批判は受ける側の義務というよりはする側の権利です。その権利をどれだけ尊重できるかが受ける側の度量の大きさです。私は器がオチョコ並です。
個人がメディアとして情報を発信できるようになった、そしてそのことでいろいろな問題が生ずるようになった、というのもここ1、2年のことで、そのうちルールが固まってくるでしょう。たった1年でも、昨年の今頃とは随分違ってきています。
個人がメディアとして情報を発信できるようになった、そしてそのことでいろいろな問題が生ずるようになった、というのもここ1、2年のことで、そのうちルールが固まってくるでしょう。たった1年でも、昨年の今頃とは随分違ってきています。
批判する精神は必要です。いくら私がうるさくてもそう思います。前に、個人が唯一大企業に対抗し得る場がネット
である、ということを書きました。意見を言う場など与えられていなかった一個人が世界中に向けて発信できる、これは大変なことです。
そこで、批判の権利が
「弱者が強者を批判する権利」
から
「強者が弱者を批判する権利」
へのすり替えが起こりました。悪徳商法にだまされた人がネットで声を上げようとしても、説教族が押しかけて
「だまされた方が悪い」
とつぶしてしまうようなことです。
これは私の被害妄想で、実際にそういう場面を目撃した訳ではありませんが、批判精神が強者から弱者に向かう場面はそこかしこで見ます。従来発信側は強者でした。個人が発信手段を持つことで批判される場も得てしまいました。
そこで、批判の権利が
「弱者が強者を批判する権利」
から
「強者が弱者を批判する権利」
へのすり替えが起こりました。悪徳商法にだまされた人がネットで声を上げようとしても、説教族が押しかけて
「だまされた方が悪い」
とつぶしてしまうようなことです。
これは私の被害妄想で、実際にそういう場面を目撃した訳ではありませんが、批判精神が強者から弱者に向かう場面はそこかしこで見ます。従来発信側は強者でした。個人が発信手段を持つことで批判される場も得てしまいました。
こう書くと、自分を弱者だと言いたいみたいですが、それは今のところ言いたくありません。というのも、説教族が、私が攻勢に出たとたん被害者面を始めたからです。相手が弱そうならいじめ、反撃が始まると
「正しいことを言っただけなのに」
と嘘泣きを始める、というのは私の小学校の同級生にもいましたが、こんな自称弱者を容認したくはありません。弱者を武器にして他人を攻撃するようなことは。
批判を禁じたら言論統制になってしまいますが、批判は個人攻撃のためにあるのではない、と信じます。
「正しいことを言っただけなのに」
と嘘泣きを始める、というのは私の小学校の同級生にもいましたが、こんな自称弱者を容認したくはありません。弱者を武器にして他人を攻撃するようなことは。
批判を禁じたら言論統制になってしまいますが、批判は個人攻撃のためにあるのではない、と信じます。
今回のシリーズは、自分に都合のいい材料を集めて自分を納得させるルールを作ろうとしてすべった残骸です。自分は悪いことをしているのではないかという気持ちがどこかでくすぶっているので、ちょっとしたことで再燃してしまうからです。
突っこみどころはあるかと存じますが、趣旨を踏まえて、どうぞ突っこまないでやって下さい。いつくるかわからぬ襲撃に怯えることなく、楽しくやりたいですね。
突っこみどころはあるかと存じますが、趣旨を踏まえて、どうぞ突っこまないでやって下さい。いつくるかわからぬ襲撃に怯えることなく、楽しくやりたいですね。
7月20日の記事。自分が人のコメント消す以上、自分がコメント消されても仕方ない、と思うとなかなか交流のない人のブログにコメントできません。傷つける側になるのも怖いです。出不精ブロガー。なぜかトラックバックはできます。