好奇心をかきたてる謎のワード、気概に関する興味深いエントリー を見つけました。以下、引用は全てここから。
 
プラトンは「たましい」を「欲望」「理性」「気概」の三つに分けました。この「気概」の原語は thymos で、「覇気」とか「気迫」とかとも訳せる語であり、プラトンが理想国家の指導者に不可欠とした資質です。
 
 原語ということはやはり翻訳語でしょうか。欲望や理性と並べるワードか? 別途調べたところ、 thymos はギリシア語で、いくつかの訳語の中に「感情」があります。ほほお、感情。自分的には今までで一番ヒットです。欲望や理性と並べてもおかしくありません。
 気概=感情とは申しませんが、気概が感情を表す言葉、うれしい、悲しいなどと同列の言葉と仮定すると理解しやすくなります。
 
 うれしい、悲しいといった感情語をどうやって覚えたのか、こういう時は「うれしい」こんなときは「悲しい」と場面で覚えてきたような気もします。また、実際にそういう感情がなくてもそう見せなければならない場面があることも、経験的に知っています。
 気概と名づけられる感情が自分の中にあるのか、それを表現しなければならない場面ではどう表現するのか、うれしそう、悲しそう、のように気概がありそうな記号を他の人は知っているのでしょうか。
 
 さらに引用。
 
マキャべリは近代政治哲学の祖であり、現世で自分の生き方を支配するには、かく生きるべしという理想からではなく、かく生きているという現実から手がかりを引き出すべきだと考えた。
 
 おお、いいこと言うぞマキャべリ。話の流れからすると
「かく生きるべしという理想」
が気概にあたるのでしょうか。
 どちらかというと thymos の方かも知れません。いろいろ使用例を見ますと、気概より thymos の方がわかりやすそうです。しっくりくる日本語訳がなくていろんな言葉があてられていますが。
 
 thymos は欲望や理性と対立するのか、あるいはコントロールするのか、心を3分割しているところは、前にアメブロ版88コメント で盛り上がった自我、超自我、エスの関係を思い出させます。まだまだ、何かありそうです。
 
 
 11月11日の記事。感情を表す言葉のように、実態が自分の中にしかない言葉は、「リンゴ」「テレビ」「学校」などと違って、本当に意味を他の人と共有できているか自信ありません。だから
「やる気がない」
と言われると、そうでないことを証明できず
「そうなのかな」
と思ってしまいます。気概も、自分の中の何を指すのか、あるのかないのか今もわからずにいます。この時期は哲学的な言葉に惹かれました。
 ラストの幼馴染の結婚式で
「僕が代わりに笑ってあげる」
と言ったセリフは、その前に出てきた回想シーンの
「私が代わりに怒ってあげる」
にかけているのだということを、2ちゃんねるを見て初めて知りました。ドラマの伏線は難しいです。小説や漫画だとその辺が多少説明的に描写されるのでわかりますが。
 
 今回は感情移入できるシーンが少なくあまり面白くなかったのですが、2ちゃんねるでは絶賛されていました。いかにもドラマドラマした作りだと思ったのですが、そこがよいのですね。
 ラストシーンの次に絶賛されていたのが、結婚の説明を受けて自分も結婚するのか、と聞く主人公に母親が
「結婚はする人もしない人もいて、どちらがいい悪いということはない」
という内容を言葉を選びながら説明するシーンです。ちょっとわかりづらいけど、ドラマの限界でしょう。まさか
「あなたは結婚できない」
と言う訳にもいきません。実際、絶対できないとは言い切れないし。普通は
「いつかそういう人と出会えたら」
みたいなことを言うのではないでしょうか。
 
 うえええ、また思い出してしまいました。
「結婚できますよ」「あなたに合う人はきっといます」
結婚について書くとコメント欄にも出没する無責任ワード。その根拠のない希望的観測こそが、私を混乱させる定型発達者の「嘘」です。
 そんな人がいるんなら今すぐ連れて来い、連れて来れないならいい加減なこと言うな、親戚の集まりで暴れたのです。親と違って親戚というのは無責任です。見合いのひとつも世話してくれないのに、その場限りの言葉だけ撒き散らします。
「結婚できないと思いこんでいるだけ」「いい人いるって、絶対」
 
 結婚を総理大臣に入れ替えたらどうでしょう
「私は総理大臣になりたくないしなる能力もない、なっても幸せになれないと思う」
別に変じゃありませんよね。同じように思う人たくさんいますよね。総理大臣になろうという気概が欲しいとか言いませんよね。総理大臣の部分を結婚に置き換えるとたちまち否定されます。
「やってみないとわからないじゃない」
試しに結婚してみてうまくいかなければ別れればいいってこと?
そんないい加減に考えたくない、というのはわがまま?
「これからいい出会いがあるかも知れないよ」
かも知れないって、頭上に爆弾落ちてくるかも知れないし、そんなこと言い出したらキリがないのでは?
 
 ああ、そろそろ説教されそうな展開です。私の文章が。今の私なら
「何て受け取り方するんだろう」「そんな意味で言っている訳ではない」
とあきれられる理由は十分わかりますが、できないことを一生懸命やろうという気概が欲しいということですな人々には私の言葉は通じません。長山藍子(母親役)の
「できることを一生懸命やればいい」
には感動しても。そして彼らの「優しさ」も、私には通じないのでした。
 
 なお、「それはこういう意味です」「こう対応したら」というコメントはしないで下さい。
 
 
 11月9日の記事。
「一生懸命やろうとする意志がない」
と説教されて一生懸命やろうとすると
「一生懸命やるだけでは意味がない、結果を出さなければ」
と説教されるような気がします。どっちやねん。両方そろえろということかも知れませんが、両方そろえると今度は別なことを説教されそうです。結婚すれば「子供は?」1人生まれれば「2人目は?」というアレですね。いつになったら幸せになれるのでしょう。
 通勤電車のつり革につかまってウトウトしていたのに、目の前の光景に一気に目が覚めました。20代サラリーマン風の男性が、指しゃぶりをしています。5本の指を丁寧になめ終わると、ハンカチでふいてまたやり直しています。こういう時は
「人前で指しゃぶりをしてはいけませんよ」
と注意するのではなく、逃げるのです。
 しかし満員電車の中、思うように動きが取れません。もしこの指しゃぶり男が先に降りることになって、その弾みに自分か自分のバッグにあの指が触れたらと思うと恐ろしく、私が先でありますようにと祈ります。
 この人、会社でも指をしゃぶっているのだろうか、いや、会社ではしないかも、逆に会社のあの人やこの人が電車の中では指をしゃぶっていたりしないだろうなと恐ろしい妄想が渦を巻きます。
 
 昔、会社のおじさんに、指しゃぶりではありませんが、書類をめくる時指をなめる人がいました。それがくせになっているのか、書類などを見ている間ずっと舌を出して豪快にペロペロなめていました。
 電車の指しゃぶり男からは逃げられても会社の人からは逃げられません。その人が散々なめた指で扱った書類を受け取るのも、同じ電話機やパソコンを使うのも嫌でした。
 とうとうその人の上司に頼んで注意してもらいましたが、その人との人間関係は悪くなりました。その上司も私の言い分はわかってくれましたが
「でも年取るとそうなるんだよね」
とやや同情的でした。
 

 当時は死ぬほど気持ち悪くて当然の要求だと思っていましたが、これももしかしたら私に寛容さが足りなかったのかと思い返します。
 気が利かないことなんかよりはるかに犯罪的に見えますが、こういう人たちは案外
「遠い世界にいる人」
ということで許されてしまうのかも知れません。
 
 
 11月6日の記事。Yahooブログでは異文化コミュニケーション論で盛り上がっています。そのうちこちらにも写すことになろうと思いますが、こういう対話ができる人たちとめぐり会えてとてもうれしいです。しかし心の狭い私は指なめおじさんを受容できないのでした。
 知人宅に遊びに行って買い物に出る際、1人がマンションの鍵をかけている間にもう1人が先に行ってエレベータを呼んでいました。私は一番先に玄関から出たのに、ボケッと突っ立っていただけでした。
 次回はこういう配慮をしなければ、と心に誓うのですが、買い物から帰ってきて夕食に出かける時にはすっかり忘れていて、また先を越されてしまいました。
 メモに書いておけばできると思うのですが
「複数でマンションの一室を出る時は、誰かが鍵をかけている間に先にエレベータを呼びに行く」
と書いたメモを持って常にチラ見していたら、それはそれで感じ悪いように思えます。
 
 その後焼肉屋に行きました。焼肉と言う食事は気づかいのできるできないが顕著に現れます。
 小皿を配る、飲み物を注ぐ、肉を焼く、ひっくり返す、他の人がねらっている肉は取らないようにする、自分だけが食べていないか、他の人と均等に取っているか観察する、焦げるまで誰も取らなかったら自分が取る、飲み物が少なくなったら次何頼む、と声をかけるなど、複数の気づかいを同時進行しなければなりません。
 私は何ひとつできずに後手後手に回り、次はうまくやらなくてはと神経を尖らせます。
 
 知人たちは私が気の利かない人間であることを知っています。私のいつになく異様な様子に
「そんな気にしなくていいよ」
と気づかってくれます。気づかおうとしてかえって気づかわれる自分にがっくりです。どうやってそのように気づかえるようになったか聞きました。
「社会人になった時の飲み会で、気づかいができないと先輩に怒られるから」
私も怒られたけど全然できるようになりませんでした。
 反射神経が鈍いというか
小皿がきた→みんなに1枚ずつ配らなくては
と認識している間に他の気の利く人がやってしまいます。
 
 これも、焼肉10ヶ条みたいなのを作って傍に置いてそれを見ながらだったらできるかも知れませんが、そんなの横に置いていたら一緒の人にかえって気を使わせてしまうことでしょう。
 優しい人は
「気にしなくていい」
と言いますが、本心とは限りません。この人はもうしょうがないなと認めてもらった方が楽は楽ですが、説教族は
「努力が足りない」「甘えている」
と非難するでしょう。現実に責められていなくても、過去の自分を責める言葉が反響します。一生消えない烙印のようです。
 
 
 11月5日の記事。気の利かない自分も嫌ですが、すかさず脳内に登場する説教族はもっと嫌です。消えてくれ。
 電車に乗りました。そこそこ空いていました。やがてじりじり人が増えました。自分がゆるゆるに座ってはいないだろうかと神経を尖らせました。ゆるゆるは隣に座る人との距離感と社内の混み具合で決まります。気にし始めるとおちおち寝ていられません。
 
 3人がけのシルバーシートにおばさん2人が座っていました。1人は端の席、もう1人は真ん中の席でしたが、ゆるゆるでした。そして、片方の手をもう一方の端の席に投げ出していました。その席に誰かが座ることはおそらくためらわれることでしょう。
 やはり、ゆるゆるに座るのは若者だけではない、と確信しました。私の記憶では、若者よりも年配者の方がゆるゆるに座る印象が強くありました。そこに、自分が年配者より若者に近いという思い上がりの精神が、全く反映されていないとは言えません。
 
 そこへおじさんが乗ってきました。おじさんは果敢にも、おばさんの手のある場所に浅く腰かけました。おばさんは渋々手をどけました。しかしまだ座り方はゆるゆるのままでした。
 私はおじさんを心の中で応援しました。おじさんの果敢な挑戦に、おばさんは少しだけずれました。おお、ついにゆるゆるが解消される、その時、思いも寄らぬことが起こりました。おじさんはあっさりおばさんとの戦いを放棄し、席を立ってどこかで行ってしまったのです。
 
 遠目に他の空いた席を見つけたのか、おばさんとの戦いにふとむなしさを感じてしまったのか、真相はわかりません。おばさんは次の駅で、端に座っていたもう1人のおばさんと一緒に降りてしまいました。おしまい。
 
 
 11月3日の記事。日常の何気ない光景を詳細に実況するのはそれなりに面白い(自己満足)です。このスキンにしてから記事のタイトルが見えないことがあるのですが、他の方もそうでしょうか。