっとしたことで再燃してしまうからです。
 突っこみどころはあるかと存じますが、趣旨を踏まえて、どうぞ突っこまないでやって下さい。いつくるかわからぬ襲撃に怯えることなく、楽しくやりたいですね。
 
 
 7月20日の記事。自分が人のコメント消す以上、自分がコメント消されても仕方ない、と思うとなかなか交流のない人のブログにコメントできません。傷つける側になるのも怖いです。出不精ブロガー。なぜかトラックバックはできます。
 人気ブログに行くと、感じ悪いコメントを見ることがあります。見下したような、いかにも相手を不愉快にしようという意図を感じるコメント。
 ハンドルは「通りすがり」。このハンドルだと私はどんなに素晴らしいコメントでもびびります。このハンドルで素晴らしいコメントをいただいた記憶はありませんが。これでは批判ではなくて嫌がらせです。ネットだから嫌がらせされても仕方ない、というのは時代錯誤です。
 
 と考える時、その言葉は自分にも返ってきます。私が親切でしたことを嫌がらせのように受け取られた時のこと、他の人が善意でしたことを私が意地悪としか思えなかった時のこと。自分が加害者であったことは、忘れてはいけません。
 それでもある行為の価値を決めるのは、受け取る側だと考えます。善意であれば何をしてもいいなら、某宗教の「ポア」も許されることになります。
 
 誰にとっても正しいことではないから、私の考えを正さなければと考える人もいるでしょうけれど、考えの違う人とやり合うのはもうたくさんです。
 ブログには日々新しい方がいらっしゃいます。へとへとになってやっと終わったと思ったら、新しく来た人に同じことを言われたら最初からやり直しです。過去ログ全部読まないとコメントできないのか、と怒られそうです。「全部読んだ」と書きながら説教した人もいましたが。
 
 あと、ブログは仲間内の内緒話ではない、道の真ん中で拡声器で話しているのと同じだ、という例えがありますが、拡声器で話していることなんて私は聞きません。興味なければそう熱心に聴かないでしょう。内緒話の方が耳をダンボにします。喫茶店で面白い内緒話している人結構いませんか。
「ブログに書くということの危険性がわかっていない」
という話が、段々少数派になってきて三丁目の夕日化している気がします。ネットに発信するということの意味は変わってきていそうです。
 
 
 7月19日の記事。他人の意見を変えようとしているのではなく嫌がらせでもないとしたら、否定会話ルールと関係あるかも知れません。
「奥様、いつもお若くてうらやましいわ」
「まあご冗談ばかり、奥様こそおきれいで本当にお恥ずかしい」
みたいなもんですか。会話例が下手すぎ。