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 著者が生前語っていた講話を元に編集された、僅か62頁の冊子。
 著者の知花敏彦さんがどんな方なのかは、下記リンクで。2015年1月初版。
   《参照》  『これが無限の[光フリーエネルギー]発生の原理だ』河合勝(ヒカルランド)《1/3》
            【知花敏彦氏】
            【ピラミッドの秘鍵】
 

 

【徳を積むとは】
 『与えよ、さらば与えられん』の法則ですから、与えないで得ることはありません。徳を積むということは、犠牲になることなのです。奉仕をすることなのです。徳をしたい人は損にならなければなりません。損することは徳を積むことなのです。(p.6-7)
 徳については、「良き行いをすること」、と説明されるのが一般的であるけれど、「損をすること」という極端な説明に、一瞬「えっ」と思うのではないだろうか。しかし、自分の損は誰かの得なのだから、それも社会全体(循環するエネルギーフィールド)の視点では「良き行い」なのである。
 自分の「損」=誰かの「得」=自分の「徳」である。
  《参照》 『プレアデス星訪問記』上平剛史(たま出版)《前編》
         【社会を変える方法】
         【神の力を招く方法】

 

 

【徳を積む人は奉仕をしなければなりません】
 徳を積む人は奉仕をしなければなりません。こういうことをやったら得をするということで、計算済みでやることは奉仕にはなりません。(p.8)
 今日の地区の自治会では、役員には労賃を払うというシステムが当たり前になってしまっているらしい。「金を払わなければ、誰もやり手がいない」という話を聞いたことがある。
 しかし、日本も僅か50年ほど前までは、市町村長や助役という役職者たちはみな手弁当(無償・無給)だったのである。わずか50年ほど前までの日本の地方自治推進者たちは、徳を積むシステム( give & give )を実践していたのだけれど、近年は、おおかた有償、即ち、徳を積めない単なる経済システム( give & take )になってしまっている。それどころか、時代状況の変化を無視して特定の利権を隠すようにして自治会費を収奪する犯罪システム( take & take )に成り下がっているだろう。
 チャンちゃんが住んでいる山梨県甲斐市では、甲斐市発足時(2004年)から自治会区長に対し十数万円が支給されるようになっていたらしい。そして、それを機に、「区の決まり事を決定する評議委員になれるのは、区長経験者のみ」という排他的かつ独善的な決まりをつくり、区長が市から報酬を得ていることを隠蔽し続け、欲心に満ちた数人が繰り返し区長をしてきたらしいのである。このことが偶々発覚したのは昨年(2018年)。近年のオヤジどもの「欲心の深さ=道徳レベルの低さ=徳のなさ」が実に良く分かる話である。
 儲けよう儲けようとする者は無欲ですか。欲望ですか。欲望は奉仕になりません。欲の深い人が奉仕をしたためしはありません。他人の喜びを、自分の我が喜びとして分かち合える人、これは奉仕精神といいまして、精神は奉仕です。皆さん方は非常に奉仕に長けていますか。欠けていますか。(p.9)
 今や地方には、年額1万円の自治会費ですら分割にしてくださいと言う人々――月額3万円の年金で細々と生きている人々――が少なからずいる。にもかかわらず、チャンちゃんが住んでいる集落の自治会は、使途明細すら示すことなく、自治会費利権にぶら下がる欲心に勝った者たちがおしなべて出席する総会の多数決で自治会費の増額を決定する、という凄まじさである。経済的弱者からカツアゲした自治会費で飲み食いすることを平然となす慈悲心ゼロのドン引き人間たちによる完全腐敗システムに成り下がっているのである。
 これまさに、奉仕とは真逆の収奪。50年ほど前までの自治会は、奉仕( give & give )を基とする「徳を積むシステム=積徳システム」であったけれど、今日の自治会は利権収奪( take & take )という「自らの徳を著しく損なうシステム=不徳システム」に成り下がっていることを全く自覚していない。
 国政にしても地方行政にしても最小単位の地区自治会にしても、どこもかしこも酷いものである。
  《参照》 『日本民族の役割』助安由吉(エイト社)
          【穢れた行政】
          【多数決の否定】

 

 

【道徳とは】
 道徳というのは損すること、犠牲です。道徳は得することですか、損することですか。
 犠牲精神を教えることを道徳と言います。

 今の学校では犠牲精神は教えません。欲望一点張りで教育します。教育したら金持ちになるとか、良い地位に就ける、良い会社に入れるとかといいます。今の教育社会では動機が全く狂っているのです。(p.11)
  《参照》 『超人「船井幸雄」の近未来予測』柳下要司郎(あ・うん)
         【「損得勘定」ではなく「尊徳感情」】
  《参照》 『宇宙銀行』植西聰(サンマーク出版)
         【徳を積み立てる銀行】
         【教育が目指すべきは】
  《参照》 『新しい世界観を求めて』佐高信・寺島実郎(毎日新聞社)《後編》
         【クラーク博士と石橋湛山】

 

 

【有り余った分を与えても、奉仕にならない】
 奉仕というものは何かというと、与えること、自分が損をすることです。あなたは損しないで他人に与えることはできますか。
 しかし、有り余った分を与えても奉仕にはなりません。「これだけ余っているから与えましょう」というのは、全くの奉仕にはならないのです。
 本当は、自分より困っている人がいるならば、無い物でも与えなければならない、与えなければならないのです。(p.22)
 「余っているから、どうぞ」では、“奉仕にならない=徳にはならない” と言っているけれど、みすみす無駄にしてしまうよりはマシだろう。それに気を使わすことなく無償で受け取って欲しい故に「余っているから・・・」と言う場合だってあるだろう。
 少なくとも、「(余り物だとしても)無償であげたい」という精神は、徳にならないとしてもマイナスではない。

 

 

【本当の奉仕と 取引の奉仕】
 よくこういうことをいう人がおります。これはもう私が体験者です。
 例えば、勝手に私に何か奉仕してくれた人が、「あの知花は、私はあんなことをしてやったのに、お礼の一つだっていってくれない。あれは偽者だ」というのです。お礼を言われるために奉仕、尽くしたのでしょうか。そういうのは本当の奉仕だったのでしょうか。取り引きの奉仕だったのでしょうか。取り引きだと思います。(p.29)

 本当の奉仕というものは得るための奉仕ですか、与えきりの奉仕ですか。与えきりでなくてはなりません。得るためにやったのならば、それは奉仕にはなりません。(p.30)
 この世次元ですべての善悪・因果の決済は完結すると思っている人は、このような考え方が理解できないはずである。
 「徳」は、「天の蔵(に積む)」とか「宇宙銀行(に積み立てる)」というバックヤードを視野に入れてこそ成り立つ概念である。
 『その奉仕、徳は天に積みなさい』ということです。
 徳はこの世ではなく、天の蔵に徳を積んでいただきたいと思います。(p.59)

 

 

【心清き者よ、幸いなれ】
 今、皆さん方は、金・銀や物のために生きようとする浅ましい心を捨てなければなりません。金・銀が人間を幸せにしたためしはないのです。金・銀は人間を幸せにするでしょうか。金・銀が、物が、人間を幸せにするのでしょうか。何が幸せにしますか。

 心です。心の汚い人間が幸せになった例はないのです。
 ですから、『心清き者よ、幸いなれ』です。 (p.38)
  《参照》 『清く美しい流れ』田口佳史(PHP研究所)
         【清明心】

 

 

【無殺生】
 無殺生というのは、生かすところに、生きるところに、物を持って行くことです。必要とするところに物を動かして持って行くことが、無殺生です。金持ちにいっぱい持って行くことは殺生である、ということなのです。よく皆さんは身内の者、目上の者とか、そういうところに、金持ちのところに、豪華なものを持って行く癖があります。それは、私はあまり望みません。望みません。・・・中略・・・。
 そうすると、貧富の差が出てくるわけです。(p.47-48)
 チャンちゃんは、「出世? それがどうした」と思っているような、オメデタイ人間だから、お歳暮だとかお中元だとかいうものを送ったことなど1度としてない。そんなことに使うカネがあるなら、神社の賽銭箱に入れる方が遥かに爽快である。
  《参照》 『「人生二毛作」のすすめ』外山滋比古(飛鳥新社)
            【義理を欠け】

 

 

【腹八分の本当の意味】
 腹八分というのは、自分は腹八分食べて、後の二分は貧しい人への奉仕を示しています、奉仕を示しているのです。そうするとその人は健康になります。自分だけ腹いっぱい食べるということは、自己満足です。自分が食べた、余った物を与えるのではないのです。自分が八分食べて、後の二分は他人様に尽くす、ということなのです。解りますね。(p.50)
 「腹八分目」という標語のような諺は、肉体的な健康維持方法を示しているだけではなく、“後の二分を他人様に尽くす” のであれば、徳が積まれ、霊的健康にも恵まれると言っているのである。
  《参照》 『テラヘルツ波エネルギーの神秘とその応用 第1巻 基礎編』新納清憲(parade books)
          【霊的健康】

 立派な家に住み高級車に乗り、下腹部がだらしなく肥えた企業家であるなら、「社会のため、他人様のため」などとどんなに立派なことを語っていても、最後は誰かに負債を押し付けてトンズラするのである。そしてそのカルマ的果報は、生霊等の霊的不健康に見舞われて家族離散くらいの結末だろうか。

 

 

【真我と自我】
 真我は与える喜び、自我は得る喜びです。物を搔き集めようとしている人は、自我ですか、真我ですか。どちらでしょうか。
 与えようとするのは真我です。

 与えることから、まず始めなければなりません。
 得る秘訣は与えることです。与えないで得るものはありません。
 『与えよ、さらば与えられん』 です。・・・中略・・・
 駆け引きの与え方では駄目です。
 与えきりの愛です。 頑張ってください。 (p.59-61)
 これが、本書のクロージング・センテンス。
 与えっきりの愛とは、Give & give を実践して生きること。

 

 

<了>